龍の夢


第1章 彼方より来たりて


2 囚われしもの




腕の鈴が、チリン…と鳴った。

それは幽かな音。
冷たい大気を震わせることなく、私の心の中にだけ、響く音だ。

『神子、誰かが来る……男が…三人だ。あなたのことを話している』
「わかった」
あまり刺激しない方がいいのだろう。
黎明の空に背を向け、よじ登っていた岩壁から飛び降りる。

『あなたを外に出そうと話している。でも、よくない目的のためのようだ』
「まともな連中じゃないものね」

『けれど神子、よいこともあるよ。
あなたと縁ある者が、馬を駆って近づいてくる』
「縁?私と…?」
『あきらめないで、神子。きっと逃げ出す機会がくる』
「そうだね。私も、絶対あきらめない」
チリン…鈴の音が応える。

「おい!出ろ!」
十字格子の扉を開けて、男が怒鳴った。

牢を出るなり、後ろ手に縄をかけられる。
「おとなしくしていれば、少しは命が延びるってもんだぜ」

隣の牢から、呻き声と小さな悲鳴、それを制する声が、
入り交じって聞こえてくる。
幾人もの女の声だ。

「うるせえ!」
小さなざわめきは、男の大声で、しんと静まった。

「よかったなあ、お前ら、こいつのおかげで命拾いよ」
男の一人が私を指さし、格子の向こうの女達に言う。
「余計なことしゃべるんじゃねえよ」
別の男が、不機嫌そうに遮った。

しかし、彼女たちが私を知るはずはない。
私を見て、怪訝な表情が浮かぶ。

彼女たちの心配は、他のところにあるのだろう。
「巫女様は、どこに!」
「ご無事なのですか!」
二人の女がまろび出て、格子にすがって叫んだ。

小さく舌打ちして、男の一人が女達の前に立つ。
女達に顔を近づけ、低い声で言った。
「知りてえのか」
思わず頷く二人に、男はにまりと笑う。
「じゃあ、教えてやるよ」

凶暴な殺気を感じる。
この男……!

「斬られる!避けてっ!!」
私は叫んだ。

格子越しに突き出された太刀の切っ先が、
咄嗟に身を退いた女の顔を掠る。

「このあま、余計なことをっ!!」
自分の気まぐれが阻まれたことに、男はひどく怒ったようだ。
怒りに我を忘れた目を私に向け、太刀を大きく振り上げた。

腕の鈴が、問うように鳴る。
……まだ大丈夫だよ、白龍。

「馬鹿野郎!」
先頭に立つ男が怒鳴る。
「ここで殺っちまったら、おめえがお頭に斬られるんだぞ」
その言葉に、男は唾を吐き捨てると、しぶしぶ太刀を収めた。

「さっさと歩きな」
乱暴に背中を小突かれて、歩き出す。

巌の奥は、急な下り坂になっていた。
暗くてよく見えないが、捕らえられて運ばれてきた時に通った通路に間違いない。
このまま外に出るのだろう。
男達の話から想像すると、あまり嬉しくないことが待っているようだが。

通路の空気は淀んでいた。
男達は慣れっこの様子だが、黴と体臭と腐ったような臭いで、気分が悪い。

が、突然、それに倍する血腥い異臭が漂ってきた。
いや、血腥いのではなく、これは間違いなく血の臭いだ。
顔を巡らせると、すぐ脇に上へと向かう通路が分岐しているのに気づいた。
この臭いは、そこから流れてきているのだ。
通路の奥には、見張りらしい男の影が見える。

「喜びな、巫女様の身代わりになれるんだ」
分岐路を顎で示しながら、男の一人が言った。

身代わり?
巫女?
この血の臭いは、巫女の?

