一年前……。
同じ大学のキャンパスの隣、古い神社の境内を、四人で歩いていた。
室山、美鈴、嗣務に、室山の妹、由唯が一緒だった。
室山章人の渡米が決定し、準備に余念がない頃でもあったが、
その前に一度、大学の研究室というのを見てみたい…と、由唯が言い出したのだ。
「それなら、美鈴ちゃんも誘うといいよ」
そう言ったのは室山だ。
由唯に誘われた美鈴が声をかけ、その時も「付き人」の嗣務が一緒に来た。
一渡り研究棟を見て回ると、
由唯は、隣の神社の上にある公園に行ってみようと言った。
はっきりと物を言う由唯に、茫洋とした美鈴は否と答えたことがない。
嗣務はぶっきらぼうに頷いただけ。
いつでも行けると思うせいか、意外と近くのことは知らなかったりするものだ。
室山もご多分に漏れず、その神社には、参拝どころか足を踏み入れたこともない。
「この暑さにめげないなんて、元気だね…」
出発日が迫れば、近所をぶらつく時間もなくなる。
軽口を叩きながら、室山も同道した。
そして公園へと上がる坂道で……由唯は消えたのだ。
あまりに唐突な失踪。
当然、警察からの取り調べもあった。
しかし、暑い中でジョギングをしていた近所の男性と、
道に迷って偶然通りかかった中年女性の旅行者が、その場に居合わせていた。
「気がついたら、女の子が一人、いなくなっていたんだ。
いや、確かだよ。きれいな子がいるなあと思って、
年甲斐もなく見とれてたんだよ。
そうしたら、その子が…」
「ダブルデートかしらって、思ったの。だから間違いないわよ。
四人だったのに、私がちょっと地図見て顔を上げたら、三人よ。
もう、驚いたわ~。私、心臓が悪くてね、だから…」
第三者である彼らの証言のおかげで、
三人が由唯の行方不明に関わっているという疑いは晴れた。
しかし由唯はその後、戻ることはなく、
その日のことは、それぞれの心に棘のように刺さったままだった。
室山の渡米も中止になった。
そして、一年後の今日。
同じ日に、同じ場所を訪れたからといって、どうなるものでもない。
単なる気休め、傷口を舐め合うようなものだ…と室山は思う。
が、それを必要とするのが人間なのかもしれない。
生きていくために為さねばならぬ、数多の不合理の一つだ。
「美鈴、俺も一緒に行く」
踵を返して早足に歩き出した美鈴の後を、嗣務が追う。
ちり…と嫌なものを感じながら、室山も歩き出した。
その時、太陽の向きがふいに変わった。
背にしていたはずの太陽が、いつのまにか三人の右側からまぶしく照りつけている。
周囲を見回せば、キャンパスの風景は消え失せ、
ここは、
あの時の、公園へと上っていく道。
坂の下から、保育園の子供達の元気な声が聞こえてくる。
道は、古い社を回り込むように大きく左にカーブしている。
「ここで、私…転んだんだね」
背後から、熱にうかされたような美鈴の声がして、室山は振り向く。
先頭に立っていたはずの美鈴が、今は一番後ろにいて、
坂の途中から室山と嗣務を見上げている。
何かが…起きた。
あの時のように。
「美鈴っ!俺から離れるな!!」
嗣務が美鈴に駆け寄った。
嗣務の言葉が耳に入らなかったかのように、美鈴は続ける。
「私が転んだから、章人さんも嗣務くんも、私の方を振り向いた」
そうだ。
先頭を歩く由唯を、誰も見ていない一瞬があった。
「私、大丈夫なのに……転んでも痛くないのに…」
「痛く……ない…」
刹那、室山の眼に、陰が射す。
「私のせいで、みんなが由唯ちゃんから目を離したから…」
「違う!そんなこと考えてたのか、美鈴!」
嗣務が、叱りつけるように言った。
と、その時、坂の上から中年女性が下りてきた。
きょろきょろと辺りを見回している。
続いて後ろから、ジョギングの男性が走って来る。
