藤原邸の怪異

(泰継 ゲーム本編前)


安倍家から依頼の書状が届き、泰継は久方ぶりに京の街に下りてきた。

曇天の空の下、空は雨雲を含んで重く暗い。

北山からは長い道のりだったが、
泰継のすたすたと速い足取りは庵を出た時と全く変わらず、
顔には汗のひとしずくも、表情もない。

だが眉をわずかにひそめている。

依頼の内容は一刻を争うものだ。
にも関わらず、書状は極めて大仰な形で届けられた。
式神を打つでもなく修行中の見習いでもなく、
一人前の術者が供を従えて北山の庵まで携えて来たのだ。

そこには修辞を尽くした長文で――
藤原摂家から極めて重要な依頼が来た。
朝廷の重鎮のために尽力するのは陰陽道を以て仕える安倍家として当然のこと。
できれば当主自らが解決したかったが、諸々の障りがあり泰継に任せることとした。
――とあった。

『安倍家の陰陽師として主家の名を汚さぬよう、その力を存分に揮ってみせよ』
と、書状の中で当主は力説していたが、
要は今の安倍家の力では及ばぬような依頼が来た、ということだ。

泰継を疎んじながら、安倍家の体面を保つのは当然の務めと説く。
人とはその不整合に気づかぬものなのだろう。

だが、極めて重要と言うならば、
体面より重んじるべきは依頼の内容ではないのか。

書状を読むなり、直ちに泰継は庵を出た。
帰途に就いたばかりの使いの者たちを間もなく追い抜き、
泰継の姿に気づいた彼らは驚き慌てて何やら叫んでいたが、
それはどうでもいい。

――急がねばならぬ案件だ。
使いなど立てて形ばかり飾った文言を届ける間があれば
いつものように式神を打てばよかったのだ。
大事な時が無駄になった。

依頼は二つ。
一つ目は邸に頻発する怪異を鎮めてほしいということだ。
ただの怪異ならば問題ない。
だが、第二の依頼と関係するなら焦眉の急。

そして……解せぬのは、もう一つの依頼だ。
元服前の子供に危険な術を施せ、とは。

依頼の主がなぜこの術を知り得たのかも分からぬが、
何よりこの術は、かけられた者にとっては呪に等しい。
まずはそこから確かめねばならない。

――偽りの記憶を創れ……。
藤原の氏長者は何を望んでこのようなことを……。





――藤原の氏長者の別邸。

依頼を受けた旨を伝える安倍家からの使者と
きびすを接するようにして現れた泰継に内心驚きながらも、
氏長者は短いねぎらいの言葉の後、すぐに本題に入った。

「かような頼みをするなど、酷いやつよと思うたであろう…」
泰継の眼をひたと見据えて言う。
精悍な面差しは周囲を圧する気迫に満ちているが、
朗々たる声には苦渋がにじんでいた。

「だが、あの子供は救わねばならぬ。
だからこその無体な願いだ」

別邸とはいえ広大な邸は、あまねく陰の妖気に包まれ、
そこかしこに魑魅魍魎の気配がある。
泰継が来訪したことで一時的になりを潜めている様子だが、
それらが怪異の原因となっていることは間違いない。

「あの子がこの邸に来て以来、不可思議な出来事が続いておる。
最初は気にも留めなかったが、一夜のうちに庭木が葉を落とし、
水が濁り蟲が湧き、昼日中でも小暗い隅に何やら蠢いたかと思えば、
何者もいないのにふいに足を取られて階を転げ落ちたものもいる」

黙して耳を傾けている泰継に向かい、長者は話を続けた。

「ゆえに邸の者たちはあの子が禍つ事の原因と信じている。
人の姿は偽りで、正体は鬼だの怨霊だのと、真剣に論じる始末だ。
そして私は、あの子の怪しい術で正気を失っていると思われておる」

ここで長者は声を潜めた。
「ゆえに私に知られぬよう、
あの子を密かに始末してしまおうと武士団と謀っている者がいるのだ」

泰継の眼に暗い光が閃く。

「それだけならば怪異を収めれば事足りる。
なぜに、子供の記憶を操らねばならない。
これは安倍家の秘術。なぜなら、極めて危うい術だからだ。
子を救うという美しき言葉とは裏腹のもの。
それを成せと言うは、子供の出自が知れぬゆえか。
そのような子ならよいと言うのか」