「どの娘でもよかったのに、お頭も気まぐれだな」
「髪の毛を切るなんぞ、たいした手間でもねえのにな」

『神子、傷を負った(かんなぎ) がいる』
…それなのに、閉じこめられているなんて…。
…傷は、ひどいの?
『強い意志を感じるよ。生命が尽きるのを、必死で止めている』
…私は、その人の身代わりになるらしい。
『神子、私は弱くなってしまったけれど、神の力は残っている。
この変じた姿でも、あなたをきっと守るよ』
…ありがとう、白龍。

急に襟首を掴まれた。そして
「ほらよ!」
荷物のように放り出される。
倒れた身体に触れたのは、堅い岩ではなく、冷たい雪。
顔を上げた途端、まぶしさに目が眩む。

やっと外に出られたのだ。

巌の前は広く開けていて、大勢の男達が集まっていた。
百人以上は、いるようだ。 全員が武装し、猛々しい気を発散している。
これから戦いが始まるのだろうか。

広場の周囲は木立に囲まれている。
凍てつくような大気。 木の間越しに、太陽が低く輝く。

ああ、そうだった。
あちらの方向には、凍った川があったはず。

そう思った時、眼前に立った大男が陽の光を遮った。

「手筈はわかっているな!」
大男は、しゃがれた大声で言った。

一斉に鬨の声が上がる。

「お頭、来ましたぜ! 伽卦流のやつ、一人だけです!」
広場の端に立つ木の上から、見張りとおぼしき男が叫んだ。

「かっ!馬鹿な野郎だ」
お頭と呼ばれた男は、鼻で笑った。
追従の笑いが広がる。

頭は、私を見下ろした。
髪の毛も髭も、黒々と長く伸びている。
もじゃもじゃの眉の下には、血走った大きな目。
濃い髭がぱっくりと割れて、ニヤリとした笑いの形になる。

「陸奥の 疾風(はやて)は、ここで終わるのよ、 オレ様の手でな」

陸奥の疾風?
そう言われても、わからない。
私のことを、この地の娘と思っているのだろうが…。

「すぐに、後を追わせてやるから、安心しな」

「その役、オレにやらせてくれ」
さっき太刀を振りかざした男が言った。

頭が頷くなり、男は私を縛めた縄を掴み、
広場に立つ大きな木の下へと引きずっていく。

逆手に引かれ、腕に激痛が走る。

……痛み……。
私に戻ってきた、感覚。

生命の瀬戸際にあって、私は不思議なほど落ち着いている。

今、私は、私でいることができるから。

身の内から絶え間なく、揺れ動き、流れ、溢れ来るものは、 もうない。
私の中を行き交う数多の幻も、 もう見えない。
私の周囲に張り巡らされた、透明な隔壁は消えた。
私はもう、遠く隔てられてはいない。
私は直接、世界に触れることができる。

自分を失うまいと、ひたすら身構える必要もない。

なぜなのかは、わからない。
白龍が宿ったから…かもしれない。
そうではないのかもしれない。

けれど私は、やっと私を取り戻した。
あの日からずっと、探し続けていた私を。

チリン…。

…そうだね、白龍。
私はまだ、探さなければならないものがある。

ここで、死ぬわけにはいかないんだ。

『神子…巽の気…あなたの縁が来るよ』

顔を上げて、陽光を背に、駆け来る馬を見た。

「頭を上げるんじゃねえ!」
男の足が背中を蹴り、私は雪に突っ伏した。
「おとなしくしてろ!」

脅しの言葉、捻り上げられた腕の痛み、蹴られた背中の痛み、
下向きに押しつけられた苦しさ。

しかし、私は別のことを思っている。
一瞬だけ見た、馬上の男の姿を。

逆光で顔も定かではなかった。
でも……

既視感が、私を襲う。

私は、知っている。

「伽卦流」を。
陸奥国のさらに奥、都母(つも) よりも遠い国から、
父親と二人で流離い来た、伽卦流の幼い日を…。




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2008.2.6




第1章 彼方より来たりて

[1.暁の雪原]  [2.囚われしもの]  [3.妖狐と修験者]  [4.都の武人]
[5.喪われた名]


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