春が訪れた。
京の地を取り巻く深い山には若葉が萌え、川の水は滔々と流れている。
清浄なる風がさやさやと吹き渡り、霞の空には鳥の声が響く。
北山に聳える杉の大木の上に、朧なる気が集まり、形となった。
それは大きく翼を広げ、山の上を飛ぶ。
「泰継が去っていったのは、ちょうどこのような日であったか」
今は住む者のない山奥の草庵の上にさしかかり、ふと大天狗は昔日を思った。
その時、庵の扉が開いているのに気づく。
天狗の気が、ふるっと動いた。
それは笑い・・・に近い。
「あの鬼の子供か。いや、今は・・・」
天狗は翼をたたみ、庵の前に立つ木の枝に降り立った。
リズは腕輪を外し、塵一つ無く拭き浄めた庵の中央に置いた。
「先生、これが結界の要になるんですか?」
望美が問う。
「そうだ。私はここに、鬼の結界を張る」
「鬼の里を隠しているものですね」
「私が鞍馬の山に仕掛けた結界は、陰陽の術によるもの。
景時のような力を持った者なれば、破ることができる。
が、この術の力の源は鬼の気だ。通常の者には破ること能わぬ」
望美は草庵の中を見回した。
うず高く積まれた書物が、文机だけを避け、壁を覆っている。
他には、何もない。
望美の胸が痛む。
・・・白龍の逆鱗で飛ばされた幼い日の先生が、降り立ったところ。
火傷の痛みと、独りぼっちの心細さに、じっと堪え忍んだ場所。
望美の思いを察して、リズがその肩を抱き寄せた。
「私の話を思い出したのだな、神子」
「はい・・・。すみません、悲しい顔しちゃって。
この庵が見たいって、私の方が言い出して無理矢理ついてきたのに」
「嘆かなくてよいのだ、神子。私がここに再度来たのは、
地の玄武としての、最後の務めを果たすため」
「それが、結界・・・ですか?」
「泰継殿が残してくれたこの庵は、私を守り、育んでくれた。
なれば、八葉の任を終えた今、私も泰継殿のように、この庵を次代に伝えたい」
「また、次の八葉が選ばれるんでしょうか・・・。でもそれって、悲しいです」
「私も・・・この結界が、無用のものであってくれればよいと思う。
神子と八葉が選ばれるとは、即ち世に乱れが起こるということ。
平安のうちに時が流れ、いつしかこの結界も庵も、
山の中で人知れず苔むしていくならば、それでよい」
外に出て、扉を閉じ、術を施す。
リズを待つ間、望美は前を流れる小川に手を浸したり、
庵の後ろに立つ桜の木を眺めたりと、あちこち歩き回っていた。
が、森へと踏み入った時、尋常ならぬ強い気配を頭上に感じて足が止まった。
背の翼を大きく広げたそれは、高い枝の上に立っているのか、
ふわりと浮かんでいるのかも定かならぬ朧な影。
しかし一瞬の驚きから覚めると、望美はにっこりと笑った。
「北山の天狗さんですね。小さな先生を助けてくれた」
天狗は翼を小さくはためかせた。
「ありがとうございました」
天狗の気が、ふるふると動いた。
望美には、天狗が笑っているとわかる。
「神子!」
リズの声がして振り向き、再び上の枝を見ると、もうそこに天狗はいなかった。
「姿が見えぬから、迷子になったかと思ったぞ」
「今ここに、天狗さんがいたんです」
「そのようだな」
リズは高い枝を見上げた。
「ここに来たのは鞍馬に庵を構えて以来だ。
会いたかったが、天狗とは望んで会えるものでもない」
「そうなんですか。残念!」
「何か心残りか?神子」
「天狗さんに、小さい頃の先生がどんなだったか、聞きたかったから」
「・・・・・そうか。すまなかった、神子」
「?先生、どうしたんですか」
突然詫びの言葉を口にしたリズに、望美は驚いた。
「先生は私に、何も悪いことはしてないです」
「いや・・・昔語りをするという、お前との約束を、果たしていなかった」
「先生・・・」
望美はリズの身体に腕を回し、おでこを厚い胸に押し当てた。
「ありがとう・・・。でも、もういいんです・・・」
「よいのか?」
「はい・・・。先生は、先生だから。私の知らない時の中でも、
ずっと先生は・・・、私の大事なリズヴァーンだったから」
「神子・・・」
風と共に流れ来る気の中に、時折なつかしい気が混じる。
天狗はそれに向かって、ぽつりぽつりと語りかけた。
ああ・・・遠い昔のことだ・・・。
だが、つい昨日のようにも思い出される。
果てしなき時の流れの中では、人の生も、天狗の生も、
ただの瞬きほどの長さに過ぎぬからかもしれぬ。
柔らかい芽吹きに、木漏れ日さえも若葉の色に染まった山道を、
リズと望美は手を携え、下りていく。
急な坂にさしかかると、リズは望美を抱き上た。
「先生、大丈夫です・・・」
「神子が転ぶといけない」
「ちゃんと気をつけますから」
「・・・嫌・・・なのか」
「そんなこと、ないです」
「では、飛ぶぞ」
二人の姿がふっと消え、次には坂の下に現れた。
再び二人は歩き出す。
ただ一人、山を下りていく鬼の子供を
このように見送ったのは、いつのことであったか。
その時、リズが振り返った。
天狗のいる楠の巨木を見上げる顔には、柔らかな笑顔がある。
その口元が動き、言の葉を形作った。
「感謝する・・・」
天狗の中で、リズの笑顔に幼い日の面影が重なった。
張りつめた気を、痛いほどに発していた幼子の顔が。
長い時を経て、その顔には幸福な光が宿り、
人生という果て遠き道を、今は二人、歩いていく。
幼き日から憧れ続けた、神子と共に。
「リズヴァーンよ・・・・・
最期に・・・よきものを見せてもらった・・・・・・」
朧なる影はゆるゆると大気の中にほどけてゆき、
やがて天空へと昇っていった。
霞はいつしか消え、空は青く澄み渡る。
京の春は・・・美しい気に満ち、さざめく生命の喜びに満ちていた。
長い物語を最後までお読み下さり、本当にありがとうございました
終章 春陽