巌に飛び込むと、中は淀んだ空気に包まれていた。
明るい雪原から急に暗い洞窟に入ったせいで、周囲がまるで見えない。
目が慣れるまでの数十秒が、惜しい。
今ここで、やつらの仲間に襲われたら……。
私が入ってきた気配に気づいたのか、奥でガタリ、と音がした。
「おい、もう片づいたのか?」
足音が近づいてくる。
逃げ場はない。隠れる場所を探すこともできない。
心臓が、きゅっと縮まる。
伽卦流に危険を知らせた時は、無我夢中だった。
首筋に冷たい刃の感触を感じながら、躊躇う余裕すらなかった。
けれど今は……。
その時、白龍の声がした。
『神子……鈴を鳴らして』
……腕輪と、足飾りについた鈴のこと?
『そう』
……でも、鳴らない鈴だよ。
歩いても走っても、音を立てなかった。
『神子が望めば、鳴る』
男の怒声が響いた。
「あ!てめえは?!」
朧に、男の輪郭だけは分かる。
「何!」
「どうした」
奥から、次々と男達の来る気配。
私は、足をとん、と踏みならした。
チリン…。
澄んだ音色が響く。
続けてもう一度。
今度は、腕を振ってみる。
涼やかな音が広がる。
鈴の音は、壁や天井に幾度も反射し、重なり合い、
不思議な音色となって洞窟を満たしていく。
『大丈夫だよ、神子。
これで、誰もあなたを害さない』
やっと目が慣れて、見渡してみれば、
上へと続く階段の際に、数人の男が重なり合うように倒れている。
気持ちよさそうな、ぐがあぐごお!と言う音は、聞き違えようもない。
……ありがとう、白龍。
一気に、階段を駆け上がる。
傷ついた巫女のいる横穴を通り過ぎ、最上階へ。
そこには、囚われた女達がいる。
巫女をここから出すには、手は多い方がいい。
しかし……
「そっか、眠らせる相手を選ぶわけにはいかないんだね」
私は盛大にため息をついた。
女達を助けようと来てみたものの、
牢の中も外も、女も男も、皆気持ちよさそうに眠っていたのだ。
チリ…と、白龍の鈴がすまなそうに小さく鳴る。
鈴にそっと手を触れて、気にしないで、と伝える。
眠りこけた見張りの男の腰から短刀を抜き、
牢の格子を結んだ縄を切ると、扉を大きく開けた。
切り取った縄で男の手足をぐるぐる巻きに縛り上げる。
素早くやったつもりだ。
だが、男達がいつ目を覚ますか分からない。
鈴の効果がいつまで続くのか、白龍に尋ねてみてもいいが、
神様の感覚は、人とは違う。
白龍は残された力の中で、精一杯のことをしてくれたのだ。
後は、私が何とかするしかない。
岩を掘った不規則な段差の続く通路を、今度は全速力で駆け下り、
横穴をよじ登るようにして、奥の部屋を目指す。
見張りは三人もいたが、幸いにもまだ目覚めていなかった。
ここは、女達の閉じこめられていたような牢ではなく、
光も射さない、ただの狭い空間。
奥に、こちらに顔を向けて横たわった人影が見える。
私は身を屈めて進んだ。
と、その人影が、苦しげに息を吐き出すと、かすかに身じろぎした。
白龍の鈴でも、眠ってはいなかったのだ。
そっと声をかける。
「巫女様、ですね」
かすれて弱々しいながら、その人はよく通る声で答えた。
「そうです。私はあなたを待っていたのですよ。
神を宿す娘……」
広場は男達の歓声と怒声に包まれている。
「狗麻!!」
振り下ろされた悪土王の斧をかいくぐり、
周囲の声に負けじと伽卦流が叫んだ。
「加勢を頼むのは、許さねえ!!」
重い斧の勢いに体勢を崩すこともなく、悪土王は斧を横に薙ぐ。
咄嗟に避けた伽卦流の胸当ての紐が、引きちぎれた。
「馬鹿野郎!気を散らすな!!」
狗麻が怒鳴るが、その声すら周囲の声にかき消される。
それでも伽卦流は、戦いながら狗麻のいる方へと近づこうとする。
思う存分に動き回る戦いを得意とする者同士、
伽卦流は明らかに、自分に不利な戦い方をしている。
「伽卦流のやつ、何をしてやがる…」
狗麻が歯がみをした時、伽卦流の声がやっと届いた。
「巫女はあの巌にいるぞ!!」
それを聞くやいなや、狗麻は両脇にいた仲間の襟首をひっつかみ、
凄い形相で走り出した。
「娘が一人だけで、助けに入った!!」
続けて、伽卦流はそう言ったようだ。
だが、狗麻は聞き流した。
そのようなことは、あり得ない。