同じだ……
まるっきり同じことが繰り返されている。
いや、それとも…
室山は叫んだ。
「ここから逃げるんだ!!」
しかし……
いつの間にか、周囲の音が消えている。
蝉時雨も、子供たちの声もない、全き静寂。
その静寂の向こうから、美鈴の耳に、遠い音が届いた。
「あ…」
美鈴は、空を見上げる。
「この音……夢から覚める音…だ」
嗣務が美鈴の腕をつかむ。
「走るんだ、美鈴!!」
その時、三人の前方に、うっすらと少女の輪郭が浮かんだ。
「あれは…」
「まさか」
「由唯ちゃん!!」
理由はない。
そうだという確信だけが、三人にはあった。
嗣務の手を振りほどき、美鈴が由唯の影に駆け寄ろうとした。
その時、中年女性とジョギングの男性が消えた。
いや……
坂の途中から姿が消えたのは……
三人の方だった。
周囲の景色がぐにゃりと曲がる。
次の瞬間、何もない空間に、三人は放り出されていた。
「美鈴ちゃん!!」
「美鈴っ!!」
室山と嗣務が、美鈴に向かって手を伸ばす。
しかし、見えない激流が三人を押し流した。
激流は抗う術のない三人を翻弄し、やがて滝となって流れ落ち、
滝壺の底の渦の中に飲み込んだ。
その渦は、鋭い刃のように荒れ狂い、三人に襲いかかる。
美鈴の頬が切れ、服を裂いて腕が切れた。
「うわっ!」
「ぐっ…!」
そして美鈴の眼前で、嗣務と室山も切り裂かれ、傷ついていく。
非現実の光景の中で、二人から飛び散った血は本物だった。
「いやああああああっ!!!」
美鈴は叫ぶ。
「嗣務くん!!章人さん!!」
必死に手を伸ばすが、届かない。
二人の身体は、渦の底に開いた黒い淵へと沈んでいく。
「だめ!行ってはだめ!!」
ふいに、激流の中で手足が自由になる。
美鈴は、二人を追って黒い淵に飛びこんだ。
もっと速く……
しかし、二人はどんどん遠ざかっていく。
黒い深淵に二筋の赤い糸を残して。
あきらめない……
だが、二人の姿は闇に飲まれて消えた。
美鈴は、一人になった。
それでも、進む。
こんな流れの中で、なぜ眼を開いていられるのだろう…。
切り裂かれた傷が……痛い。
ここは、夢じゃないんだ。
そう思った時、涙があふれ出た。
視界が滲む。
「神子……」
ふいに、周りが凪いだ。
「神子を……泣かせてしまった…ごめんなさい…」
気がつけば、白く透き通った壁が、美鈴の周囲を囲んでいる。
「あなたは……!!」
壁と見えたのは、幾重にも巻いた、長く巨きな身体。
「やっと、会えたのに…泣かせてしまった…私の神子…」
「龍…龍なの…?」
「そうだ…神子」
龍の声は、ひどく弱々しい。
「どうしたの、龍?」
「時空の流れが……乱れている」
美鈴を守る白い龍の身体が、激流の刃に傷つけられていることに気づく。
「龍…あなた、ケガをしているの…」
「大丈夫。私は…神子を守るよ」
「お願い!嗣務くんと章人さんも助けて!」
「神子と一緒に狭間に入った者たちのこと?」
「できるよね、私を助けたみたいに、二人を助けて」
ずん…!と、鈍い震動が走った。
オ・オ・・ォォォ・・・・・ン!!
狭間の空間に、白い龍の咆哮が響き渡る。
「龍、龍!どうしたの?!」
龍の身体が解けていく。
「ごめんなさい…神子…今の私は…彼の地に入れない」
「龍!」
「遠い地に、降り立つよ」
「どこ?どこに行くの?」
「白く清浄な雪の大地。
神子、私はもう……この姿でいることが…できない」
プロローグ
[1.まどろむ龍]
[2.神泉苑]
[3.遠い鈴音]
[4.夏]
[5.襲来]
[6.夏・ふたたび]
間章 北の夢幻
[1.地]
[龍の夢・目次]
[キャラクター紹介]
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