同じ雪を、北山の地で見ている者がいた。
齢数百年、その者の存在はすでに山の気と溶け合い、朧な影となって梢の高みにいた。
北山の天狗・・・・・かつて人はそう呼んだこともある。
しかし、人間の言の葉でどのように名づけようと、そして忘れ去ろうとも、
その者は変わらず北山に棲み、仲間を見守り育て、風に乗り、天駆ける者だった。
彼が少し仲間と異なっていたのは、好奇心の強さ・・・・だろうか。
立ち入られることも深く関ることも拒みながら、
人間界の在り様に興味を抱き、時に関りを持つこともあった。
間断なく降りしきる雪を見ながら、彼はそんな遠い日のことを思い出していた。
人ならぬ身と、強い力を与えられ、それ故に疎まれ、妬まれながら、
親もなく、師もなく、友もなく、
90年の長き年月を、孤独に過ごした者のことを。
その名は安倍泰継。
先代の龍神の神子を守った八葉の一人、地の玄武であった者。
この北山に庵を構え、その陰陽の力を安倍家から求められぬ限り、
京の都に下りようともせず、人目を避け、隠者のように暮らしていた。
造化の者・・・故か、泰継の比類なき陰陽の力は、天狗の長き齢の中でも、
同じく人ならぬ生まれの安倍泰明をおいて、他には知らぬ。
しかし、ある冬、八葉に選ばれた年に異変は起こった。
八葉としての勤めは僅か数ヶ月。成すべき役割を果たすのみ・・・・であるはずだった。
にもかかわらず、存分にその力を振るうべき最後の戦いを前にして、彼はその力を失ったのだ。
そして、あの雪の夜・・・・・・・・・・
「泰継よ、今日はずいぶんと低い所にいるものだな。
いつもなれば、この杉の頂上にまで来るというに」
「天狗か・・・・・。今の私は・・・・そこまで跳べぬのだ。この老松の枝が精一杯・・・」
「・・・・・お前の気の衰え・・・・・・感じてはいたが・・・・・」
「壊れる時が・・・来たのだろう。ひどく・・・眠いのだ。
だが、いつもの眠りではない。魂と魄が離れようとしている。」
「未練・・・・・があるのか?」
「人ならぬモノの私に・・・・? 何故そのようなことを・・・・。
人の年にして、もう90年も存在したのだ。・・・・・形あるものはいつか壊れる。
自然の理に反して生まれた私が、やっと理に従うことができるというのに・・・」
「お前は雪を見ている」
「天狗・・・お前の言っていることは分からぬ」
「壊れゆくなら、おとなしく庵にでも居ればよい。
動くのもやっとという身体で、何故その枝まで来た?」
「・・・・・・雪は・・・・・神子に似ている・・・・・から・・・・・」
「龍神の神子・・・のことか」
「雪は・・・・無垢で、清らかな白い不可思議・・・・・。
淡く溶ける、か弱きものと思えば、知らぬ間に大地を被い尽くす。
醜いものも、穢れたものも・・・・・・、美しく白く包む・・・・・」
「そうか・・・・・、泰継、お前は・・・・」
「神子の手をとって・・・呪詛を探る・・・・かつてないほどに心が満たされるのは・・・・・
己の力が役立って・・・・いるからだと・・・・自分に言い聞かせて・・・・。
神子の手に触れることが・・・・歓びであったのに・・・・・・痛いくらいの・・・・・」
「お前も・・・・なのか? 泰明のように・・・」
すでに泰継には天狗の言葉すら届いていないようだった。
その声が細く、小さくなっていく。
「私の、醜く浅ましいこの想いも・・・・・、身体と共に白く・・・・・被われて・・くれれば」
力を失った腕を差し伸べ、泰継は雪を手のひらに受けた。冷たさの感覚も、もう無い。
「最後まで・・・・・神子の役に立つことができなかった・・・・・。
役に立たぬモノなど、どうぞ、捨て置いて・・・・・。
神子は・・・・私の不在を・・・悲しむのだろうか・・・? ならば・・・・・」
「泰継!!!」
我にも無く、天狗は声を荒げて呼びかけた。
しかし・・・・。
泰継は聳える杉木立の彼方の空を見上げていた。
昏い天空から次々と舞い落ちる雪。
風もなく、飛ぶ鳥も影を潜める静けさの中、
山の大気に包まれ、今はもう遠い神子を想っていた。
「最期のその刹那まで・・・絶え間なく降るこの雪を見ていたい。
神子を・・・想って・・・・・い・・・た・・・い」
言の葉は雪に抱かれ、静寂の中に消えた。
そして、泰継の体は、降り積もる雪の上に真っ直ぐ落ちていった。
泰継の命数は尽きた、と天狗は思った。
五行の力を失い、魂と魄とが離れ、いかにしてこの造化の者が蘇ることができようか。
しかし・・・・・天狗は思い出した。
かつて泰明も、五行の力を失ったことがある。
その時安倍晴明は、泰明にお節介なことをした。
龍神の神子を、泰明のいる北山へと導いたのだ。
後にも先にも、晴明があのようなことをしたのは、ただ一度きりだったのだが・・・・。
・・・・・そして泰明は、その魂もろともに救われ、人として蘇った。
だが泰継のように、魂魄が分かたれるようなことはなかった。
それでも、今の泰継を救える者がいるとしたら、それは龍神の神子をおいて他にはいない。
泰継の生死・・・・それは彼自身と、そして彼と神子との絆にかかっている。
神子が来るか来ないか。来たとして、この広い北山の地で泰継と会えるかどうか。
しかし、安倍晴明は、泰継の造られた時にして、すでに鬼籍の人となっている。
ならば・・・
己のお節介ぶりに苦笑しながら、天狗は泰継の身体を少し移動した。
深い森の奥から、女人の足でかろうじて入ってこられるところまで。
しかし、降り積もる雪にみるみる泰継の身体は被われていく。
もう、会うこともないのだろうか・・・・天狗はそう思っていた。
が・・・・・、
「礼を言わねばならぬと思い、来た」
泰継は還ってきた。
本当に同じ泰継なのか?と疑うほどに、五行の調和に満ちた強い気を放っている。
そして、以前には無かった柔らかな表情。
天狗には分かった。泰継に何が訪れたのか。
「神子を藤原の館まで送ってきた。その帰りだ」
事も無げに、天狗のいる真向かいの枝に飛び乗る。
宵闇が迫っている。
すでに止んだとはいえ、厚く降り積もった雪の上を、いつものように素足で歩いてきたようだ。
ぶっきらぼうな、要点しか言わぬ口ぶりも変わってはいないが。
「何のことかな?お前が礼とは」
「私が目覚めた時、山の入り口近くにいた。
魂魄が離れた状態であの松から移動することはできない。だからだ」
「それで?」
「目覚めることができた。八葉の勤めを最後まで果たすことができる」
「相変わらずの物言いよのう」
泰継は地面に飛び降り、天狗を見上げ、それからゆっくりと頭を下げた。
「感謝する」
天狗が初めて聞く、泰継の暖かな声、人のぬくもりのする声だった。
泰継は孤独の歳月の果て、己が生きる意味を見出し、「人」になったのだ。
いつしか雪はやみ、雲間から月明かりが射し込んでいる。
不思議と昔日のことが思い出される夜だった。
天狗は独り、物思いに沈んでいた。
どうにも地の玄武どもは手のかかることよ・・・。
この北山の地と彼らとの縁か・・・・・いや、全ては巡り来たりてやがては過ぎゆくもの。
泰継の後、あのような形で三度、地の玄武と相まみえることになろうとは・・・・・・。