果て遠き道

終章 春陽

3 二人で歩く道



春が訪れた。
京の地を取り巻く深い山には若葉が萌え、川の水は滔々と流れている。
清浄なる風がさやさやと吹き渡り、霞の空には鳥の声が響く。

北山に聳える杉の大木の上に、朧なる気が集まり、形となった。
それは大きく翼を広げ、山の上を飛ぶ。

「泰継が去っていったのは、ちょうどこのような日であったか」
今は住む者のない山奥の草庵の上にさしかかり、ふと大天狗は昔日を思った。

その時、庵の扉が開いているのに気づく。
天狗の気が、ふるっと動いた。
それは笑い・・・に近い。

「あの鬼の子供か。いや、今は・・・」
天狗は翼をたたみ、庵の前に立つ木の枝に降り立った。



リズは腕輪を外し、塵一つ無く拭き浄めた庵の中央に置いた。

「先生、これが結界の要になるんですか?」
望美が問う。
「そうだ。私はここに、鬼の結界を張る」

「鬼の里を隠しているものですね」
「私が鞍馬の山に仕掛けた結界は、陰陽の術によるもの。
景時のような力を持った者なれば、破ることができる。
が、この術の力の源は鬼の気だ。通常の者には破ること能わぬ」

望美は草庵の中を見回した。
うず高く積まれた書物が、文机だけを避け、壁を覆っている。
他には、何もない。

望美の胸が痛む。
・・・白龍の逆鱗で飛ばされた幼い日の先生が、降り立ったところ。
火傷の痛みと、独りぼっちの心細さに、じっと堪え忍んだ場所。

望美の思いを察して、リズがその肩を抱き寄せた。

「私の話を思い出したのだな、神子」
「はい・・・。すみません、悲しい顔しちゃって。
この庵が見たいって、私の方が言い出して無理矢理ついてきたのに」

「嘆かなくてよいのだ、神子。私がここに再度来たのは、
地の玄武としての、最後の務めを果たすため」
「それが、結界・・・ですか?」

「泰継殿が残してくれたこの庵は、私を守り、育んでくれた。
なれば、八葉の任を終えた今、私も泰継殿のように、この庵を次代に伝えたい」
「また、次の八葉が選ばれるんでしょうか・・・。でもそれって、悲しいです」

「私も・・・この結界が、無用のものであってくれればよいと思う。
神子と八葉が選ばれるとは、即ち世に乱れが起こるということ。
平安のうちに時が流れ、いつしかこの結界も庵も、
山の中で人知れず苔むしていくならば、それでよい」

外に出て、扉を閉じ、術を施す。

リズを待つ間、望美は前を流れる小川に手を浸したり、
庵の後ろに立つ桜の木を眺めたりと、あちこち歩き回っていた。

が、森へと踏み入った時、尋常ならぬ強い気配を頭上に感じて足が止まった。
背の翼を大きく広げたそれは、高い枝の上に立っているのか、
ふわりと浮かんでいるのかも定かならぬ朧な影。

しかし一瞬の驚きから覚めると、望美はにっこりと笑った。
「北山の天狗さんですね。小さな先生を助けてくれた」
天狗は翼を小さくはためかせた。
「ありがとうございました」
天狗の気が、ふるふると動いた。
望美には、天狗が笑っているとわかる。

「神子!」
リズの声がして振り向き、再び上の枝を見ると、もうそこに天狗はいなかった。

「姿が見えぬから、迷子になったかと思ったぞ」
「今ここに、天狗さんがいたんです」
「そのようだな」
リズは高い枝を見上げた。

「ここに来たのは鞍馬に庵を構えて以来だ。
会いたかったが、天狗とは望んで会えるものでもない」
「そうなんですか。残念!」
「何か心残りか?神子」
「天狗さんに、小さい頃の先生がどんなだったか、聞きたかったから」
「・・・・・そうか。すまなかった、神子」

「?先生、どうしたんですか」
突然詫びの言葉を口にしたリズに、望美は驚いた。
「先生は私に、何も悪いことはしてないです」
「いや・・・昔語りをするという、お前との約束を、果たしていなかった」
「先生・・・」
望美はリズの身体に腕を回し、おでこを厚い胸に押し当てた。
「ありがとう・・・。でも、もういいんです・・・」
「よいのか?」
「はい・・・。先生は、先生だから。私の知らない時の中でも、
ずっと先生は・・・、私の大事なリズヴァーンだったから」
「神子・・・」



風と共に流れ来る気の中に、時折なつかしい気が混じる。
天狗はそれに向かって、ぽつりぽつりと語りかけた。

ああ・・・遠い昔のことだ・・・。
だが、つい昨日のようにも思い出される。
果てしなき時の流れの中では、人の生も、天狗の生も、
ただの瞬きほどの長さに過ぎぬからかもしれぬ。


柔らかい芽吹きに、木漏れ日さえも若葉の色に染まった山道を、
リズと望美は手を携え、下りていく。

急な坂にさしかかると、リズは望美を抱き上た。
「先生、大丈夫です・・・」
「神子が転ぶといけない」
「ちゃんと気をつけますから」
「・・・嫌・・・なのか」
「そんなこと、ないです」
「では、飛ぶぞ」
二人の姿がふっと消え、次には坂の下に現れた。

再び二人は歩き出す。


ただ一人、山を下りていく鬼の子供を
このように見送ったのは、いつのことであったか。

その時、リズが振り返った。

天狗のいる楠の巨木を見上げる顔には、柔らかな笑顔がある。
その口元が動き、言の葉を形作った。
「感謝する・・・」

天狗の中で、リズの笑顔に幼い日の面影が重なった。
張りつめた気を、痛いほどに発していた幼子の顔が。

長い時を経て、その顔には幸福な光が宿り、
人生という果て遠き道を、今は二人、歩いていく。
幼き日から憧れ続けた、神子と共に。

「リズヴァーンよ・・・・・
最期に・・・よきものを見せてもらった・・・・・・」

朧なる影はゆるゆると大気の中にほどけてゆき、
やがて天空へと昇っていった。

霞はいつしか消え、空は青く澄み渡る。
京の春は・・・美しい気に満ち、さざめく生命の喜びに満ちていた。






長い物語を最後までお読み下さり、本当にありがとうございました

終章 春陽 

(1)昔日の春 (2)別れ

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