「言葉が過ぎる!
全てを知らねば術はできぬと言うか、安倍の陰陽師!」
対峙した男の声が一瞬険を帯びるが、すぐに男は己を抑えた。

「よかろう。我が摂関家と安倍家の繋がりは秘すまでもない。
その術を知ったのは我が祖、御堂関白殿の日記に記されていたからだ」

言葉の剣を交える中に発せられた「御堂関白」の言葉に
刹那、泰継の脳裏に顔も知らぬ師匠と先代が稲妻のごとく閃き揺らいだ。
――彼らは同じ時を生きた。
泰継には手の届かぬ時を――。

対峙した男は、泰継の一瞬の葛藤に気づくこともなく、抑えた声で続ける。

「確かにその子供は何者か分からぬ。
だが、ひとかどの者と見込んだからこそ救いたいのだ。
あれを迎え入れれば、いずれ藤原家の力となる。
家が興るも衰えるも、優れた者がいるか否かだ。
のう、安倍の陰陽師よ。そうは思わぬか」

――安倍家に必要な優れたもの……先代のような……。

だが泰継は顔の筋一つ動かさず、小さくうなずいた。

「あの子は思慮が深く、その上に肝の据わり様も見上げたものだ。
武士団の者に囲まれ、怪しいやつと詰問され白刃を眼前にして、
がたがたと震え涙を流しながらも己の言葉を曲げなかったのだ」

「その言葉とは何だ。
何か手がかりになることではないのか」

「それが……よく分からぬ話なのだ。
だからこそ疑われているのだが、頑として言を翻さぬ。
あの子は、自分はこの世界の者ではない、と言い張っている。
世界とは何だ? この世のことか、あの世のことか?
安倍殿はご存じか?」

泰継の記憶に、一つだけ、思い当たることがある。
先代にまつわること。
龍……

その時、大きな邸が震えた。

――おおおおおおおおおぉぉぉん……

陰の気の咆吼がとどろき渡る。

大きな悲鳴が上がり、
「何事!」
と氏長者が腰を浮かすより早く、泰継は部屋を飛び出していた。

「ここを動くな!」
泰継の発した言葉が中空に残り、氏長者を制する。

術者の心得のない氏長者にも感じられる、びりびりと威圧的な気。
これまでの怪異とは比べものにならない何かが今、起きている。

「……頼んだぞ、安倍の陰陽師」
食いしばった歯の間から、氏長者は声を絞り出した。





異変の源は小さな離れ家であった。

黒々とした瘴気がくちなわのようにとぐろを巻き、
蠢きながら家を幾重にも取り巻いている。

その瘴気の中に、豪奢な衣をまとった女性がいた。
髪を振り乱して扉を叩き、家に入ろうとするが、
武士達の手で庇から引きずり下ろされようとしている。

遠目にも泰継は女性の目に光る涙を見ることができた。
家の中に向かって叫び、必死に呼びかける声を聞いた。

「お方様、こちらへ!」
「まだ分からぬのですか! この瘴気、彼奴めが呼んだのですぞ!」
「ここは我らにお任せを!」
武士達の声も聞こえた。

――件の子はあの中か。

泰継は庭の松に飛び乗ると、枝を蹴って高く飛び上がった。
その手にはすでに呪符がある。

「術を撃つぞ! 離れていろ!!」

空中から聞こえた声に驚いた武士達はとっさに身構えたが、
すぐに状況を察して女性を抱えて飛びすさる。

「救急如律令、呪符退魔!」

泰継の術が突き刺さり、瘴気に穴を穿った。

「どうか……」
女性のか細い声が泰継の耳に届く。
「……幸鷹をお救いください……どうか」

泰継は着地するなり地面を蹴って庇に飛び乗り、
扉が開かないと分かると、躊躇無く叩き壊した。





幸鷹という子供は、薄暗い部屋の中に青白い顔で震えていたが、
入ってきた泰継に気づくと、戸口を指さしてきっぱりと言った。
「ここは危ないです。逃げて下さい」

年の頃は十四、五か。元服はまだのようで声もあどけないが
確かに氏長者の言う通り肝が据わっている。
しかし己の置かれた状況を全く理解していない。

幸鷹から目を転じると、壊れた扉の脇には折れた棒が転がっている。
これをかすがいにして扉を閉ざしていたのだ。
泰継の声が冷んやりとした感触を帯びた。

「怨霊の狙いはお前だ。それは分かっているはず。
にもかかわらず自分だけがここに籠もるとは、怨霊に喰われる気だったのか。
自らを犠牲にして解決するのは愚者の策と知れ」

