真夏。
室山は研究室の窓辺に立ち、半開にしたシェード越しに、
キャンパスの庭を見下ろしていた。
室内は冷房が効いて心地よい。
しかし閉じた窓の向こうは、降るような蝉時雨だ。
まだ昼前というのに、地面からゆらゆらと熱気が立ち上る。
上着のポケットを探り、煙草を取り出して、
外の暑さよりも、さらに熱い火を灯す。
あれからもう、一年か…。
薄い紫煙の行方を目で追いながら、室山は思う。
俺は今頃、アメリカの研究所にいるはずだった。
だが、あの時…。
髪をかき上げ、ふううーっ、と長く息を吐き出す。
時間の、分断。
俺がここにいるのは、俺の意識がこの時空にあるからだ。
それとも、時空が俺を照らしているのか。
似たような話があったな…。
「『十月一日では遅すぎる』…だったか」
あるいは、無数にスライスされた次元に映る、
意識を持つ生命という名の影。
室山のとりとめもない思いは、視界に入ってきた二人の高校生に中断された。
少年と少女。
二人は周囲を見回し、次いで室山のいる研究棟を見上げた。
室山はシェードを上げ、窓を開いて合図する。
少女の顔に、ほっとしたような笑みが広がった。
長身の少年は、軽く会釈を返す。
…付き人…同伴か。
室山はアルミの灰皿に煙草を押しつけた。
その時、奥のドアが開いた。
仄かな香水の香。
振り向かぬ室山の腕に、ほっそりとした指がかかった。
「ねえ章人、時間、あるかしら」
室山が微かに眉をひそめると、肩をすくめて言い直す。
「室山君、ちょっと手伝ってもらえる?」
笑みを返す。
「悪いね。来客があるんだ」
控えめなノックの音。
「どうぞ」
「失礼します…」
室山の声に応えて、おずおずとドアが開いた。
入ってきた少女を見て、室山の背後の空気が冷えた。
が、少女に続いて少年が入ってくると、冷気は収まる。
少女が、コホ…と小さな咳をした。
「大丈夫?ごめんね美鈴ちゃん。俺、うっかり煙草吸っちゃってさ」
美鈴は目を見開き、大きくかぶりを振った。
「いいえ、煙草のせいじゃないですから」
「冷房、効き過ぎかな。寒かったら、設定温度上げるよ」
「嗣務くん、寒い?」
「いや、俺は別に…」
「美鈴…ちゃん?…」小さなつぶやきが聞こえた。
室山は、あきれ返ったような視線が背中に突き刺さるのを感じる。
奥の部屋のドア越しに、息を潜めている気配も分かる。
そのままずかずかと奥のドアに近づき、開く。
簡単な給湯設備を備えた共用部屋。
中央に大きめのテーブルがある。
「きゃっ」
「わっ」
慌てて飛び退く女性達を尻目に、壁際の冷蔵庫から
冷えたミネラルウォーターを二本取り出した。
美鈴と原田に一本ずつ手渡し、一緒に研究室を出る。
「どこから行こうか。この時間だと、昼食が先かな」
「二人とも、どこを受けるか、もう決めたのかな」
緑の木陰を選んで歩きながら、室山が言った。
嗣務も美鈴も高校三年生。
大学受験は無難かつ穏当な話題だ。
本当の話題を、皆無意識に避けている。
二人が室山の大学に来たのは、キャンパスの見学という名目。
しかしそれは、付け足しのようなものなのだ。
「嗣務くんは、ここを受験するんだよね」
「へえ、優秀な後輩が来てくれるとは嬉しいね」
「でも俺、受けるとしても、室山先輩と同じ学部じゃないですから」
「それは残念だなあ」
そうは思っていないことが、嗣務にははっきり分かる。
室山も、取り繕うつもりはない。
「美鈴ちゃんは、どうするの?俺の後輩は嫌かな」
「ここだと広くて迷子になりそう…」
成績が…と答えるのが順当なところだが、かなり的外れな答えが返ってきた。
少しの間、会話が途切れた。
蝉時雨の音が、痛いほど耳につく。
と、沈黙を破って、美鈴が言った。
「由唯ちゃんが消えた場所に、行きたいです」
とらえどころのない笑顔はいつものまま。
だがその奥に、ひどく張りつめたものを感じて、室山と嗣務は足を止めた。
この子が、口火を切ったか。
美鈴はめったに人の前に出たがらない。
控えめで、おとなしく、目立たない…。
しかし室山には、やはり…という思いがある。
「そのために、来たんです。
恐いけど…私、行かなくちゃいけない」
そう言うと、美鈴はぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい。私、先に行きます」
プロローグ
[1.まどろむ龍]
[2.神泉苑]
[3.遠い鈴音]
[4.夏]
[5.襲来]
[6.夏・ふたたび]
[龍の夢・目次]
[キャラクター紹介]
[小説トップへ]