北山に連なる一番高い峰が、ほの明るくなった。
だが、山奥の小さな窪地にある草庵には、まだ曙光は届かず、
小鳥の声さえも聞こえてこない。
暗い草庵の中、強い気配を感じて泰継は目覚めた。
隣に眠る神子の白く薄い肩に、そっと着物を掛け直すと、
音もなく外へ出る。
庵の前には、まだ明け初めぬ空を背景に、高い木がそびえ立っている。
高い枝から、翼を生やした異形の者が泰継を見下ろしていた。
北山の大天狗だ。
「久しぶりじゃのう、泰継」
天狗は、破鐘のような声を発した。
泰継はちらりと草庵に目を走らせ、天狗の向かいの枝にひらりと飛び乗る。
「大声を出すな。神子はまだ眠っているのだ」
非難がましい泰継の言葉に、天狗は笑い出した。
「何が可笑しい。それよりも、その笑い声もやかまし過ぎる」
それにはかまわず、天狗はしばらく笑い続けていた。
が、急に真顔になる。
「泰継よ、なぜに今日という日にわしがここに来たか、分かっておろう」
「若い天狗共から聞いたか」
泰継はにこりともせずに答え、言葉を続けた。
「お前には言葉に尽くせぬほどの恩を受けた。
こちらから別れの挨拶に行くつもりでいたのだが」
天狗は答えた。
「お前の神子とやらを、見ておきたくてな」
「見せたくない」
素っ気ない返事。
「恩人に向かって、それは随分な言い様じゃ」
「誰であろうと、同じだ」
「お前がこんなに面白い奴とは思わなんだぞ、泰継」
「だが・・・神子は・・・」
泰継は、少し微笑んだ。
「神子は・・・人と共に、人の中に在るものだ。
だから、私達はこの山を下りる」
天狗はしばしの間、無言であった。
ややあって、口を開く。
「泰継よ、それでよいのか」
泰継の笑みが、柔らかく広がった。
「よい」
木々の向こうに遠く霞む京の街が曙光に照らされ、徐々に明るくなっていく。
泰継は庵を振り返り、微笑んだ。
しかし、天狗に向き直った時、その顔には厳しい表情があった。
それは、陰陽師としての顔。
研ぎ澄まされた刃のように、泰継の眼が鋭く光る。
「天狗よ、頼みがある」
「改まって、何事じゃ」
「この庵を出るのには、もう一つの理由がある」
「言うてみよ」
「紫姫の占いに、立て続けに凶兆が現れている」
「京に清浄な気が戻ったばかりというのに、禍つ事がまたもや起こるというのか」
「近いことではない。しかし、占いに出るということは、遠いことでもない」
「ふむ。だがそれが、なぜお前と関わる」
「紫姫が、同じ夢を見続けているのだ」
「どのような夢じゃ」
「天地の青龍が・・・、剣を交える夢だ」
泰継は言葉を切り、天狗の目を見据えた。
「赤い炎と、白い波頭を背に、二つの龍が戦う・・・。つまりは」
「再び、八葉が選ばれるということじゃな」
泰継は黙って頷いた。
きらきらと露をきらめかせ、朝日が木の梢を照らした。
窪地に、明るい光が広がっていく。
泰継は庵に目をやり、言葉を続けた。
「山を下りる前に、私はこの庵に結界を施す。
地の玄武の持つ艮の気にのみ、開く結界だ。
だが、次代の八葉が選ばれる頃には、私はすでにいないだろう。
だから・・」
天狗は、かすかに心が痛むのを感じた。
だが、泰継は淡々と語り続ける。
「次の地の玄武がこの庵を訪れることがあったなら、伝えてもらいたいのだ。
この庵と、ここにあるもの全てを、役立ててほしいと」
天狗は静かに答えた。
「泰継よ、お前とは、もう会うこともないかもしれぬな。
なれば今生の別れに、約束しようぞ」
「感謝する」
短い言葉に、泰継は万感の意をこめた。
朝の微風が木立の葉末をそよがせる。
青い若葉が、小さな窪地に、ゆらゆらと揺れる透き通った影を落とした。
草庵を抱く窪地に流れる小川は、きらきらと朝日に照り映えている。
泰継は少しの間、眼を閉じ、考えていた。
私はこれまで、先代の優れた力のことばかりを思ってきた。
しかし・・・今なれば、少しだけ、その心が分かるのだ。
先代の地の玄武も私と同じ、造られし者。
同じ境遇の者は、この世に誰一人としていなかった。
強い力を持ちながらも、彼は・・・孤独であったと。
晴明様の気を宿す者は、もういない。
ならば次代の地の玄武は、私達のような存在ではないはず。
だが・・・、もし宿命というものがあるとするならば、
我らは・・・地の玄武はみな・・・孤独な者だ・・・。
「・・・・・泰継さん・・・」
細い声が聞こえた。
庵の扉が開く。
「神子」
泰継は、高い枝から一気に飛び降りた。
「きゃっ!だ、大丈夫ですか・・・?」
「すまぬ、神子。驚かせたか」
「謝らなくていいですよ。大丈夫なんだって、泰継さんに教えてもらってますから。
でもやっぱり目の前で見ると、ちょっとだけ、びっくりします」
「では、これからは、神子の前ではやらぬことにしよう」
「ええっ、それも何だかもったいないような・・・」
「私が飛び降りないのが、もったいない・・・とは?」
天狗はその様子を、心なしか面はゆい思いで見下ろしていたが、
やがて二人の後ろの小さな草庵に目を転じた。
長い歳月、泰継がただ一人過ごした庵だ。
中には書物だけがうず高く積まれている。
確かに、想い合う二人が暮らすには、あまりふさわしくないかもしれぬ。
孤独の歳月しか知らぬ泰継が、神子に手を引かれ、
己の幸福を見出した。
それが、神子と共に人の中へ入っていくことであるとは・・・。
その時、神子が天狗の立つ梢を真っ直ぐに見た。
そして、にっこりと笑うと、大きく手を振った。
「天狗さん、ありがとうございました!」
泰継め、余計なことまで喋りおったか。
天狗はバサリと翼を動かし、木々の間に姿を消した。
その後を追うように走りながら、神子はいつまでも手を振り続けていた。
終章 春陽
第6章 懐光
(8)雪夜 〜 短いエピローグ