と、蒼白な幸鷹の顔がぱっと明るくなった。
「もちろん、そんなことはしません。
これまでの状況を考えれば、怨霊がぼくを狙っている確率は99パーセント以上。
あ、不確定要素があり過ぎるので、本来は数値で表すべきではないのですが。
とにかく、ぼくのことに誰も巻き込むわけにはいきません。
でもこのお屋敷のお方様は、ぼくを守ろうとしてここに残ると……。
なので武士に任せようと思ったんです。
VIPの警護が彼らの仕事ですから、お方様の安全をはかって
まずはここから十分に離れてくれるはず。
その頃合いを見て逃げようと時間を計っていたんです」

「頃合い……だと?」

「ぼくのカウントでは、ここまでで2分ほど過ぎています。
すみませんが、一緒に逃げていただけますか。
あの心張り棒を壊すほどのあなたなら、きっと…」

「もう遅い!!!!!」
泰継の一喝に幸鷹は首をすくめた。

――ぐぅぉくり! ぐぅぉくり!

泰継の耳には、異様な音が届いている。
その音は、幸鷹が言葉を発する毎に聞こえるのだ。

これは……言霊を呑み込む音だ。

幸鷹という子供は奇妙な言葉を語り、纏う気も泰継が知らぬものだ。
本人の言う通り、京の者ではないのは明らかだ。
怨霊は幸鷹の気に引き寄せられ、その言霊を喰らっている。

――姿が見えぬのは、私を警戒してのことか。

だが今、泰継の背後には怨霊の纏う瘴気の気配。
破られた扉から、ずるずると入り込もうとしている。

外からの薄明かりに透かして見みれば、
幸鷹の顔色が蒼白なのは恐怖のためではないと分かる。

馴染まぬ京の気がその体力を奪い、怨霊に言霊を喰らわれているのだ。

それでも……
自分が何者かも分からぬままに、
見知らぬ地で武士の剣に抗い、
己を愛しむ者を救おうとし、
なお自らが生き延びようとしているのか……。

「遅いということは、もう逃げられないってことですか?」
幸鷹がおずおずと尋ねた。

泰継はすっと腕を上げ、幸鷹の頭に手を置いた。

「怖れるな。問題ない。
お前の周囲に結界を張る」

言うなり、泰継は袖を翻した。
腕の動きと共に炎が一直線に床を走り、五芒の星を描く。

「私はこの怪異を鎮めに来た陰陽師だ。
これより怨霊の本体を引きずり出し、調伏する」

怨霊の狙いが幸鷹ならば、ここから連れ出しても同じこと。
ならば答えは一つ。

――この場で決着をつけるのみ!

「怖ろしければ目を閉じていろ。
その口も閉じていろ」

しかし幸鷹はかぶりを振った。
「お……陰陽師……怨霊……。
この世界は、ぼくには信じられないことばかりで……。
でも、しっかり見届けます。
事実から……目を背けることはできませんから」

「黙れ! 言の葉が喰われるぞ!!」
言葉と同時に泰継は術を放った。
襲い来た瘴気がびしりと弾かれる。

しかし瘴気は暴風の渦となって屋内の調度を巻き上げた。
櫃も棚も几帳も宙を飛び、壁や天井に叩きつけられる。
そして風がぴたりと止んだ瞬間、
それらは砕けた残骸となって雨のように降り注いだ。

「わわわっ!」
幸鷹は頭を抱えてうずくまったが、すぐに不思議そうに顔を上げた。

「バリアー……?」
と思わずつぶやいて、慌てて口を閉じる。

――ぼくには何も……当たらない。
これが、陰陽師の結界……。

はっと気づいて泰継を見れば、
無数の残骸を浴びながら微動だにせず印を結んでいる。

――大丈夫ですか?!
と声をかけようとして、今度は寸前で言葉を呑み込んだ。

この人は怨霊の本体を引きずり出すと言っていたけど、
何か……陰陽の術みたいなもので探っているんだろうか。

部屋の隅でずざざざっと何かが動き、泰継は呪符を放った。

「グ……ギギギギ……」
呪符で床につなぎ止められた黒い靄のようなものが
瘴気をまき散らしながら激しくのたうち回る。

――あれが、本体?

