――鞍馬の山には鬼が棲む。
京の人々の口の端に噂が上るようになったのは、いつの頃からだろうか。
噂を聞き、血気に逸って鬼を退治に出かけた者は数知れない。
誰も皆、鬼を斃し名を上げて、武門の誉れを一身に受けたいがため。
だが、期待に反して鬼は滅多に姿を見せず、
多くの者は深い山に迷うばかりの結果となった。
もちろん鬼と出会えた者も、僅かばかりいる。
しかし、美しい外見に惑わされ、
怖れるに足りずとばかり、かさにかかって打ちかかった者も、
鬼の力を侮ることなく斬りかかった者も、
結果は同じであった。
一撃。
鬼の剣の一振りで、勝負は決してしまうのだ。
剣を交わしたことにもならない。
鬼が使うのは見慣れぬ形の剣だ。大きく反った長刀と言えようか。
ずしりと重そうなその剣を、鬼は舞うが如くに軽々と振るい、
次の瞬間、武士達の手の中にあったはずの太刀は、
遠くへと弾き飛ばされている。
それでも、
「どれほどの腕なのか、確かめてやろう。
何、この俺が鬼などに負けるはずがない」
増長した者達は、飽くことなく鞍馬にやって来る。
そして今日もまた――
高木の間から射し込む薄い光条が、芽吹いたばかりの下草を照らす。
草深く、方角を示す目印すらも無い獣道だが、
リズヴァーンにとっては、庵へと続く通い慣れた道だ。
道の先に潜む気配に気づき、青い眼が鋭い光を帯びた。
杉の巨木の後ろから走り出た武士が、リズヴァーンの前に立ち塞がる。
その手に握られているのは、抜き身の剣だ。
「剣を抜け、鬼!」
威嚇のつもりか、不必要に大きな声が静寂を破り響き渡る。
しかし、放たれる殺気と闘気にぎらつく視線を浴びながら、
リズヴァーンの気は微塵も揺らがない。
黙したまま足取りを乱すことなく歩き続け、
みる間に武士との間合いが詰まっていく。
「抜け!!」
武士は剣を上段に構えた。
「鬼! 抜かねば斬るぞ!」
リズヴァーンはその場に誰もいないかのごとく歩を進め、
冷たく光る刃の真前を通り過ぎる。
斬りかかる好機。
だが、無防備な形に見えながらも、リズヴァーンには一分の隙もない。
そして、息が詰まるほどに強烈な威圧感。
武士は、手の中の剣を振り下ろすどころか、動くこともできない。
ただ呆然とリズヴァーンの背を見送るばかりだ。
やがてはっと我に返ると、慌ててその後を追いかけて前に回り、
再度剣を構える。
「て、敵に背を向け逃げるとは、…臆したか、鬼!」
さして動きもしなかったというのに呼吸が乱れ、肩が激しく上下している。
それなりの使い手ではあるのだろう。
リズヴァーンとの圧倒的な力の差を感じ取ることはできたのだから。
だが、無言の気に威圧されて動けなかったことを自ら認めず、
斬り結ぶ前に、たやすく呼吸を乱した。
己を律するにほど遠く、己と対峙することもできない、ということだ。
この時点で、すでに勝負は決している。
青い瞳が武士を一瞥し、その刹那リズヴァーンの姿は消えた。
武士の手が激しく震え、固く強張った指は剣を掴んだまま
開こうとしても開かない。
「うあ…あ…あ」
武士は獣じみた呻き声を上げてがくりと膝を付いた。
額に滲んだ汗が、下草にとめどなく滴り落ちる。
これほど徹底的に己の弱さを思い知らされるとは、
想像だにしていなかった。
鬼を斃すどころか、剣をかわす以前に、歯牙にもかけられなかったのだから。
「兄者よ、すまぬ。
鬼に敗れた腑抜けなどと兄者を罵った儂がこのざまじゃ」
武士はよろよろと立ち上がった。
数年前のこと、鞍馬寺から逃げた源義朝の子、牛若を探して
鞍馬から大原にかけて山狩りが行われた。
その時、兄達の前に鬼が現れたのだった。
死人こそ出なかったものの、鬼の一撃で全員が気を失い、
しかも太刀を砕かれるという無様な負け方であった。
鬼がはっきりと姿を見せたのは、あの時が最初であった…。
鬼が出ると知っていたなら、もっと用心したはずじゃ。
兄者は、不運だったに過ぎぬ。
道を登り来た時の意気盛んな足取りはどこへやら、
武士はとぼとぼと山を下りていった。
――鞍馬の山には鬼が棲む。
その鬼の振るう剣は、どのような太刀も一撃で砕くそうな。
斬りかかろうとすると、姿を消してしまうという。
不意打ちを食らった者は数知れないらしい。
武士が一人、鬼に敗れて山を下りるたび、噂に次々と尾ひれがついていく。
だがある日、頼朝挙兵の報が入って鬼の噂はぴたりと止まった。
それでも、遠い東国での動きを真剣に受け止める者はごく僅か。
この先、平家の落日へと時代が大きくうねっていくとは、
まだ夢想だにできぬことであった。
[1.狭間を往く者]
[2.驟雨]
[3.閑日]
[4.富士川 東岸]
[5.富士川 西岸・前編]
[6.富士川 西岸・後編]
[7.霧の邂逅]
[8.兆し]
[9.天地咆哮]
[10.三草山]
[11.三条殿炎上]
[12.皐月の里]
[13.腕輪]
[14.剣が繋ぐ光]
[15.交錯]
[16.若き師と幼き弟子]
[17.交錯・2]
[18.鞍馬の鬼・前編]
[20.交錯・3 ~水車~]
[21.交錯・4 ~ある日安倍家で@3~]
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そして先生は伝説へ…。
という感じでしょうか♪
2010.10.17 筆