果て遠き道

終章 春陽

2 別 れ



「感謝する。しかし恩には着ないぞ」
九郎が言った。
「別に、かまわないよ。オレは、そんな狭い了見の持ち主じゃないからね」
ヒノエが答える。
「そこが信用ならん」
「もうっ!九郎さんってば、そんな言い方ってないよ」
我慢できずに、望美が割って入った。


ここは、五条橋の弁慶の診療所。
百鬼夜行を浄化した翌日の夜だ。
戦いの疲れを癒す間もなく、その日は、何かと慌ただしい日であった。
診療所を訪れる怪我人が、常に増して多かったのは無理からぬこと。
鬼の里から戻った望美とリズは、その手伝いに忙殺された。

将臣と敦盛は、六波羅題にほど近い五条から離れるため、
昨夜のうちに姿を隠していた。
そして、忙しい中を抜けることを詫びながら、
望美達と入れ替わりに譲が出掛けていった。

星の一族の者達に自分の無事を知らせるため、藤原家を訪れる、と譲は言っていた。
彼らは幾つかの家に分かれて身を寄せているのだ。
だが貴族の礼に則って挨拶をしていては、一日でまわりきることなどできない。
譲は今夜、いずれかの家に世話になっているはずだ。

景時と朔は京邸に帰っていた。
だが、景時は自邸でくつろいではいないだろう。

政子が昨夜遅く、長い眠りから目覚めた。
側に付いていた朔すらも下がらせて、景時は政子と長く話していたようだ。
そして朝早く、梶原党の武士達と共に、政子を六条堀川の館まで送っていったという。

二人の間で何が話し合われたのかは、誰も知らない。
しかし、景時が何を目的としているかは、明らかだ、と皆が思っている。
梶原党の存続・・・、これ以外に景時が望むものがあるだろうかと。

だが、景時は異様なほどの働きぶりだ。

夜になり、診療所を閉めたところで、ヒノエが切り出した。
「忙しい軍奉行殿が、さっきわざわざオレに会いに来たよ」
「ええっ?ちっとも気がつかなかった」
「姫君と、他のヤロー達によろしくってさ。
中にも入らないで、そのまま馬で駆けていったよ」

「景時さん・・・大丈夫かな・・・」
景時の行く末を思うと、望美は心が晴れない。
景時は、政子と真っ向から対立してしまったのだ。
それはすなわち、鎌倉に刃を向けたのと同じこと。
しかし、政子の中の荼吉尼天が消え、京を滅ぼすという大それた陰謀が
潰えた今となっては、状況は大きく変わっているはず。
ならば、そのように慌ただしく動かなくても・・・。

「しかし景時も、政子様とはもう少し有利な取引が、できたはずですが」
弁慶が、望美の思っていることを口にした。

「景時のことだ。交渉事にぬかりはあるまい。それでもなお、ということは・・・」
「先生、お言葉ですが、景時は兄上・・・鎌倉殿に仕える身。
何があろうと、力を尽くして働くのは当然ではありませんか」
「へえ、こんな目にあってもまだ、頼朝を信じているのかい。
謀反の疑いなんて言ってるけどさ、それって見え見えの濡れ衣だろ」
「・・・・・・何かの、誤解があるのだ。俺は何としてもそれを晴らさねばならん」
九郎は、歯を食いしばるようにして答えた。
その心の内にある葛藤は、隠しようもない。

望美はわざと明るい声を出した。
「で、ええと、景時さんは、ヒノエくんに何の話があったの?」
「知りたい?」
「あ・・・熊野と関係あること? だったら、別に」
ヒノエは笑った。
「姫君は、景時のことが心配なんだね。大丈夫さ。ヤツは元気だったから」
「ええと・・・元気っていうのは・・・」
「ヤローの笑顔なんて、どうでもいいんだけどね、今日の景時は、
いつもの作り笑いじゃなくて、本当に笑っていたよ」
「そのようだったな」
リズがぽつりと言った。
ヒノエの眼が一瞬、光る。
「リズ先生もけっこう人が悪いね。景時が来ていたこと、気づいてたのかい」
「磨墨の蹄の音は、すぐに分かる」

望美の脳裏にあるのは、景時が傷だらけになってこの五条に現れた時のこと。
あのように昏い眼をした景時を見たことはなかった。
源氏に背いても百鬼夜行を止める、と景時が言い放った時、その心にあったのは、
己の決意が、周囲に累を及ぼさざるを得ないという、
梶原党の長としての辛さだけだったのか。