と、泰継は素早く印の形を変えると何かを唱えだした。

「『ここは危ないです逃げて下さいもちろんそんなことはしません
これまでの状況を考えれば怨霊がぼくを狙っているかくりつは
九十九ぱあせんと以上……』」

――あ、ぼくが言った言葉だ。
すごい……一字一句違わない………。

泰継の言の葉に呼応するように、
黒い靄が膨れあがり、そこに向かってさらに瘴気が集まり始める。

――怨霊に、言葉を……食べさせているんだ。

ぐぅぉくり! ぐぅぉくり!! ぐぅぉくり!!! うぐぉぉぉん!!

怨霊が言の葉を呑み込む音が次第に大きくなっていき、
嬉々として喉を鳴らす音も混じる。

「『あ…ふかくていようそがあり過ぎるので
本来はすうちで表すべきではないのですが……』」

――ぐぅぉくり!! ぐぅぉくり!!!

泰継は心を研ぎ澄まし、全方位の気を探る。
黒い靄は怨霊の一部だ。
だが言の葉を呑み込んでいるのは靄ではない。

――ぐぅぉくり!! ぐぅぉくり!!!

忌まわしい音が耳を圧し部屋に充ち満ちていく。
全てを押し潰し喰らい尽くそうとするかのように。

怨霊の音など聞こえない幸鷹も、不安そうに周囲に眼をやっている。

突然、泰継は両の掌をぱん!と合わせた。
すると黒い靄が真っ二つに折りたたまれる。
間髪入れず泰継が腕をぐいと曲げると、
まるでその手に掴まれたかのように靄がずずっと動いた。

泰継は言葉を続けながら靄を引きずり、幸鷹から遠ざけていく。

「『……なので武士に任せようと思ったんです。
びっぷの警護が彼らの仕事ですから……』」

黒い靄は折りたたまれても泰継の丈ほどもあり、
激しく蠢き瘴気を吹き出している。

だが泰継は意に介す様子もなく、新たに人型の呪符を手にした。
口の中で呪を唱えると、ふっと呪符に息を吹きかけ、
手を伸ばして靄の中に深々と突き入れる。

そして暴れ回る靄から瞬時に大きく飛び退き、音高く床に手をついた。

泰継の手から、幸鷹を囲む五芒星と同じ形が床を這い、
そこから炎の柱が立ち上って靄を全方位から包んだ。
炎に巻かれた黒い靄が激しく動くが、炎からは逃れられない。

固唾をのんで様子を見ていた幸鷹ははっと気づき、
またもや必死に声を抑えた。

泰継の唇が動いているのに、声が聞こえないのだ。
……いや、耳を澄ませばかすかに聞こえてくる。

他ならぬ幸鷹の声が
黒い靄の中から――。

「『頃合いを見て逃げようと時間を計っていたんです……
ぼくのかうんとではここまででにふんほど過ぎています』」

声は次第に大きくなっていく。

と、ぐらりと部屋が揺れた。

「『でもしっかり見届けます事実から目を背けることはできませんから』」

足下からずん!と突き上げる振動。
床板がめきめきと音を立てる。

泰継の眼が鋭くなった。
……来たか。

「『遅いということはもう逃げられないってことですか
お陰陽師怨霊この世界はぼくには信じられないことばかりで……』」

泰継の呪のままに黒い靄は幸鷹の言葉を繰り出していく。

さあ、喰らえ!!

「『わわわっ!ばりああ……』」

――おおおおおおおおおぉぉぉん……
地の底から肺腑も震える咆吼が轟き、靄の下の床が真っ二つに裂けた。

細長くうねる影が立ち現れ、
――ぐぉぉぉっくり!!
黒い靄にばくりと喰らいつく。

怨霊の本体が現れたのだ。

泰継はさらに続けた。
「『九十九ぱあせんと!びっぷ!』」

喰らわれた靄が、怨霊の体内から幸鷹の声を響かせる。

――ぐぉぉぉっくり!! うぐぉぉぉん!!

怨霊は嬉々としてさらに靄を呑み込んだ。

「『かうんと二ふんばりああ』」

――ぐぉぉぉっくり!!――ぐぉぉぉっくり!!――ぐぉぉぉっくり!!

いつの間にか怨霊の細長い身体は、床をのたうつ歪な輪となっている。

……あっ!
そこで幸鷹は気づいた。

靄は本体の一部だったんだ。
怨霊は自分の身体を自分で呑み込もうとしている……。
陰陽師さんの狙いはこれだったんだ!

