白い子狐が、草の中にちょこんとすわっている。
「コゥコゥ…」と鳴きながら、物問いたげに見つめているのは、
向かいの倒木に腰掛けた修験者。
その修験者、齢は二十歳をこえたばかりか。
冬というのに、素足のまま。
長い髪を無造作に束ね、古びた錫杖を手に、子狐の鳴き声に耳を傾けている。
透き通るような肌の色と、ほっそりと丈高いその姿は、
険しい山々を駆け、荒行に励む修験者とは到底思えないものだ。
だが、目に見える形ほど、あてにならぬものはない。
小さく首を傾げ、修験者は子狐に向かって口を開いた。
「お前は、葛の葉というのか。
良い名だな」
「コッ」
子狐は、草をかき分けると、名残の赤い紅葉に
小さな頭をこすりつけた。
「その身を飾りたいのか?」
「コッ!」
「人間の女の真似をして何とする」
子狐が切なげに「コゥゥ…」と鳴いた。
「そうか……それで、人間の後を追って、道に迷ったのだな。
そんなに、人間の様子が面白いか」
「コッ!!」
間髪入れず、無邪気に返ってきた答えに、
修験者の口元にかすかな笑みが浮かぶ。
が、それは瞬きほどの間に消えた。
「そうか……。
だが、人間に心を許してはならぬ。
人間とは欲深く、底知れず恐ろしいものだ」
その言葉に、子狐は怯えたように片方の前足を少し上げ、
後ずさりしながら「コゥ…」と鳴いた。
「そうだ。私にも近づかぬがいい。
もしも人間に捕まれば、どのような酷い目に遭うやもしれぬぞ」
修験者は、自分でも気づかぬうちに、
その白い首に残った赤い縄目のような痣に触れていた。
「コ…クゥゥ…」
子狐はしょんぼりと、地面に鼻面を押しつける。
その時、ひょお……と、なま暖かい風が吹き抜けた。
修験者は、つと立ち上がる。
子狐はぴくんとして、顔を上げた。
風の吹き来たった方を見れば、いつの間にか、ひょろりと細い女がいる。
女は両の袖を胸の前で組み合わせ、細い目で修験者と子狐とを
交互に見比べた。
ここは山中の狭い窪地。
近づく者を見逃すことはないはずだ。
しかし、修験者はちらりと女を見やっただけだった。
そして子狐は、嬉しそうに「コーン!」と鳴いて、女に駆け寄ろうとした。
が、その刹那、女の口が大きく裂けた。
「キシーッ!」
喉から出たのは、軋んだような声。
子狐は、驚いたようにぴたりと足を止める。
「母が迎えに来たか」
修験者が言うと、子狐は「コッ」と小さく肯定した。
女は、じっとしたまま、動かない。
細い目には、かすかな怯えの色がある。
「無理をするな。そなたの姿に戻ればよい」
修験者は女に向かって言った。
女は深々と頭を下げると、すとんと地に両手をつく。
ゆらりゆらりと、女の周囲に青白い気が立ち上った。
炎のように絶え間なく形を変える妖気の中で、
女の姿は見る間に巨大な白狐となった。
白狐は、細長い首を伸ばすと、のど笛を修験者に向け、
耳も尾もだらりと垂らしたまま地に伏せる。
「怯えずともよい。
娘を案じて来たそなたを、咎めることはない」
「クオォ…ン」
白狐は一声鳴くと、身を起こした。
「行ってよいぞ」
「コォォッ!」
子狐が駆け寄ると、白狐は、その首の後ろをくわえた。
その時、
「
「何処におわしますかーーー!!」
風に乗って大勢の人間の声が聞こえてきた。
白狐は子供をくわえたまま、修験者に向かって
小さく頭を振って別れの挨拶をした。
そして窪地から一気に飛び上がり、大きく跳躍しながら姿を消す。
修験者は白狐を見送ると、錫杖をとん、と地面に突いた。
錫杖に付いた金輪が鳴る。
その音を頼りに、ほどなくして仰々しい一行が現れた。
同胞の修験者ばかりではない。
この和泉一帯を治める豪族の長と、兵士に加え、
修験者には馴染みのない、華美な装束の男もいる。
だが、その男の案内と護衛のために、
このように大げさな一団が組まれたのだと、容易に想像はつく。
都人か……。
わざわざこのように出向いてくるとは、
さして興味の湧く話でもあるまいが……。
「占音様、お探し申しましたぞ」
修験者の一人が、野太い声で言った。
「何?まこと、この若ぞ…いや、若者が、
都人は、素っ頓狂な声を上げた。
「かの役小角様、最後の高弟と、伺っておりましたぞ」
修験者達と豪族の長は、やれやれ、という視線を交わし合った。
「先程からも、驚かぬようにと申し上げておりました由、
お分かりになられたかと」
「こちらの方こそは、役占音様に相違ありません」
占音と呼ばれた年若き修験者は、くるりと背を向けた。
「用が無くば、私は行く」
「おおお!!そ、それはなりませぬぞ!!」
都人は叫ぶなり、占音の袖を引いた。
と思ったが、都人の手は空を掴み、慌てて見回すと、
占音はすでに遠く離れた所を、すたすたと素足で歩いていた。
都人と一行は、その後を追う。
「行ってはなりませぬ!!
失礼の段はお許しを!
帝の…帝直々のお召しにございますれば、何とぞ、京に!!」
ひいひいと走りながら、都人は叫んだ。
極秘に、という命令は受けている。
だが、何も伝えぬうちに本人に去られてしまっては元も子もない。
重い責任が我が身に問われることになるのだ。
帝の使いは、必死だった。
彼の思いが通じたのか、占音は足を止めた。
「用は、それだけか」
「は、はい!
詳しい話は、畏れ多くも帝ご自身より占音様へ
伝えられることになっております」
「あいわかった」
短い言葉を残し、次の瞬間、占音は消えた。
風もなく、音もなく、足跡すら残さずに。
第1章 彼方より来たりて
[1.暁の雪原]
[2.囚われしもの]
[3.妖狐と修験者]
[4.都の武人]
[5.喪われた名]
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