高くそそり立つ崖に半ば埋もれるように、
異様な堂がひっそりと建っている。
御仏の坐す場所として造られたものでないことはすぐにわかる。
入り口は正面の扉のみ。
日の射さぬ高い庇の奥に、細い隙間がある。
明かり取りのためであるならば、あまり効果はなさそうだ。
装飾もなく、ただ堅牢な造りだけが見て取れる。
細い月のかかる深夜、崖に梯子がかけられた。
荷を背負った人影が二つ、梯子を上り、崖際の細道を伝い、堂の屋根に出た。
彼らは屋根の一画を開き、中に縄を付けた荷を下ろす。
そして、すぐに屋根を閉じると、そそくさとその場を立ち去った。
地上に降り立ち、幽かな月の光に照らされる堂を振り返ると、
一人が思い出したかのように、深い吐息をついた。
もう一人が咎めるように言う。
「同情か」
「いや、そんなことはない。だが…」
「だが、何だというんだ」
「あまりよい気持ちではない。お前は、何とも思わぬか」
「……仕方あるまい。ひと思いに命を断てるならば、皆、楽になれるのだが。
中の子も、そうしてもらった方が、幸せというものではないか」
「滅多なことを言うな。貴い血の流れる方なのだぞ」
「しかし、忌まわしき血も持っている」
「確かにそうだが……。私の子が、同じ年頃だ」
「己と引き比べてどうなるというのだ。苦しくなるだけだ」
「それより苦しいのは、あの子だろう」
「やはりお前、同情しているな」
「……子供をあのような所に閉じこめて、ただ生かしておくだけとは」
「閉じこめてはおらぬ。出口には鍵も無い」
「だが…あれでは、出ようもないだろう」
恐ろしげに、堂の扉を指さす。
中からは、かすかな唸り声が漏れ出ている。
「あの子供の中の血、貴きものが勝るならば、
試練を乗り越え外に出られることだろう」
「さもなくば、狂うて死ぬか、食われて死ぬか、
草が枯れるように死んでいくか…か」
「生まれてはならぬ子だったのだ。
その子に、こうして生きる機会を与えているのだぞ」
先程よりも、もっと深いため息が漏れた。
もう一人の男は、刀の柄に手を掛けた。
「かの忌まわしき者のために我が一族の被った汚名、忘れたわけではあるまい」
「………」
「よいか、もうこれ以上の話は無用だ」
「……わかった」
その堂の中では、男の子が一人、膝を抱えてうずくまっていた。
昼には、かすかな光でかろうじて周囲が見える。
しかし、夜は真の暗闇。
高い天井から下ろされる荷の中には、灯りの油もある。
小さな部屋には、燭台もある。
しかし、男の子は火を灯すことはしなかった。
灯りの油は貴重なものだということを知っている。
使ってはならない、と思う。
自分のような者のために、使ってはならない…と。
自分にはその資格はないと思う。
否、むしろ、暗闇に耐えることが、自分への罰なのだと思う。
生まれてきて、まだこうして生きている自分への。
幾度、言われたことだろう。
生まれてはならなかったと。
母は、朧な記憶の彼方。
美しい着物と、あたたかな手だけを、覚えている。
母が亡くなると、乳母にどこか遠い場所へと連れて行かれた。
ひっそりと身を隠すように暮らしていたが、
乳母は慈しみ育ててくれた。
だが、乳母の周りの者達は、自分をひどく嫌がり、決して近づこうとはしなかった。
彼らは、乳母を責めた。
「生まれてはならぬ子を」
「生まれながらに罪を負った子を」…と。
乳母は労苦がたたり、病を得てあっけなく身罷った。
そして、喪も明けぬうちに、恐ろしい人達が自分を連れに来たのだった。
堂の完成を待って、ここに入れられた。
いつでも出てよい、とも言われた。
ここを出ることが、お前の中の佳き血の証であるから、と。
よくわからなかった。
ただ、自分が罪の子だということだけがわかった。
自分がいるために、人々が不幸になるのだと知った。
ここに……いよう。
小さな心で、そう決めている。
ここにいれば、誰も傷つかない。
ここにいれば、誰からも責められない。
闇が薄白くなった。
朝が来たのだ。
男の子は立ち上がり、水桶から椀に水を掬い取った。
大事に椀を抱え、小さな部屋を出る。
その外は、高い壁に仕切られた、細く入り組んだ迷路。
しかし、男の子は迷うことなく進む。
幾度となく歩きまわり、その全体の姿を理解していた。
行き止まりも分岐も、全て覚えている。
そして、その終点には、堂の出口。
出口の扉の前には、巨大な怨霊がいる。
辺りを満たす障気を、男の子ははっきりと見ることができる。
怨霊は、男の子の気配に、身を捻るようにして大きく咆哮した。
と、男の子の足が止まる。
その手から椀が落ち、水がこぼれた。
「あ…あなたは…?」
目の前に、少女が立っている。
男の子より、少しだけ、年が上だろうか。
「こんにちは」
少女は、にっこりと笑った。
「なぜ…ここに……」
「あなたの泣いている声が聞こえたから」
「わ、私は…泣いていません」
少女は笑顔のまま、黙ってかぶりを振り、男の子の手を取った。
「行こう」
そのまま、怨霊の待ちかまえる扉に向かおうとする。
「い、いけません!そちらには怨霊が…!」
慌てて手を引っ張るが、少女が意に介する様子はない。
「あなたが怨霊に食われてしまいます。
それに私は……」
きつく唇を噛む。
「外に出てはならないのです」
少女は、男の子の眼をじっとのぞき込んだ。
「本当に、そう思うの?」
深い色の瞳が見ている。
澄んだ、真っ直ぐなまなざし。
自分をこのように見つめてくれる人は、誰もいなかった。
つないだ手が、あたたかい。
人のぬくもりがこのように暖かなものだということを、
ずっと忘れていた。
涙がこみ上げてきた。
自分の感情に、負けそうになる。
男の子は必死で叫んだ。
「わ…わかりません!
