広場に走り入った黒馬は、前足を高々と上げて、大きく嘶いた。
「約束通り来たぞ!」
馬上から、朗々たる声が響き渡る。
大勢の敵に囲まれた中に、ただ一騎というのに、
その声に怯えの影は微塵もない。
「いい度胸だ。それだけは褒めてやるぜ、伽卦流」
広場に集まった男達の頭、悪土王は、そう言って中央に進み出る。
伽卦流は馬上から素早く周囲の状況を見て取った。
木立に囲まれた広場。
奥には高く聳える崖があり、人一人、やっと通れるほどの洞穴が口を開けている。
あそこが、悪土王の根城の一つだ。
崖から左に寄った大きな木の下に、抜き身の太刀を持った男。
その足元には、後ろ手に縛られて雪に顔を伏せている者がいる。
足蹴にされた華奢な背は、女性のものか。
髪は、肩口にやっと届くほどに短い。
あの女が狗麻の姉……攫われた巫女なのか?
乱暴なやり方に怒りがこみ上げるが、伽卦流はその気持ちを押し殺した。
悪土王は、並外れてずるがしこい男だ。
あの女は注意を引くための身代わり、と考えた方がいいかもしれない。
女ではなく、少年ということもある。
まずは、あの女の正体を見定めることだ。
「一騎打ちの前に、巫女様を返せ」
伽卦流はその女に向かい、馬を一歩進めてみせた。
「待ちな。それじゃ約束が違うぜ」
悪土王の合図で、木の下の男が、女の首の上に太刀の切っ先をぴたりと当てた。
「一騎打ちで俺を倒したなら、お前等の巫女を返す、と言ったはずだ」
伽卦流は冷んやりとした声で言い返す。
「ならばまず、巫女様の無事を確かめさせろ」
その声に、悪土王はにやりと笑った。
陸奥の疾風が怒ったか。
いいぞ……。
身振りで木の下を指し示し、口に出しては、別のことを言う。
「仕方ねえ。巫女はそこだ」
再び合図を送ると、男は太刀を鞘に収めた。
大勢の男達が固唾を呑んで見守る中を、
黒馬がゆっくりと歩き出す。
張りつめた気が、ぴりぴりと伽卦流を打つ。
全ての動きが止まった。
やつら、何かを待っているのか…?
緊張感が高まっていく。
やはり、罠か!
伽卦流が馬の手綱を引いたその時、
雪に伏せていた女が顔を上げた。
「後ろ!!」
女の声と同時に、伽卦流は馬上から宙に身を躍らせていた。
伽卦流と黒馬が左右に分かれる。
その中心の何もない空間を、後ろから矢が貫いた。
ざ…と、雪に着地する伽卦流の足音。
誰もが、予想だにしなかったことだ。
通りすがりにひっつかまえた小娘が、
身を危険にさらしてまで、伽卦流を助けるとは。
「こ…の…あまぁ!!」
我に返った男が、太刀に手を掛けた。
と、何かが目にも止まらぬ速さでその手に絡みついた。
それは、娘の腕輪から伸びた銀色の糸。
まるで意志を持つかのように、男の手を締め上げる。
「ぐっ…」
男の動きが止まった次の瞬間、その肩から血飛沫が上がった。
そこには、伽卦流の大太刀が深々と刺さっている。
男の下から、娘は転がって逃れた。
立ち上がろうとすると、大きな腕がその身体を支えて助け起こす。
伽卦流だった。
太刀を投げると同時に、娘に向かい走ったのだ。
雪上にして、この風のような速さ。
「陸奥の疾風」の異名の由来は、ここにある。
大太刀を男の肩から引き抜くと、娘の縛めを切る。
「無茶だぜ、お前」
娘はかぶりを振り、真剣な眼差しで伽卦流を見上げた。
「巫女様を、助けなくちゃ」
その時初めて、伽卦流は娘の顔を見た。
「お前、巫女様の居場所を知っているのか?」
そう言いながら、不思議な既視感に襲われる。
なぜだ……
なぜ俺は………
「知ってる」
短く答えると、娘はくるりと伽卦流に背を向け、
そびえ立つ崖に向かって走り出した。
途中には悪土王の手下が幾人も太刀を構えている。
が、彼らは娘の目指す先が巌と知ると、面白そうに笑って道を空けた。
今まで閉じこめられていた牢に、自分から戻っていくとは。
馬鹿な小娘の始末は、中の見張りに任せればいい。
陸奥の疾風の哀れな最期を見届けるために、俺達はこの場を動けない。
伽卦流は道を空けた男達の動きから、
その考えを容易に察することができた。
だが今、娘を助けに行くことはできない。
唇を噛み、娘の背に向けて強く思う。
「頼むぜ!生きてろよ!」
この場をしばらく持ちこたえれば、狗麻達が追いついてくるはず。
だがその時、悪土王のしゃがれ声が伽卦流の思考を断ち切った。
「おめえも、ずいぶんな野郎だなあ」
伽卦流は悪土王にゆっくりと向き直った。
広場にいた男達の輪が狭まっている。
悪土王は、血走った目で伽卦流を睨み、言葉を続けた。
「あの娘、お前の女か。
俺達に、わざと捕まえさせたんだろう」
「あの娘とは初めて……初めて会う。
さらってきた罪もない娘を、巫女様の身代わりに仕立てるとはな。
そんな卑怯なお前が、今さら何を言う」
伽卦流は、低い声で言った。
「けっ、見ず知らずの娘が、自分のために命を賭けてくれたってか?
