果て遠き道

序章 初雪

1 鞍馬の冬



初冬の暮つ方、冷んやりとした大気が全天をおおい、季節を急ぎ進めるかのように、
鞍馬の山に初雪が舞い始めた。
すでに薄闇に包まれた急峻な道を登っていく人影がひとつ。
暗がりの獣道であるというのに、息も乱さず確実な足取りで進んでいく
その影はリズヴァーン、鬼の一族の末裔。並はずれた身体能力を持つ彼には、
この程度の山道は如何ほどのものでもなく、黄昏時の暗さなど問題にもならない。
ましてや、ここは鞍馬。長年にわたり庵を営んできた地だ。

粗末な庵が木立の間に姿を現した。
山肌を背にした僅かばかりの平らな土地に、風を避けるようにひっそりと建つ、彼の小さな住処。
彼と共に孤独な歳月を刻んできた場所。
しかし、今は・・・・・・。
夜目の利く彼の眼は、庵の前に立つ人影をみとめた。
ふっ・・・と彼の顔が和む。
その庵はもう、雨露をしのぎ、生き延びるためだけの住処では、ない。
その女(ひと)の待つ場所・・・・・・。
「私の『家』・・・」

「先生〜!!」
リズの姿を見つけた望美は手を振りながら駆け寄った。
「暗くなってきたので、ちょっと心配してたんです」
「神子に心細い思いをさせてしまったか。すまない」
「いいえ、そんな・・・。先生のことだから、大丈夫って思ってはいたんです。
でも、雪も降ってきたし」
「ああ、そうだな」
「初雪・・・ですね」
「今年はいつになく早い」
「雪、きれいですね」
「積もりそうだな。寒くはないか、神子」
「平気です。それより、もう少し先生と雪を見ていても・・・いいですか?」
「お前が望むなら、そのようにしたいのだが、神子・・・・・何か焦げてはいないか?」

「!!!○×@〜◆◎?■△・・・!!!」
何やら悲鳴のようなものを上げながら望美は家に駆け込んだ。

黙ってそれを見送る。ささやかな会話。しかし、温かい。
リズは少し口元をほころばせながら、軒下に積み上げてある薪を
雪に備え庵に運ぶため、腕一杯に抱え持った。
戸口を入ると案の定というべきか、望美がうなだれている。
「先生、すみません。晩ご飯は魚と・・・お焦げ味のお粥です・・・・・・」
「謝ることはない。神子は一所懸命作ってくれたのだろう。それより火傷などしなかったか?」
薪束を置き、リズは望美の手を取ろうとした。
「えっ?! そんな、大丈夫です!」
リズから慌てて離れながら、望美は食事の椀を探すふりをする。
本当は、熱い鍋で軽い火傷を負っていたのだが。
(やっぱり先生は鋭い・・・)などと思いながら。

「いただきま〜す!」
ささやかな夕餉は、狭い庵の中央にある囲炉裏の前。
竈も無いこの庵では、煮炊きの場所でもあり、暖をとる場所でもある。
一口食べると広がる、焦げの味。
想像以上にすごい味だ。これをリズに食べさせている・・・・・。
(ああ、またやっちゃった。私ってば、毎日一度は失敗してる。
ううん、一度ですめばまだいい方か。
先生にいちいち教えて貰わなかったら、ここでの暮らし、何一つまともにできないし・・・。
先生のおかげで早く気づいたけど、火事にでもなっていたら・・・・・・!! 
いつも先生に迷惑ばかり・・・・・。
でもきっと、人のできる失敗には限りがあるから、いつか失敗も出尽くして・・・って、
そういう事じゃなくて!!・・・あ〜っ!!私のばかばかばかっ!!)

「神子を見ていると、飽きないな」
黙って焦げ粥を口に運んでいたリズがこちらを見ている。
「思っていることが順番に顔に出ている」
(うっ・・・もう一度、ちゃんと謝らないと・・・。やっぱり先生は全部お見通しなんだ)
「先生、ごめんなさい・・・。ええと、その、悪かったと思ってます。
疲れて帰ってきた先生に、お焦げなんか食べさせて、それに・・・」
「これは神子の得難い美徳の一つだ」
「え?こ、このひどいお粥が・・・?」
「お前は真っ直ぐに自分の足りぬ所を認める。
それなくして上達はあり得ない。剣もまた同じだ」
「は、はい! がんばって修行します!」
「焦らなくてもよい。一日一日の真摯な積み重ねが肝要なのだ」
「ありがとうございます、先生。私、少しずつでも、うまくなれるように努力しますね」
「そうだな、神子。お前の上達は、私の喜びでもある」

(よかった・・・先生怒ってない。ん・・・・?でも、上達が嬉しいって・・・
もしかして、からかってる・・・・?)
望美の上目遣いの探るような視線に、その通り、と答える代わりにリズは少し微笑んだ。
やっぱりそうか、と思いながらも、リズと目と目で話せたことが嬉しい。
それにこの頃、リズはよくこんな風に笑ってくれる・・・
望美は気持ちが明るくなるのを感じた。

少し立ち直ったか・・・そう思いながらリズは部屋の隅に目をやった。
一枝の紅葉が飾られている。板葺きの狭い庵の彩(いろどり)。
「名残の紅葉か」
「日溜まりの窪地で偶然見つけたんです。あんまりきれいだったから、先生にも見せたくて」
「ありがとう、神子。しかし、あまり危ないところには行くな。
お前はまだ、この山のことを知らない」
「はい!気をつけます・・・(う、また心配させただけなのかも)」
「いや、神子を咎めているのではないから、気にしなくてもよいのだ。
自分の部屋に美しいものを飾る、とは、いいものだな。
以前は考えもしなかったことだが・・・心が和む」
「・・・先生が喜んでくれたのなら・・・私もうれしいです」

