夏の空・二つの海

熊野灘




風が強い。
望美は靴を脱いで、裸足で歩いている。
波打ち際に向かって、足跡が続く。

一年が経った。

望美は大学生になっている。

長いようで、あっという間だったようで
……そして、思い出はいつも、
いつまでも……色鮮やかだ。


夏の空の下、鎌倉の海で、
こうして裸足になって、二人で歩いた。

「やっぱり、海はいいね」
海の真向かいに、ヒノエがいた。
その広さに負けないくらい、大きくて、深い人が。


そして今、望美は熊野にいる。
ゼミのフィールドワークで古道を辿り、熊野灘に来た。

次々と蘇る記憶が、目の前の風景に重なっていく。
熊野灘に真向かい、思い出を抱きしめる。


海が、私に力をくれる。
ここが私の世界の熊野。
ヒノエくんの海に、会いに来た。

最後に握りしめた手と手、
強く絡めた指、
重ねた唇を
忘れることはない。


ヒノエくん
……自分のあるべき世界で、成すべきことを果たすために
あなたは還っていった。

そして私は、私の世界で、自分の道を探している。

繰り返し巡った時空を遠く離れても、
私の時間は続く。
二度と繰り返すことのない時間の彼方を、
私は見つめる。

ヒノエくん、
あなたと交わした想いが、私を支える矜持。

あなたの残した思い出の全てが、私の宝物。

遠い熊野で、きっとあなたは
一年前よりたくましくなっているのだろう。

誇り高い熊野別当として、日々を重ねているのだろう。

この世界にいた時と同じように、
軽やかに笑いながら、自分の全てを注ぎ尽くして。


強い海風が吹き、髪が翼のように広がり、なびく。

望美は空に向かって高く手を伸ばした。

高く上がった太陽に、海鳥の影が重なる。

ヒノエくん……
こんなに遠いけど、
私はあなたと一緒に生きている……。



「春日さん…」
後ろから遠慮がちに、声がかかった。

振り向くと、ゼミの男子学生がいた。
「そろそろ休憩終わりだから」

「すみません!」
慌てて靴を履く。
「先輩達を待たせてしまいましたか?」

「そんなことないよ。
遅れるといけないと思って、呼びに来ただけだから」

そう言うと学生は、望美の足元のバッグに手を伸ばしかけた。
「重そうだね、持つよ」

しかし、望美はひょい、とバッグを持ち上げて肩に掛ける。
「これくらい、大丈夫ですよ」

そして、学生の少し悲しそうな表情に気づき、
急いで付け加える。
「心配してくれてありがとうございます。
でも私、力持ちなんですよ」

肩に、バッグのずしんとした重さを感じながら歩き出し、
ふと立ち止まると、望美は振り返って、もう一度海を見た。

「それに…」
「何?春日さん」

ああ、今日も空が青いな。
あの時の、夏の空と同じ色…。

望美は海に向かい、笑顔で言った。

「自分の荷物は、自分で背負うものだから」


海の気が吹きつける。
波頭が沖の彼方まで光り、きらめく。
空は澄みきった、まぶしい青。
どこまでも青く続く、夏の空。






夏の空・二つの海

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夏の空

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