私は、私の罪は……ここにいることでしか…」
その声が、だんだん小さくなり、男の子は黙ってうつむいた。
床に点々と雫の跡がついていく。
しかし、少女は男の子の顔を上げさせた。
「眼をそむけないで!!
あなたは、本当にここにいたいの?」
孤独、恐怖、押し潰されるような闇
あてどなく繰り返す、何もない時間
本当の心と向き合ったなら、自分は狂ってしまう…
だから、気づかぬふりをして、
自分への罰なのだと、言い聞かせて…
しゃくりあげながら、やっと言葉を形にする。
「私は……外に……出たい…です」
やさしい笑顔が答えた。
「うん、わかった」
その時、絶望的な事実を思い出す。
「怨霊が…」
しかし、少女は笑顔のままだ。
「大丈夫」
そして、少年の手を取り、巨大な怨霊に真向かう。
キシャァァァ……!!
怨霊が牙を剥き、障気を吐き出した。
「危ない!!」
しかし、障気は少女の前でかき消えた。
鈎爪を振り下ろしても、少女に触れることができない。
「あ、あなたは……いったい…」
少女は、戸惑う男の子に言った。
「この怨霊、苦しんでいるね」
「あなたも、そう思うのですか」
「うん。それ…」
そう言って、少女は床に落ちた椀を差した。
「毎日、お水を上げていたんだね」
「はい。……恐ろしい怨霊ではありますが、吠える声が、とても苦しげで…」
少女は怨霊に向き直った。
「あなたを封印するよ」
グ…ギ…ギャ……
「ごめんね。あなたの言葉、私には分からないの。
でも、あなたが苦しんでいるのは、わかる」
ギィィ……
少女の身体が白い光を帯びて輝く。
「あなたは…御仏の使いなのですか…」
少女はかぶりを振り、男の子に言った。
「あなたの力も、借りるね」
そして、両の手を怨霊にかざす。
少女は、封印の言の葉を唱え、
溢れ出たまばゆい光に、男の子は思わず眼を閉じた。
「もう、大丈夫」
少女の声に眼を開くと、怨霊の姿は跡形もなく消え去っていた。
その場所に、ほっそりとした若竹の枝が落ちている。
「もしかして…これが…?」
「うん。元の姿に戻れたんだね。
あなたがお水を上げたから、枯れないですんだんだよ」
そう言って、少女は枝を拾い上げ、男の子に渡した。
「持っていてあげて」
「はい」
素直にそう言って、青くつややかな枝を受け取る。
そして男の子は、扉に手を掛けた。
重く大きな扉が、ゆっくりと外に向かって開いていく。
まぶしい光に、一瞬、眼を細める。
やっと眼が明るさに慣れると、堂の前に大勢の人のいることがわかった。
中には、男の子をここに連れてきた者もいる。
足を止めそうになるが、少女が後ろから言った。
「さあ、行こう」
その声に押されるように、外へと歩み出る。
堂の前の人々は、寂として声もなかった。
異変の報せに、ここへと駆けつけた、一族の人々だった。
堂が白い光に覆われているとの言葉に、半信半疑だった人々も、
それを目の当たりにして驚愕した。
そして怨霊の咆哮がぴたりと止み、
皆が見守る中で、堂の扉が開いたのだ。
中から、青々とした若竹を手に現れたのは、
他ならぬ彼ら自身が閉じこめた男の子。
出ること能わぬはずの堂から、怨霊に害されることもなく、
外界へと歩み出てきた。
男の子が歩みを進めるにつれ、一人、また一人と、頭を垂れ、膝をついていく。
男の子は、自らの貴き血の証を示したのだ。
しかし彼らの目に少女は見えず、
男の子も、二度とその少女の姿を見ることはできなかった。
北の夢幻
[1.地]
[2.天]
第1章 彼方より来たりて
[1.暁の雪原]
[龍の夢・目次]
[キャラクター紹介]
[小説トップへ]