その時にはすでに泰継は怨霊にとどめの一撃を放っていた。

「禁呪符陣!」
怨霊の動きがぴたりと止まると、体内の呪符が泰継の声で呪を唱えた。
怨霊の形がみるみるうちに崩れていく。

「滅!」

刹那、呪符は怨霊の中で爆ぜ、
怨霊は炎とともに燃え上がり、やがて漆黒の灰と化した。

――………終わったんだ……。

結界の際まで身を乗り出していた幸鷹は、
全身の力が抜けてそのままがくりと倒れた。

その周囲からすうっと五芒星が消える。

床に倒れた幸鷹の視界に、陰陽師の素足が見えた。
その向こうには、燃え尽きた怨霊の残滓。

「もう問題ない」
「助けていただき……ありがとう……ござい…ました」

頭を上げようとするが、力が入らない。

「あの……怨霊の形は……まるで」
「気づいたか。
あれは古き巻物の付喪神だ。
いつの間にか忘れ去られ、捨て置かれていた物が
珍しき言の葉に力を得たのだろう」

「怨霊にも……好奇心があるんですね。
巻物に新しい言葉を書き付けたかったのかも……しれません」

泰継は幸鷹の元に膝をついた。

――力が弱っている。
このままでは、この幸鷹なる子供は……。

「一つ……教えてください。
なぜ……怨霊の中からぼくの……声がしたんですか」

「危急ゆえ断りもなくすまなかった。
人型を形代にするため、お前の髪の毛を一筋巻き付けた」

「すごい……もっとお話を聞きたいですが……
すみません……その前に……お屋敷の皆さんにも……」

「忘れよ。そして眠れ」

泰継が幸鷹の上に手をかざすと
幸鷹はことん…と眠りに落ちた。





京の街が薄暮に包まれる頃、泰継は邸の主と向き合っていた。

「陰陽師、首尾は……如何に」
邸の主が問うた。
その傍らには北の方がいる。

「怨霊は調伏し、残滓の始末も終えた。
だが離れ家は戦いで損傷がひどい。
家具調度も粉々だ」

「陰陽師!」
「…………」
氏長者は苛立った声を上げ、北の方は青ざめた。

瞬時の躊躇いの後、泰継は淡々と答える。

「母屋に運んだ御子は問題ない。
長の病で伏せっていたが、回復の兆しを見せたところだ。
間もなく目覚めるだろう。
親御の姿を見れば心強いはず」

「そうか! 見事である、安倍の陰陽師よ」
氏長者の顔に安堵の色が広がった。
「おおおおおおおお………。
よくぞ幸鷹を……お救いくださいました。
なんとお礼を申せばよいものか……」
北の方は肩をふるわせて泣き伏した。

泰継はそれ以上何も言わずに立ち上がり、
北の方の嗚咽を背で聞きながら、その場を辞した。



薄闇の中、藤原邸を後にした泰継は、
京の街を来たときと同じように早い足取りで、表情もなく歩を進めていく。

――否。
その足取りは常よりも少し早く、
装束の裾ははたはたと小さな音を立てている。

胸の辺りが小さく疼いている。

長く長く陰陽師として務めを果たしてきた中で、
幾度か感じた疼きだ。
人ならぬこの身が感じてはならぬ疼きだ。

なぜ人は偽るのだろう。
問うてはならない問いだ。

街を抜け、北山の庵を目指して泰継は山道を駆け上がる。

今日のことも全て記憶の中に降り積もり、
この疼きもまた忘れることなく背負い続けるのだ。

深山に生い茂る木々の底に一筋、青い月の光が射している。
泰継は足を止め、空を仰いだ。

大きな謎が残されたままになった。
この先、幾歳が流れようとも、答えを知ること能わぬ謎だ。

泰継は小さく首を傾げ、つぶやいた。

「ぱあせんととは何だ。
びっぷとは、かうんととは、ばりああとは……」









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そして幾歳かが流れ………

「神子、折り入って尋ねたいことがある」(真顔)
「改まってどうしたんですか、泰継さん」(きょとん)

「長らく抱き続けてきた疑問だ。答えてほしい」(真剣)
「泰継さんにも分からないことですか?」(どきどき)

「ぱあせんととは何なのだ、神子?」
「え?」
「びっぷとは、かうんととは、ばりああとは?」
「えええええ?」


2020.06.11 筆