頼朝は黙して座っている。
文机に経巻を広げ、すでに覚えている一文字ずつを、ゆっくりと目で追っていく。
宵闇が迫る中、部屋の外から遠慮がちに声がかかった。
家人が部屋に入ってくる。
夕餉の支度の調ったことを報せに来たのだが、
答は一言、「いらぬ」とのみ。
家人は手燭から燈台に灯りを移すと、早々に下がった。
その間も、文机に向かう頼朝の背は微動だにしない。
時折、狭い庭に廻らした塀の外から、頼朝を見張る武士達の話し声が聞こえてくる。
手勢とて持たない一介の流人に対し、常ならぬ警戒ぶりだ。
ぱらぱらと、大きな雨粒が音を立てて降り始めた。
「お、やはり降ってきたか」
「姫様はもう、お館に入られているかのう」
暗くなった空を見上げて、武士達が言葉を交わす。
今日は昼のうちから、落ち着かなげな空模様であった。
陽が照っているというのに、空からは雨が落ち、遠くで雷鳴が轟いた。
そして夜、とうとう雨が降り出した。
時と共に雨足は強まり、時折、激しい風が木々を大きく揺らして吹きすぎる。
「ひどい降りになりそうじゃ」
「野分が来るのかもしれぬな」
頼朝の住まう粗末な邸を遠く見下ろす山に、大きな館がある。
同じ風雨にさらされながら、そこは明々と灯火に照らされ、
人々の賑やかな声が絶えることなく続いていた。
伊豆国の目題平兼隆と、土地の豪族北条氏の姫との婚儀の席。
姫は恥じらっているのか、うつむいたままで、
一度として伏せた目を上げようとはしない。
しかし、平兼隆の方はといえば、隣に座る姫の横顔をちらりちらりと見ては、
まんざらでもない気分であった。
源氏の流人と、とかくの噂があったとはいえ、
この姫は、すこぶる美しい。
北条は、近隣の大庭、伊東といった大豪族に比べれば、
吹けば飛ぶほどの勢力にすぎない。
しかし、当代の北条時政は、遣り手と評判だ。
確かに、源氏の流人との関わり合いを断ちつつ、この兼隆、ひいては
平氏との関係を強めようとするなど、よい手を打つものだ。
北条・・・今は小さいとはいえ、手駒にすれば意外と使えるかもしれぬ。
兼隆は再び、姫に目をやり、ぐいっと杯を干した。
明日をも知れぬ流人のことなど、すぐに忘れさせてやろうぞ。
ごうっ・・・とひときわ激しい風が、館を揺らした。
「・・・・・ませ」
姫の赤い口元が動いた。
「何?風のせいでよく聞こえぬ」
兼隆が姫に顔を寄せるようにして身体を傾けた時、
つい・・・と姫が立ち上がった。
「部屋にて休ませて下さりませ・・・と申し上げました」
「気分でも悪いか」
「はい・・・。このような場で倒れてはいけませぬゆえ・・・」
「何と!それはいけない」
姫の手を取ってみると、ひどく冷たい。
「では、部屋まで連れて行ってやろう」
兼隆が腰を浮かせかけると、
「いけませぬ」
姫がぴしりと言った。有無を言わせぬ強い響き。
思わず、兼隆は座り直す。
「この席の主まで中座させては、申し訳が立ちませぬ・・・」
今度は蚊の鳴くような細い声で、姫は言った。
姫にとっては緊張することばかりなのであろう。
そこへ加えて、この雨風。無理もないことよ。
兼隆は鷹揚な気持ちで考えた。
「心細いことだろうが、わしが後で行くゆえ、
それまでゆるりと休んでいるがよい」
しかし兼隆がそう言った時には、もう姫はくるりと後ろを向いて
立ち去るところだった。
政子は早足で歩きながら、着物の裾でごしごしと手を拭っている。
『くすくすくす・・・』
そのような政子の中で、もう一人の政子・・・荼吉尼天が笑っている。
『我慢強いのね』
「ええ。機会が来るまでは、どんなことでも耐えてみせますわ」
『あの者達くらい、あっという間に片付けられますのに』
「そのようなこと、あの方はお喜びにならなくてよ」
部屋に入るなり、政子は豪奢な婚礼の衣を脱ぎ捨てた。
「姫様、どうされましたか・・・?!」
驚き慌てる侍女達に、今脱いだ五衣や唐衣を持たせる。
「お前達はこれを持って山に入りなさい。
この館から十分に離れた所に捨ててくるのよ」
「どういうことでござりましょうか」
「このような婚儀の夜に、なんと恐ろしいことを・・・」
訳が分からず、なおも騒ぐ侍女達に、政子はさらに言葉を重ねた。
「よいですか、皆は別々の方向にお行きなさい。
けれど、西に行ってはなりません。わかりましたか」
侍女達は、はっとした。
西といえば、山を下りていく方向。
その先には・・・・・。
侍女の中で一番心利いた者が言った。
「できる限り追っ手の目を反らせます。
姫様はどうか・・・、お気を付けて」
政子は微笑んだ。
「ここに残る者は、決して騒いではなりません。
この館の者が来たなら、私は少しの間だけ外に出ている、と言うのですよ」
