北山の庵で暮らし始めてから幾年もが過ぎた。
幼い頃には手の届かなかった棚の上の書物も、今では背伸びをすれば取れるようになった。
庵の前に小さな畑を作り、必要な物は自分で作る。
時間は、いくらでもあったし、失敗しても、困るのは自分だけ・・・。
小刀で何度も指先に怪我をしながら、食器も釣りの仕掛けも
作物の鳥除けの工夫も、庵の修理も、少しずつできるようになっていった。
何かと心に掛けてくれていたシリンも、数年前に常世の国へと去り、
それからは、時折、山に棲む天狗達と言葉を交わすくらいで、
ただ独り、書を唯一の友として暮らしている。
庵に夕陰が落ち始めて、リズは読んでいた書物を閉じた。
灯りは貴重だ。だから日のあるうちに書を読む。
外に出て、ささやかな夕餉の支度を始めた。
庵の陰に設えた竈に火を熾して畑の菜を炊く。
その間に、そばの地面にしゃがみこみ、今覚えたものを小枝で書いてみる。
・・・・別路繞山川 明月隠高樹 長河没暁天・・・
「あ〜、難しい・・・。でも、とてもきれいだ」
一文字ごとに広がっていく世界。
その世界に、不思議と心慰められるリズだった。
そして空に小望月が高く上がる頃、リズは山道を駆けていた。
庵よりもさらに奥まった杉木立の中が、リズの鍛錬の場所だ。
ぼくは・・・
剣を教えなければならない。
あの
そして、無事に生まれ出でた九郎に。
風のたよりに、源義朝暗殺を知り、九郎誕生を知った。
義朝の謀殺されるべき運命は、リズによって数年だけ先延ばしされたが、
結局は変えることのできないものだった。
だが、それによって、九郎がこの世に生を受けた。
まだ見ぬ赤子の九郎は、父を知らぬまま、育っていく。
そして、やがて大きな時代の波に立ち向かっていくことになる。
ぼくが・・・九郎の・・・運命を・・・
ううん、生命の有り様さえ・・・・変えてしまった・・・
木刀を構える。
鬼の里で、父が教えてくれた独特の構え。
目を閉じ、呼吸を整える。
尾張の国、智多郡、野間。
京からは、子供の足には遠い旅だった。
腹心の部下である鎌田の義父義兄に、まさか二心あろうとは知るよしもなく
義朝は勧められるままに湯を使おうとしていた。
蔓を縒り合わせて作った紐が、木の間に何本も張り渡されている。
そこに高さも様々に下げられた枝を、リズは次々に打ちはらっていく。
足場の悪い斜面にも関わらず、その動きは速く、軽やかだ。
しかし・・・
あの
あの、息を呑むほどに美しい太刀筋は、どこか父さんの剣にも似て・・・。
ぼくは、強くならなければならない。
あの
父さんのように、もっと、強く・・・。
「湯殿に行ってはなりません」
いきなり眼前に現れた異形の子供を見ても、義朝は動ずることはなかった。
「鬼が私に何用だ」
「罠です。あなたの命を狙っての」
「長田の親子がと?」
「信じて下さい」
「証はあるか」
「・・・それは・・・・・」
残っていた枝が消し飛んだ。
一連の動きの後でも、息は乱れない。
「だめだ。もう一度」
集めておいた小枝を紐に結び直す。
あの
なぜ義朝が初対面の、しかも鬼の子供の言葉を信じてくれたのか、それは今でも分からない。
落ち延びてきた者ゆえの、危険を察知する直感か。
けれど、それで義朝の生命は救われた。
リズの進言に従い、湯殿に刀を持って入り、
さらには鎌田をはじめとする郎党たちに、離れた所から湯殿を見張るように命じた。
義朝は丸腰と思いこんでいた刺客が、三人がかりで襲い来たが、
刀を持った義朝に戸口で迎え討たれ、さらには隠れていた郎党達も加わり・・・・。
やっと助けることができた義朝の生命。
この・・・逆鱗のおかげで・・・。
リズは、胸に隠した白い鱗を、着物の上からそっと握った。
幼い頃は夢の中で、心だけを遠い時空へ運んでくれた。
今では、自在に時空を巡ることができる。
ただ一つ、あの時空の鬼の里にだけは、辿り着けないけれど・・・・。
神子へと通じる時空を彷徨い、成すべき事を、自分の役割を知った。
三十年という歳月は、神子を助けるため、自分に与えられた時間なのだろう。
でも、ぼくのしたことは・・・・・いったい・・・
神ならぬ身が行ってよいことなのだろうか・・・・。
義朝を救えなかった時空は、あの後、九郎の生まれない世界として続くのか・・・それとも・・・。
リズの惑いもまた、神ならぬ身が抱えるにはあまりに大きなこと。
行き場のない煩悶に責められながら、リズは剣を振る。
限りなく自由でありながら確かな軌跡を描き、軽やかに舞う
あの
その剣に近づくことで、あの
それは夢・・・・。
まだ遠い夢・・・・。
憧れは、あまりに儚く、
ひりひりと心を焦がす。
美しい剣。
美しい
果て遠き道の彼方にいる
胸に触れる逆鱗がほのかに熱を帯びるのを感じた。
ぽっと白い光がともり、みるみる広がっていく。
「え?」
ぼくは時空跳躍を願ってはいない。
なのに、なぜ?
戸惑うリズを白い光が包み、消し去った。
その後には、月に照らされ、ゆらゆらと揺れる小枝があるばかり。
梟が、思い出したようにホウと鳴いた。
間章 散桜