龍の夢


プロローグ


2 神泉苑




篝火が燃えている。

暗い池の前には、幾つもの炎が焚かれ、
周囲に広がる黒い森と、集まった人々を照らし出す。

中央にひときわ大きく高々と組み上げられた薪からは、
大きな炎がぱちぱちと音を立てて燃え上がっている。

しかし、その炎とても、天地を覆う闇には抗すべくもない。

闇の向こうに広がる水面には波一つ無く、
篝火の光すら飲み込むかのように、火影を暗く映すだけ。

ここに参集しているのは、朝廷の貴なる人々。
帝も自ら足を運び、神域の夜闇に息を潜めている。

人々が沈黙する中、朗々たる祈祷の声だけが途切れずに続いていた。
大きな篝火の前に、炎に焼かれんばかりに真向かい、
長身の男が一人、異国よりもたらされた真言を唱えている。

その男が身に纏うは僧侶の袈裟。
炎に煽られ、なびくのは長い髪。
あまりに美しく整った面立ち。
俗世の者か、僧であるのか、それだけでは判断が付かぬ。
しかし、その男の全身から放たれる強烈な力の前には、
そのような区別など意味がない。


男が、半眼に閉じていた眸を開いた。
鋭い眼光が、射抜くように水面に注がれる。

と、一陣の突風が吹き過ぎた。

炎が大きく揺らぎ、周囲の人々は地に倒れ伏す。

「主上!」
「ご無事ですか?!」
篝火の後ろで、慌て騒ぐ声。
「余のことは構うな」
凛とした声が答える。

「あれを!!」
僧侶の声が響いた。
その指が、正面の池を指し示す。

水面が、動き始めた。
さざ波が立ったと見る間に、池の水は大きく渦を巻き、
地鳴りのように耳を聾する音が辺りを満たした。

水面を真っ二つに割って、黒く巨大なものが、姿を現す。

池底から現れたそれは、かき分けた水を滝のように滴らせながら、
爛々と輝く眼を、開いた。

「ひいいっっ」

あまりの恐ろしさに、居並ぶ者達はその場にへたりこんだまま動けない。
警護にあたる武人達も、太刀に手を掛けたまま凍り付いている。

神域の池の底より現れ出でたのは、龍。
夜の闇よりも黒い、巨龍だった。

強い光を放つ眼が、周囲を睨め回した。

巨きな口を開き、音とも息とも声ともつかぬものを発する。
赤い舌がちろりとのぞき、鋭い牙がガチリと鳴った。

白苑(びゃくえん)よ、 これが龍神なのか」
帝が、僧侶の隣に進み出た。

「主上、危のうございます!!」
及び腰の付き人が後ろから呼ぶが、
白苑と呼ばれた僧侶も帝も、それを斟酌する気配はない。

「はい。確かに」
「おお!」
帝の声は、歓びに震えている。

龍神の招来、それこそが、神苑での祈祷の目的だったのだ。

だが、白苑の声に混じった微かな苦さと躊躇いを、帝は聞きとがめた。
「白苑よ、どうした。
なぜ龍神に、都に満ちた穢れを祓うよう祈らぬのだ」
白苑は答える。
「主上、龍の言葉は人のものとは違います」

「だが、祈りに応え、姿を現したではないか」
「祈りは真なる言の葉によるもの。
先程より呼びかけてはいるのですが、 やはり、龍神は、あまりに我らと異質…。
人の身には、ここまでかと」

「何と…それでは……」

龍神を呼んだ意味がない…
帝の眼が、失望に曇った。

その時
「恐れながら…」

柔らかな声が響いた。

皆がその声の方に振り向くと、
篝火の中に、ほっそりとした姿が進み出た。

裳裾を引き、池に向かって音もなく歩むのは若く美しい娘。

「誰だ…?」
「警護の目、どうやって…」

しかし、皆がそれ以上に驚いたのは、龍の様子が変わったことだった。

光る眼をすっと細め、静かに水面近くまで身体を沈めた。

娘は真っ直ぐに顔を上げ、帝の前まで進み出ると一礼した。

「娘よ、そちは何者」

頭を垂れたまま、娘は言った。
「黒龍に導かれ、ここまで参りし者」

「黒龍とは…この龍神のことか?」
「はい」

「そしてそちは、龍神と縁ある者…と、そう申すのだな」
「はい。私は…」
娘は顔を上げた。

「龍神の言葉を聞く者、龍神の神子にございます」

どよめきが起こった。

それを意に介すことなく、帝にさえ背を向けて、 娘は龍に相対した。

娘が手を差し伸べると、 くぐもった音が龍から漏れ出でる。

皆からは、娘の表情が見えない。
龍の言葉に、娘がくっ…と唇をかみしめたことも。


ややあって、娘は振り向いた。

巨大な龍を背に立つ姿に、その場の人々は 神子という存在を信じた。
信じざるを得なかった。

娘は眼を閉じ、ゆっくりと口を開いた。

「龍は、対がいない…と言っています」

帝は眉を顰める。
「対?それは何か」

「白き龍神にございます」
「龍神は、他にもいるというのか?
この黒き龍神だけでは、我らの願いを叶えられぬというのか?」

「万物は太極より生ずるもの。
陰陽は太極より生まれ、龍神の根源もまた同じ。
その真なる力は、陰陽相和してこそ得られるものでございます」

ぐおぉ・ぉ・ぉ・・・

黒龍が、声を発した。
鈍い衝撃が人々を撃つ。

そして、黒龍の姿はふいに消えた。
まるで闇に溶けたかのように。

「ああっ、龍神が行ってしまった」
「何としたこと」

驚き慌てる人々をよそに、帝は静かに問うた。

「龍神の神子よ、そちは最前、黒龍に導かれ来たと申した。
それは、離れていても黒龍と話すことができるということか」

「離れている…とは、力無き人の身が思うこと」

「では、新しき都のため、これからも神子としての力を
我が朝廷に貸して欲しい」

娘は薄く笑みを浮かべると、深々と頭を垂れた。
「もったいないお言葉にございます

「龍神の神子、名は何という」
娘は顔を上げた。
白苑にちらりと視線を走らせ、次いで帝を見上げる。

「みすず…と申します。佐伯みすずにございます」

「…佐伯の姓というか。ではもしや…」
帝は後ろに控えた白苑を振り返った。

ずっと押し黙ったままだった白苑が、帝の前に進み出で、
初めて口を開いた。

「私の……妹でございます」




次へ



2007.12.7





プロローグ

[1.まどろむ龍]  [2.神泉苑]  [3.遠い鈴音]
[4.夏]  [5.襲来]  [6.夏・ふたたび]


[龍の夢・目次]  [キャラクター紹介]




[小説トップへ]