篠つく雨が激しさを増した。
裾をからげ、闇の中を走る。
道は通れない。すぐに見つかってしまう。
履き物はいつの間にか失せた。
草の葉や木の根に傷つけられ、白い足は朱に染まっている。
このように走ったことはない。
雨夜の外出も、したことがない。
ましてや、道もない山の中など、歩いたこともない。
泥にすべり、木の根に足を取られて、幾度となく転んだ。
けれど・・・それがどうしたというのか。
雨と闇に閉ざされた山を抜ければ・・・
その先にいるのは、ただ一人の愛しいひと。
『人とは、不思議なものね。ひと足、ひと足、我が身を傷つけながら
あなたの心はとても弾んでいる』
「ええ、あの方のもとへ行くのよ。これほどうれしいことが他にあって?」
『私の力を使えば、楽に行かれるのに?』
「あの方が娶るのは、この北条政子ですもの。分かるでしょう?」
『くすくす・・・面白いわね。あなたといると分かるわ。
力弱い人間の、精一杯の気持ちが』
カッと稲妻が閃き、目の前の巨木が真っ二つに割れた。
裂けた幹が、水飛沫を降らせながら倒れかかる。
しかし気づいてみると、政子は無傷だった。
雨に混ざり、焼け焦げた木の臭いが、周囲に立ちこめている。
「あなたに、お礼を言わなくてはいけませんわね」
倒木を迂回し、再び走り出しながら政子は言った。
『お礼など、要りませんわ。せっかく宿ったのですもの、
あなたに死なれては、私が困りますわ。
・・・それに・・・』
「それに・・・?言いかけて止めるのはいけませんことよ」
『私、だんだん・・・あなたになっていくようだわ。
あの男が、愛しい・・・』
荼吉尼天のその言葉に、政子は立ち止まり、両の手を打ち合わせた。
「まあ、では私も、あなたになっていきますのね」
『くすくす・・・そういうことかもしれませんわね』
政子は口元に手を当て、嬉しそうに笑った。
「では、私達二人で、あの方をお助けしましょう」
『ええ、私達が支えましょう。
誰も信じず、誰も己に近づけない、孤独なあの男を・・・』
嵐の一夜が過ぎた。
曙光が山の端から射しこむ。
頼朝の邸の周りは、異様なほどに静かだ。
見張りの武士達の気配もない。
頼朝は扉を開き、雨で濡れた簀の子の上に出た。
暁の空に、うっすらとたなびく雲は、まだ夜の紫を残している。
その空を背に、庭に女が一人、立っていた。
頼朝は、一歩、進み出た。
女も、歩み出る。
「頼朝様・・・」
「政子・・・なぜに来た」
「私・・・いいえ、私達、あなたと一緒にいると決めましたの」
政子は、髪も着物もずぶ濡れだ。
からげた裾からのぞく足は傷だらけで、血が幾筋も流れている。
しかし昂然と上げた顔には、輝くばかりの笑み。
その眼は、頼朝を真っ直ぐに見つめている。
頼朝は素足で簀の子を下りた。
お互いに眼をそらさぬままに、
さらに・・・一歩。
そして・・・一歩。
息のかかるほどに近づく。
岩をも射抜くような強い視線が、ぶつかりあう。
頼朝は手を伸ばし、政子の肩をつかんだ。
胸に引き寄せ、両の腕でしっかと抱く。
見上げる政子と再び眼を合わせ、
頼朝は低い声で言った。
「お前を・・・、信じよう」
余話
1.馬酔木の花の零れゆく 〜鎌倉にて〜
(オリキャラ→朔)
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3.汝、強き者 〜京にて〜
(梶原兄妹・リズ・望美)
4.おやすみのきす 〜倶利伽羅にて・前編〜
(リズ×望美)
5.我が故郷は静けき眠りにありて 〜倶利伽羅にて・後篇〜
(リズ×望美)
あとがき
頼朝は、決して「愛する」とは言わないお方だと思います。
それに限りなく近い言葉が、「信じる」ではないかと。
そう考え、政子を迎え入れる最後の一言を、あのようにしました。
心の中を見せないお人なだけに、あえて作中でも行動の描写だけに留めつつ。
当時としては大変珍しく、恋愛結婚であったという頼朝と政子。
拙作は、政子が婚礼の夜に抜け出して頼朝のもとに走ったという、
有名なエピソードを下敷きにしました。
そこに「運命の迷宮」の一場面からの連想と、
「旅行記」にもありますが、実際に蛭が小島近辺を
歩いたことで、補強(?)された妄想を加えて・・・。
作中、荼吉尼天と政子が会話しています。
この二人(?)の心は融合している・・・とキャラ解説にありますが、
いつ頃から融合していたのかは不明です。
その一方で、「迷宮」の回想シーンでは、「私達」という言葉を使っています。
ならば、この話の時点では、まだ心の中で会話するのも有りかな?
と思うのですが、これって重箱のスミ?
2007.6.14筆