花の還る場所 エピローグ
3.重 陽
京の空高く、白い鷺が舞っている。
晴明の眸となってはばたく白鷺は、眼下に広がる街を見渡す。
長の年月、晴明が陰陽師として過ごし、
人の心の弱さ、醜い深淵を覗き、
軋む世の生み出す闇と対峙してきた街だ。
今日もまた、東の市で喧嘩騒ぎが起きている。
大内裏の豊楽院前で、貴族が言い争いを始めた。
童たちが笑いながら走る。
老翁と老婆が手を取り合って、神社の長い階を上っていく。
青い空は変わらずとも、そこに浮かぶ雲が刻々と形を変え、
二度と同じ形になることはないように、
世の様、人の様も移ろってゆくもの。
否、時という大きな流れに浮かぶ泡沫にも似て、
移ろうものが世であり人なのだ。
だがその泡沫の、何と美しく、何と愛しいことだろう。
邪な者も、優しき者も、強き者も、俯くばかりの者も
皆、等しく日の下で今を生きている。
龍神は「明日」をもたらしたが、
そこに幸せをもたらすのは人なのだ。
白鷺は一条の橋に舞い降りた。
ほっそりとした首を傾げ、空を流れゆく雲を見上げる。
――遠き世界にも、このような空が続いているのであろうか。
晴明は、遙か時空の彼方の世界を思い、
そこに生きる愛弟子を思う。
泰明よ……
お前は「人」だ。
神子と共に愛し合い、生きて……
幸せになれ。
最後にして最強の弟子の行方を尋ねられるたび、
晴明は短くこう答えるのが常であったという。
「泰明は人になった」と。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
時は過ぎ、稀代の陰陽師安倍晴明が逝って、早五年の歳月が流れた。
そして秋、長月――
亡き父の後を継ぎ、安倍家当主となった吉平は、
静かな眼差しと向き合っている。
名は、すでに決めていた。
「お前は…安倍泰継だ」
「あべの…やす…つぐ…」
唇が動き、ぎこちなく言葉を発した。
長い睫毛が白い顔に影を落とし、
左右で異なる色をした双眸が、ゆっくりとまばたきする。
泰継はそれ以上、言葉を重ねなかった。
吉平を凝視する透き通った瞳は、
無言で問うているようだ。
答えのない問いを。
吉平には答えることのできない問いを。
安倍晴明の気から生み出された存在。
瞳の色、端正な顔かたち、真っ直ぐに流れる髪も声も
泰明に生き写しでありながら、纏う気はあまりにも違う。
泰明は精髄の器に収まらず、激しき力のままに生まれ出た。
火花の如く暴れる泰明を人の形にするために、
あの晴明が、天狗の力を借りたほど。
だが泰継は、導かれるままに器に入った。
そして、ひっそりと待ち続けていたのだ。
いつ来るとも知れぬ時を、
十年に余る年月を。
その間に、安倍家に晴明や泰明のような才が育っていたなら
もう一つの精髄の存在は時の中に忘れ去られ、
人知れず朽ちていったことだろう。
泰継は、知っているのだろうか。
いや、知るはずがない。
形無き精髄は何も思わぬのだから。
だが泰継は、生まれ出たその時から、
悲しみを知る者の眼をしている。
さやさやと吹いた秋の風が、泰継の髪を揺らした。
と、泰継は庭の一角に顔を向ける。
「何を見ている、泰継」
吉平が問うと、ほっそりとした指が一叢の菊花を差す。
「仄かな香に気づいたか。それは菊だ」
「……き…く」
今日は重陽の日。
強き陽の重なりは、泰継の持つ強い陰の気と均衡を保つだろう。
宮中では観菊の宴が催されている。
帝の御前には、栄華を極める左大臣と、不仲の右大臣、
法親王も臨席しているはずだ。
ふと、十年近く前の儀式の日を思い出す。
菊花の前に身を屈め、おずおずと花に触れる泰継の横顔に、
遠い日の泰明が重なる。
なぜだろうか……胸が、痛い。
風に花が揺れ、泰継は手を止めた。
――泰継よ、お前の誕生に、私が祈ることはただ一つ。
お前にいつか、幸せを知る日が来るように…と。
吉平はその時、泰継の顔に小さな微笑みを見た…と思った。
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―― 花の還る場所 ――
エピローグ
1.京・前編
2.京・後編
4.冬の朝
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2010.08.03 筆