高館義経堂〜柳御所跡〜伽羅御所跡〜達谷窟毘沙門堂
高館義経堂は、小高い丘の上にあります。
写真では分かりづらいですが、丘を巻くようにして上る道は、
ちょっとした急坂。
道を上がりきったところに高館義経堂入り口があります。
階段を上ると、いきなり景色が開けます。
正面が束稲山…のはず(やっぱり地理疎っ)
それにしても、館を構えるにはあまりに狭い場所。
後で調べてみましたら、当時はもっと広々としていたそうです。
北上川に面する側が、浸食によって削り取られたとのこと。
左方向に進むと、義経堂です。
そこへの小道の途中に、紫陽花が咲いていました。
義経堂はさらに高い場所にあり、
小さな御堂の中には、義経像が祀られています。
甲冑を身につけた、白い顔をした美男。
義経像としてよく目にするものです。
北上川を眺めながら考えたのは、「遙か3」の九郎さんではなく、
歴史上の、「源義経」のこと。
巷間に流布した話はあまりにも有名なのに、
その生涯の実態は不明な部分が多い人です。
ただ言えることは、今のような情報網の無い時代に、
多くの人々の心を大きく動かした源氏の武将がいたということ。
土地や恩賞を仲立ちにした、とてもドライな主従関係が当然だった頃、
何の見返りもないと分かっていながら、最期まで運命を共にした
主従がいたというと。
時代の中で、光を浴びる運命にある人、というのは、いるのですね。
そして、あくまで個人的には、ですが、
義経には微妙に倭建命と重なるイメージがあります。
ここは「遙か」紀行なので、深入りはしませんが(笑)。
高館の丘を下り、ほっとする景色の中を深呼吸しながら歩きます。
急ぎ足だけれど、なぜか心はのびやか。
平泉って、よい気が巡っているなあ…。
と、いきなり開けた茶色い地面。
柳御所の発掘現場です。
その広いことといったら…。
せめて写真から感じて下さい。
ちょうどこの日は見学会が行われていましたが、
現場には原則立ち入り禁止。
少し南に資料館があり、発掘された資料が展示されています。
ちなみに、上の写真は、資料館の脇にある
小さな築山のてっぺんから写したもの。
右の写真では、御所跡のすぐ向こうに、高館の丘が見えます。
ちなみに、伽羅御所跡は、ここから南西に行って、すぐの所に。
近い!!近すぎますっ!!
銀と望美ちゃんの雪夜の逃避行はいったい…。
↑のようなことを考えていたせいか、一時的に方向音痴を忘れました。
で、迷わず伽羅御所跡へ到着。
ここは、柳御所の壮大な発掘現場と真逆の様相。
住宅の角に、案内板があるだけでした。
往時は、遠からぬ場所に泰衡の館もあったはずなのですが、
それは古地図に記されているのみで、今の観光マップには載っていません。
ここで、デジカメの電池が赤に。
カラータイマーが激しく点滅しているウルトラマン状態。
どーしよー!!と動揺した真宮は、無量光院をすっ飛ばして、
達谷窟に直行したのでした。
平泉駅から、片道約6km。自転車ならスイスイ〜なのですが、
時間も読めない、地図も読めない中、とうとう最終兵器に頼りました。
タクシーです。
↑大冒険。
電源を切ると電池が少しだけ復活するのを利用して、
残り寿命を振り絞ってパチリ!
達谷窟毘沙門堂は、坂上田村麻呂の創建になる古刹で、
何といっても、崖と一体化した御堂の造りが特徴的でしょう。
写真右は、源義家が彫ったと伝えられる北限の磨崖仏。
毘沙門堂の左隣にあります。
ほとんど摩滅していますが、上の方にお顔が見えるかと。
さて、坂上田村麻呂といえば、京の清水寺とも縁の深い人。
この堂の形は清水寺を模したものだそうです。
また、祀られている毘沙門天は、北方の守護を願い、
鞍馬寺にならって奉ったとされています。
内心、ふはははは…という笑いが止まりません。
妄想猛々しい神子が一人、逸る心を抑えてお参り〜。
というのも(ここで小説部屋のことを書くのは少し気が引けますが)、
いずれ書き始める長編では、坂上田村麻呂が地の青龍、
彼と戦った蝦夷のアテルイが天の青龍のモデルですので。
もちろん、名前は変えますけれど(汗)。
そして40分ほど後のこと、
タクシーのおじさんに、帰りは無量光院まで、となぜ言わなかった、私!!
と、後悔する自分が…。
半端な時間、タクシーの中で座ったのが響いて、痛めた膝がストライキに突入(爆)。
しかも、この時はもう駅のホーム。
↑おばかもここまで来るとねえ…。
遠くから、ごとんごとんと電車の近づく音が聞こえてきます。
目を上げれば、晩夏の陽は、まだ傾き始めたばかり。
朝曇っていた空は、今は澄んだ青空です。
最後の最後に、くらっとするくらい大きく深呼吸。
また来よう!
何回でも、来られるうちは、足を運ぼう!
そう決めると、少し心が軽くなりました。
到着した電車のボタンを押して、ドアを開けます。
たくさんの観光客と一緒に電車に乗り込み、
電車は淡々と発車しました。
遠ざかっていく景色に、心の中で手を振り、
これにて、初めての平泉旅は終わりました。
了
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8月末に訪れた平泉の旅行記を、師走の声を聞きながら書いています(汗)。
再訪を固く決意した平泉、この後、3ヶ月と間を置かずに願いがかない、
最後の紅葉に彩られた錦秋の浄土は、夏とは異なる顔を見せてくれました。
その折は、平泉という地に足を置いていることだけに、ひたすら心を向けておりました。
ある意味、とても贅沢な時間であったと思います。
で、ええと…あまり痛いことは書きたくないのですが、
平泉では、世界遺産登録に向けて町を挙げて熱心な取り組みが行われていました。
以下、それについて感じたことなどを…。
平泉の各所に整備された、遺跡の在処を示す真新しい案内板や道標、
その他諸々のものは、ふらりと訪れた私のような観光客にとって
とても親切で、ありがたいものです。
気持ちよく歩けたことも、平泉への好印象に繋がっています。
これらの整備事業は、来訪者のためと同時に、
登録を視野に入れて行われたものなのでしょう。
けれど、世界遺産への登録、イコール世界的な観光地のお墨付きと
考える人達がいることは事実。
初夏の京都で見たような光景が…と思うと、
私の心は狭いので、とても情けない気持ちになります。
保存と開示との両立は、どこに行ってもつきまとう問題ですし、
永遠のいたちごっこなのかもしれません。
あれだけの文化遺産を未来へと維持継承するためには、
経済的な裏付けが必須であることも分かります。
また、悪路王にまつわる伝承を解説した案内板の内容が、
以前はもっと「薄気味悪い」ものだった、という話を
タクシーの運転手さんから聞きました。
内容変更の理由はわかりませんし、登録とは無関係かもしれませんが、
古い伝承はそのまま伝えて頂きたかったと思います。
通りすがりの一観光客の戯言ですけれど、形あるものだけでなく、
形のないものも、どうか変わらないでほしい、と願ってやみません。
2007.11.30 筆