とんだ色男自慢だな、陸奥の疾風。
だが、これでもう、約束は無しってことだ。
お前が自分の女を使ったんだぞ。全てはお前が悪いってことよ」
「最初からそのつもりか…」
「せめてもの情けだ。女連れであの世に送ってやる。
巫女とあの娘とな!!」
男達が一斉に太刀を抜いた。
その時、木の上から悲鳴が上がり、弩を構えた男が
その姿勢のまま、雪の上へと真っ逆さまに墜ちた。
先ほど後ろから伽卦流を狙った男だ。
胸には、青い大矢が刺さっている。
その大きさからして、並外れた強弓から放たれたものに間違いない。
広場に、葦毛の馬が走り入る。その背には、大弓を手挟んだ武人。
箙には鮮やかな青塗の矢がある。
木の上の男に矢を射かけたのは、この武人だ。
華麗な鎧甲に、精巧な造りの馬具。その出で立ちで、一目で都人と分かる。
時を同じくして勇壮な鬨の声が上がり、
軍馬の嘶きと蹄の音が近づいてくるのが聞こえた。
「な、何だ…」
「あの男は誰だ?」
「伽卦流の加勢か?」
「いや、狗麻の手勢なら足止めしたはず」
圧倒的な優勢を覆された男達は、うろたえて顔を見合わせる。
広場を取り囲むように、武装した数百の兵士が現れた。
その中には、苦虫をかみつぶしたような顔をした狗麻と、その仲間達もいる。
「これも、おめえの策略かあっ!!」
軋むような声で悪土王が叫んだ時、それを歯牙にも掛けぬ様子で、
葦毛の馬に跨った武人が、手を上げて合図をした。
新に現れた兵士が、一斉に矢をつがえる。
統率の取れた動きだ。
彼らに身振り一つで命令を下すこの武人は、いったい何者だ?
まさか、あの……?!
悪土王の配下の男達は、弓の標的となり、身動きもできぬまま、
様子を見守るしかできない。
しんと静まりかえった広場を馬上から睥睨すると、
武人は伽卦流の前に馬を進めた。
と、「和議に遅れるとは、どういうことだ?!」
いきなり関係ないことを言う。
伽卦流はやれやれ、というように肩をすくめた。
「ここまで来ておいて、どういうこと…は、ねえだろ。
狗麻達を助けてくれたことには、礼を言う。
だが今は、見ての通りなんだ。邪魔するなよ」
悪土王に向かって身構えながら、武人を振り向きもせず答える。
「元より、俺は手出しをするつもりはない」
武人は即座に答えた。
「物わかりがいいじゃねえか、都の将軍様はよ」
悪土王が、しゃがれた声で揶揄するように嗤う。
しかし武人は、悪土王に冷ややかな一瞥をくれた。
「卑怯なやり口を許すとは言っていない。
一騎打ちのはずだったな、伽卦流」
「ああ、そうだ」
「では、これから存分に戦うといい。
悪土王の手下も、伽卦流の仲間も、もちろん俺の手勢も、皆手出し無用だ。
勝負は、鎮守将軍、坂上武昭自身が見届ける。
それでいいか、伽卦流」
「これで本当に一対一で戦えるってわけだな。
だったら、俺はいいぜ。悪土王、お前はどうなんだ」
伽卦流の言葉に、悪土王は武昭に向かい、にやにやと笑いながら答えた。
「お偉い方に見届けてもらうってのは、いいことかもしれねえ。
将軍さんよ、俺が伽卦流をぶっ殺したら、
今度は俺を、陸奥の支配者と認めるってことだな」
「だめだ」
武昭の答は、にべもない。
「元々、人質を取って仕掛けた一騎打ちだ。お前の側には、一分の理もない。
今まで悪逆非道の限りを尽くしておいて、そのようなことを望むとは、
図々しいにもほどがあるぞ」
「ちっ、俺は勝っても何の見返りも無しかよ?」
「見返りを求められる立場か。
陸奥国の中の争いは、そこの者同士が決着させろ」
「たまには、いいこと言うじゃないか、坂上武昭!!
だがその前に話が」
「けっ、やらせるか!!」
二つの言葉の終わらぬうちに、
鉄の斧と大太刀が、耳を聾する音を立ててぶつかり合った。
第1章 彼方より来たりて
[1.暁の雪原]
[2.囚われしもの]
[3.妖狐と修験者]
[都の武人]
[5.喪われた名]
[龍の夢・目次]
[キャラクター紹介]
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