聞き違いに決まっている、と思ったのだ。
巫女は、ひどい傷を負っていた。
だが、手当を受けた様子はない。
暗がりのせいで、はっきりと傷口が見えないのは、
かえってよかったかもしれない、と思う。
私が目にしたことの無いような傷に違いないから。
どうやって、外まで運べばよいのだろう……。
躊躇う私に、巫女は白い手を差し出した。
「起こして下さい。あなたの肩を貸して……」
巫女の傷は、右側の方が酷いようだ。
こわごわ、傷の浅い方の腕の下に、自分の肩を滑り込ませる。
身を屈めなければ通れないほど低い穴を、巫女を抱えてにじり出た。
急がなければならないと分かっていても、慎重に動かざるを得ない。
それでも、時折無理な力がかかっているはずだ。
だが、巫女は声一つあげることもなく耐えている。
やっと通路へ出た。ここは少し明るい。
髪が無造作に短く切られていることに気づく。
私が身代わりにたてられたのは、このためと分かる。
巫女という呼び名から、神がかった老婆を連想していたが、
この人はまだ若く、美しい顔立ちをしていた。
だがその白い顔には、まぎれもなく死の影が射している。
一目だけでも、仲間の顔を見せてあげなくてはと思う。
急ぎ足になった私の心を見透かしたように、巫女が言った。
「いいのです。私はあなたに会いたかったのだから…」
さっきも同じことを言った。
どういうことだろう。でも、今はあまりしゃべらない方がいい。
「話すと身体に障ります」
しかし、巫女は続けた。首を振ることすらできないのだ。
「この巌に神の気を感じた時には、どんなにうれしかったことか…。
あなたに会うまでは生きなければ、と思い定め、耐えてきたのです」
「なぜ私に?……あなたには、白龍が分かるの?」
「龍……大いなる神。その神を宿すあなたに、私は願いたかった…」
「願いたかった?今は違うの?」
「私の代わりに、巫女になってほしいと…」
それは……できない……。
でもせめて、この巫女の力になりたい。
「巫女になるとこ以外で、私にできることはないかな」
「一つだけ……」
「それは何?」
「これを……あなたに…」
そう言うと、巫女は胸元を示した。
そこには、管玉と勾玉を連ねた首飾りがある。
言われるままに手に取ると、それは蛍のような光を放ち、
気が付くと私の首にかかっていた。
「え?」
きょとんとする私に、巫女はかすかな笑みを浮かべた。
「この首飾りの、次の持ち主を探してほしい……」
「その人が、新しい巫女になるってこと?
でも、どうやって探せばいいの?」
「首飾りが、その巫女の元へとあなたを導く」
そのような娘が、すぐに見つかるのだろうか……。
それより前に、伽卦流は無事なのか、
私もここから一緒に脱出できるのか、
何一つ、確かなことはない。
でも、この巫女の心だけは、揺るぎなく確かだ。
命を賭けて、私を待っていてくれた。
私も、応える。
「分かった。必ず見つけるよ」
「感謝します、龍を宿す娘。
私には、あなたに…してあげられることは、何もないけれど…」
巫女の声が、だんだん細く小さくなっていく。
「いいの、何もいらない。
だから、もうしゃべらないで」
「あなたが喪った名の代わりに、私の名を…あげます」
喪った……?
私の名……?
私は、私だ。
でも私は……
白龍と一緒に時空を渡り
途中で、大切な人達とはぐれてしまったのだ…
室山章人さん……
原田嗣務くん……
私は二人を助けなくてはならない……
私は二人の友達だった……
そう、私は、二人の友達の私だ……
だが、その私とは、……誰なのか?
ガタン、ガタン、とあちこちで音がした。
寝惚けただみ声が聞こえてくる。
男達が、とうとう目を覚ましたのだ。
「凛……あなたに、私の名を……」
ふっと、巫女の身体から力が抜けた。
前と後ろに、わらわらと男達が現れた。
足の鈴を鳴らしてみる。
しかし、巫女を抱えた腕は自由にならない。
男達が、無言で太刀を抜き放った。
第1章 彼方より来たりて
[1.暁の雪原]
[2.囚われしもの]
[3.妖狐と修験者]
[4.都の武人]
[5.喪われた名]
西の夢幻
[1.地]
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