宵闇の中、庵を照らす明かりはちろちろと燃えるささやかな炎だけ。
雪はまだ、降りしきっているのだろう。寒さが容赦なく板壁の四方から入り込んでくる。
望美は思わず身震いした。

と、ふわりと体に外套が掛けられた。
「先生?」
そして外套ごとその腕の中に。
望美を抱えたまま、リズは囲炉裏の前に再び座った。
「こうすれば、少しは暖かいか?神子。」
「あ、ありがとうございます、先生。とても暖かいです」(ちょっと恥ずかしいけど)
「雪がこれほど早く降るとは思っていなかった。寒い思いをさせて、すまない」
「そんな! お天気の事なんて、誰にも分からないんですから、先生が謝る事なんて」
「こうしていると、私も暖かい・・・。
この姿勢では落ち着かないかもしれぬが、ゆっくり眠りなさい」

「ええっ?!」
望美は驚いて起きあがろうとしたが、彼女を抱いたリズの腕はびくともしない。
「どうした、神子?」
「だめです!! これじゃ、先生が休めません!」
「神子の寝相がよければ大丈夫だ。時々薪を足さねばならないから、
その時に今のように暴れないように頼む」
「先生・・・・またからかって・・・・。
でも、これでは先生が一晩中起きていることになりますから、そんなの・・・」
「心配は無用だ、神子。私は慣れている。私は何年もこうして冬を過ごしてきたのだから」

「いつも・・・・ずっと・・・・一人で・・・?」
望美の目の端に紅葉の枝が見えている。他には何の飾りもない部屋。
(一人で・・・・・・何年も。ううん、何十年も・・・・・先生、一人で・・・・・)
「他人と共に行動したのは、八葉として過ごしたこの二年ほどだけだ。
しかし、どのような時でも眠り込んではならない。戦場とて同じことではなかったか?神子。
警戒を解き、己の身体と心を甘やかし、曇らせること、即ち、己の命を失うことだ」
リズの口調は淡々としていた。が、その背後にある膨大な歳月を思い、
望美は言葉を継ぐことができなかった。

リズから聞いて、知ってはいた。
リズを追っている時に入りこんでしまった鬼の隠れ里。
そこで命を救った鬼の子供が、他ならぬリズヴァーン自身であったこと。
ふとしたはずみで白龍の逆鱗を手にしたリズが、そこから30年も昔に飛ばされたこと。
その時から、リズは望美と再会し、その助けとなるために生きてきたこと・・・・・。

リズが話してくれたのはそれだけだった。
しかし今、リズの過ごしてきた庵に在って、彼の積み重ねてきた一日、一日の重さを感じる時、
たまらなく辛い思いがこみ上げてくる。
何もない部屋・・・・・・。
置いてある物といえば、リズの作った小さな棚が一つだけ。
そこには道具箱と文箱、木片から切り出して作った二人分の食器と
最低限の替えの衣類が入っている。
この庵さえ、リズが一人で狭い平地を切り開くところから始めたという。
自分自身の故郷と時から引き離されて、こんなにしてまで・・・・・・私を待っていた・・・・・。
私にさえ出会わなければ、自分のために生きられたのに・・・・・私のために・・・・・。
そして今は・・・・・私と一緒に生きて・・・・。

望美はリズの胸に顔をうずめた。急に涙があふれそうになったから。
そして、小さい声で一言・・・・・
「先・・生・・・ありがとう・・・・」
唐突な礼の言葉。しかし、リズには分かる。寒さから望美の身を守っているからではない・・・と。
心の奥底から発せられた望美の思いであること、望美が泣くまいとこらえていることも、分かる。

感謝すべきは、自分の方なのに・・・とリズは思う。
暗く重く長い年月の果てに、このように美しい日々に誘(いざな)ってくれた、彼の・・・神子。
望美を抱く腕に、少しだけ力を込める。力いっぱい抱きしめたなら、きっと折れてしまうから。
「今は・・・、お前のぬくもりがある」
リズにはこれだけしか言えなかった。
望美の思いは受け止めていると・・・・自分は幸せなのだと、言の葉を並べたとて、何になろう。

(・・・・・先生・・・・・私の言葉の意味、わかってくれたんだ)
望美は嬉しい気持ちになった。
リズは多くの言葉を語らない。けれど、言葉の一つ一つは温かく、深い。
さっきまでの悲しい気持ちが、リズの一言で明るく晴れていくようだ。

(でも・・・・)
と、望美は思う。
それは繰り返し心に浮かぶ疑問。
(先生は、何も話してくれないけど、小さな子供だったのに、
どうやって知らない世界で生き延びたんだろう。
いろんなことも知ってるし、どこで勉強したのかな・・・?)
望美が問う度に、リズは時に黙し、時に拒絶し、時に望美の許を去っていった。
そのことを考えると望美は恐ろしかった。
けれど、もう聞いてもいいかもしれない。 ずっと一緒にいると、リズは約束してくれた。

「先生・・・あの・・・」
「どうした、神子?」
「先生の子供の時からのお話・・・・なんですけど」
「・・・・・・・・」 
「あのぉ・・・・聞かせてもらえませんか・・・・・?」
リズの顔が曇った。
「私は・・・・・・神子の望みならば、そのようにすべきなのだろうが・・・・」
「先生・・・!!」
(やっぱり、いけなかったの?!!)

誰しも語りたくないこと、他者が触れるべきでないことがある。
自分は無神経にもリズの古傷をえぐっているのではないか?
そう思い至り、今更ながらの後悔の念が、望美の心を突き刺す。

気まずい沈黙が流れた。


序章 初雪

  (2)いさかい (3)昔日の冬 (4)野盗

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