緊迫した状況だった。
あの時には、景時の心の内までも斟酌している余裕はなかった。

だが今、景時には本当の笑顔が戻ったという。
ヒノエは、人の本質をを見抜く目を持っている。
そして先生も。
「景時の気は晴れやかだった。大丈夫だ、神子」
リズが、望美に向かって微笑んだ。

景時の心にあったのが何なのかは、分からない。
しかし、百鬼夜行との戦いを通して、景時はそれに立ち向かい、
そして、打ち勝ったのだろう。

望美は、今まで心にかかっていた暗雲の欠片が、
ゆるやかに解けていくの感じることができた。

「優秀な御家人を、源氏がやすやすと手放すはずもありませんからね」
弁慶が笑顔で言った。
「望美さんは遠慮しましたが、僕としては、熊野別当と源氏の軍奉行が何を話したのか
少し興味があるんですが」
「何も隠すことなんて無いよ。景時に言ったのは、熊野は何もしないってことだけさ。
そしてオレも、何もしゃべらない。それだけってね」

リズが珍しく、小さな笑い声を出した。
「ヒノエらしい」
「それは大層な圧力ですね」
弁慶も笑いながら言った。
「だからヒノエは信用ならんのだ」
九郎が言う。

望美にも、それが・・・何もしないということが、
鎌倉に対してどれほどに強い牽制になるか、想像することができる。

「景時が今動いているのは、そのためか。
此度の百鬼夜行の再来に源氏が裏で関わっていると、
絶対に他の勢力に知られてはならぬ、ということだな。
特に・・・朝廷には」

「まあね。で、朝廷といえば・・・」
ヒノエは九郎に向き直った。
「九郎、院に会いたくない?」

こともなげに、ヒノエは言ったが、それは大変な一言だった。
さすがの弁慶も、言葉を失った。

そこでヒノエにあれこれと聞いてみれば・・・

ヒノエは今日、熊野に戻る旨、院に挨拶をしに行った。
そこで、年が明けるとすぐ、院がお忍びで熊野参詣に行くことを知った。
その時に九郎が院に目通りできるよう、こっそり取りはかろうというのだ。

「もう熊野に帰っちゃうの?」
「忘れてない?これでもオレは、神職なんだよ。
新玉の年を迎えるのに、いろいろと忙しいんだ」

ヒノエは、しかめっ面の九郎に言った。
「というわけでオレは明日の朝、ここを出るよ。九郎はどうするんだい」


そこで、冒頭のような会話となったのだった。

「九郎が疑うのも無理ないですよ。日頃の行いの結果ですね、ヒノエ」
「あんたにだけは言われたくないけどね。
まあ九郎も痛い目にあって、ちょっとは変わったってことじゃない?」
「それはそれで、よいことだな、九郎」
「せ、先生まで・・・」

笑い声が起こり、望美は何となく気勢をそがれて、一緒に笑ってしまった。

しかし、しばらくの後、リズと一緒に京邸への道を歩きながら、
望美の怒りは再燃していた。

つごもりが近い。遅く上がった細い月が、東の山の端にかかっている。

「やっぱり九郎さんてば、疑いすぎ。
九郎さんと法皇様を会わせたって知られたら、熊野が鎌倉から睨まれることになるのに。
ヒノエくんはその危険を承知で、九郎さんのために・・・」
憤る望美に対し、リズは静かに言った。
「ヒノエが熊野にとって益にならぬことはしないと、九郎はよく分かっているのだ。
百鬼夜行の再来で、一番利を得たのは、熊野かもしれぬ」
「先生、そんな・・・。私にはそれって、ずいぶん冷たい言い方に聞こえます」
「すまぬ、神子。お前には、このような考えは無縁のものだったな」

「ではなぜ、ヒノエくんは九郎さんに力を貸すんですか?」
「九郎は、確かに権謀術数には向かぬ。しかし、人の上に立つ者に真に必要なものとは何か。
それを思えば、九郎がいかに得難い指導者であるか、心利く者であれば見誤ることはない」
「ヒノエくんが、九郎さんのことを高く評価してるってことですね。
ということは・・・もしかして・・・」

望美は、譲がいつか言っていたことを思い出した。
この時空は、望美達の知っている歴史から、どんどん離れていっている、と。
百鬼夜行の再来を機に、時の流れは今また、大きく変わろうとしているのだ。

「そうだ。ヒノエはおそらく・・・鎌倉の・・・頼朝の代のその先を、考えているのだろう」

望美はリズの手をぎゅっと握った。
暖かく大きな手が力強く握り返し、そのまま望美を引き寄せる。

頼朝のその先・・・
望美の世界では、源平の戦の後も、戦乱が幾度となく起きたのだ。
京を見守り続ける龍神は、千年の後までも、人の世を見守ってくれるのだろうか。

リズが望美の耳元に、何事かをささやいた。
望美は顔を上げ、小さく答える。

月が群雲の間に隠れた。
二人の影が闇に沈む。
雪を踏むかすかな足音は、しばしの間、途絶えていた。



そして、年が明けた。

災厄の痛手をそこかしこに残しながらも、
京の街は、穏やかで清浄な気の中にあった。

傷ついた人々も、別れの悲しみにくれる人々も、
それぞれの祈りを胸に抱きながら、心を明日へと向けようとしている。
新年のささやかな寿ぎの日が過ぎ、街には新たな活気が蘇りつつあった。

そして、ある雪の深夜。

鴨の川辺に集まる人影があった。影は総勢七人。
京に残っていた者達が、景時を除いて全員集まっている。
小さな松明が降り積もった雪に照り映え、暖かい光をほんのりと灯していた。
暗い川面に、雪が落ちては消えていき、
岸近くには、杭にもやった小舟が一艘、揺れている。

将臣と敦盛が、京を離れる日が来たのだ。

「慌ただしい出発だね」
「ああ、俺達は姿を見られているし、いろいろとヤバいからな。長居は無用だ」
「報せをもらった時には、急な出立なので驚いたわ。
でも、ごめんなさい。兄上が来られなくて・・・」
「いや・・・来るわけにもいかぬと思う。だから我らのことは・・・、気にしなくていい」

「将臣くんも敦盛さんも、百鬼夜行を倒して街を救ったのに、
こんな夜中に、こっそり京を抜け出さなくちゃならないなんて」
望美が言うと、将臣は真顔になった。
「京の街に怨霊が増えちまったのは、平家の責任でもあるだろ。だよな、敦盛」
「はい、将臣殿。たくさんの怨霊の中には・・・間違いなく平家の者もいました」
「てわけだ。後くされ無くして帰りたいって、言っただろ。そういうことさ」

「平家に心寄せる者で、京に残る者達もいるようだな」
「都を離れがたく思う者も・・・少なくない。危険なことだが・・・」
「そうはいっても、情報と物流を途絶えさせずに済むってのは、ありがたいことだからな。
だから、彼らのネットワークを組み直して、できる限りの安全策は講じてきたぜ」

「は・・・?」
譲以外の全員が、一瞬固まった。

「相変わらずだな、兄さんは。そんなんじゃ、わかるわけないだろ」
「そっか?」
「第一、南からの迎えの船に乗るまでが大変なんだ。
肝心の兄さん達が、捕まったりするなよな」
「譲の心配性も相変わらずだな」
「直せと言われて直るようなもんじゃないさ」

弁慶が、小さな包みを敦盛に手渡した。
「怪我の薬と、何種類かの飲み薬です。使わずにすむといいですね」
「サンキュ、弁慶。
じゃ、そろそろ行くか、敦盛」
「はい、将臣殿」

将臣がもやい綱を解いた。

「将臣くん、敦盛さん、元気でね・・・」
「しみったれた顔すんなよ。縁があったら、また会えるさ」
「皆には・・・大変世話になった。どうか、これからも息災で・・・。
そしてリズ先生・・・、感謝します。先生のおかげで、私は自分を手放さずにいられました」
「お前の心が強かったのだ。百鬼夜行の中では、私こそ、お前に助けられた」

綱を解かれた小舟は、ゆらゆらと波間に漂い出た。
将臣が竿をぐん、と突くと、広い川の中央へと進んでいく。

「将臣くーーん、敦盛さーーーん」
望美の声が川面を渡っていく。

遠ざかる小舟の上で、手を振る二人の姿は
降りしきる雪と闇の向こうに、すぐに見えなくなった。

残った者達は、雪の中に無言でたたずむ。

縁に引かれ合い、ひと時集まった八葉が、再び別れゆく。
龍の宝玉は消え、もう二度と、その身に帯びることはない。
同じように、今生で二度と相まみえぬ者同士もいるのだろう。

災厄と激動の嵐は去り、時はたゆみなき歩みを進める。
それぞれの思いを抱いて、人も歩む。
生をいとおしみ、愛するものをいとおしみ、
去りゆくものを、来るべき者をいとおしみながら、
束の間の命を生きる。

松明に照らされた岸辺に、小さな光が踊る。
その向こうで、川は黒い広がりとなり、
流れる水音だけを、絶え間なく夜の空に響かせていた。




終章 春陽 

(1)昔日の春 (3)二人で歩く道

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