果て遠き道

余話4 〜倶利伽羅にて・前編〜

 おやすみのきす



遠くの梢がざわめいた。
木立の間を、涼しい夕風が吹き過ぎる。

山道を登り続けてきた身体には、その風が心地よい。
望美は、額にうっすらと浮かんだ汗を拭った。

望美と共に立ち止まったリズだったが、ふと顔を上げ、空を見た。
風の方向を見定め、山の大気に混じる土と水の匂いに、
かすかな変化を感じ取る。

「神子、急いで野宿の支度だ」
「え?」
突然の言葉に戸惑う望美に、リズは短く答えた。
「雨になる」


壇ノ浦での勝利の後、リズと望美は京に帰る九郎達と別れ、
北へと向かう道を辿っていた。
目的の地は、もう近い。

・・・二人は、倶利伽羅へ向かっている。
運命の輪の、初まりの地へと。



リズの言葉の通り、夕暮れ時に降り出した雨は、
やむ気配もなく、しとしとと降り続いている。

暗くなる前に、手頃な洞穴を見つけることができた。
広くはないが、ここなら雨をしのぐことが出来る。
火を焚いて暖を取るための枯れ枝も、拾い集めた。


静かな雨音が、満ちている。
小さな焚き火、小さな洞穴、深い山。

望美はふと、不思議な思いにとらわれる。
この世界に、先生と二人だけで、いるみたい・・・

雨の音を聞きながら、望美はリズの横顔を見つめていた。
覆面に隠されて、ほとんど見ることのなかった素顔。

リズは、洞穴の入り口近く、焚き火の前に座っている。
立てた片膝に腕を預け、一見くつろいでいるような姿勢。
しかし望美には、リズが片時も警戒を解いていないことがわかる。

リズの視線は、降りしきる雨と、木々の影を宿す夜闇に向けられていた。

焚き火が、気まぐれな影をリズの顔に落とす。
時折、炎の揺らめきと共に、髪が金色の光を放った。

先生・・・って、・・・とてもきれいだ・・・。

望美が心の中でつぶやいて、思わずため息をもらした時、
リズが振り向いた。

「何か・・・私の顔についているのか、神子」
「いっ・・・いいえ・・・!!」
望美は慌てて、両手をぶんぶんと振る。
・・・・・先生ってきれいですね、なんて、言えるはずもない。

望美の狼狽ぶりに、リズはかすかな笑みを浮かべ、
「そうか・・・」
一言だけ答えると、姿勢を戻した。

沈黙が下り、聞こえるのは焚き火の音と雨音だけ。

再び、リズの横顔を見つめながら、望美は思う。
先生の眼が、どことなく淋しげに見えるのは、なぜだろう。
雨の向こうに、何を見ているの・・・。
もうここは、先生の故郷・・・あの鬼の村に近い。
やっぱり、先生は・・・つらいんだろうか。

「神子・・・心にかかることがあるのなら、言ってみなさい」
焚き火に小枝をくべながら、リズが言った。

望美は思い切って尋ねてみることにした。
先生には、隠し事なんてできない。

「・・・先生は今、何を考えているのかなって・・・」

リズはしばし考えているようだったが、やがてぽつりと言った。
「雨の夜なのに・・・あたたかい・・・と」
「ええと・・・あの・・・」
「そうか・・・、これだけでは言葉が足りぬか・・・。
私は・・・雨の音を聞き、雨に打たれる土や木々の葉音を聞いていた」
「はい。で・・・それがなぜ?」
「その時、思ったのだ。お前といると・・・このような雨の夜さえ、あたたかい・・・と」


望美は少しうれしい気持ちになり、さらには、
リズが悲しんでいるわけではないことに、ほっとした。
なので、気になっていたことも続けて聞いてみる。

「晴れていたのに、先生は、どうして雨が降るってわかったんですか」
今度はすぐに、リズは答えてくれた。
「風の匂い、雲の流れ方、獣たちの動き・・・、それらが教えてくれるのだ。
ましてここは・・・私の生まれ育った地。
遠く離れて幾星霜も過ぎたが、この地の気、山の香、土の感触、
どれも、忘れることはない。
気まぐれに変わる山の天候も、私には馴染み深いものだ」

望美は、はっとした。
喉がぐっと詰まるような、悲しさがこみ上げてくる。

鬼の里が滅んだのは、この時空では、ほんの数ヶ月前のことなのだ。

小さなリズのいた故郷の自然は、何も変わってはいない。
ただ一つ・・・小さな隠れ里が滅びたことを除いては・・・。

「ごめんなさい・・・私・・・先生に辛いことを・・・聞いてしまいました」
うなだれる望美に、リズは言った。
「神子、冷えてきたようだ。こちらに来て、火にあたるとよい」



焚き火から、時折ぱちっと小さな音がする。
あたたかい。
隣に先生がいるから・・・もっとあたたかい。
先生も、同じことを言ってくれた。
顔が少し火照るような気がするのは、炎のせいばかりではない。

「私にはもう、遠い昔のことだ。神子、お前は優しすぎる」
リズが、静かに話している。
落ち込んだ自分を慰めようとしていることが、望美にはわかった。
隣に座るリズを見上げ、その心地よい声に耳を傾ける。
「お前は、繰り返した時空の中で、私がすでに今宵の雨を経験している・・・と
思ったのではないか?」
望美は小さく頷いた。

「壇ノ浦の後、春までも時を進んだことはない。
私は・・・繰り返し、間違った運命を選んでしまっていたから・・・。
この雨の音も・・・初めて聞くものだ」

リズの眼も声も、とても優しい。
悲しみに曇ってもいない。
それが、自分に向けられた想いのためであると・・・望美は痛いほどに感じる。

先生は・・・私を助けるため、繰り返し時空を過去へと渡ってくれた。
私を置いて、たった数ヶ月先の時間すら、進むことができずに。
私の死を受け入れることを、拒み続けて・・・。

「少しだけ・・・先の時間を・・・先生は見たいと思わなかったんですか。
そこに、新しい日が、先生を待っているかもしれないのに」
「お前を置いていくことなど、できるはずもない。
いや、そのような考えさえ、思い浮かばなかった」

人は・・・未来へと進むもの。
なのに先生はただ一人、傷ついた心を抱えたまま・・・
未来に背を向けて、幾度も・・・過去へ・・・。

「神子・・・私はふと、長い夢を見ているのではないかと思う時があるのだ。
お前に触れたなら消えてしまうような・・・儚く、幸福な夢を・・・」

先生・・・私は夢なんかじゃない・・・。
消えたりしない。
これからだって、何があっても、私は・・・先生と一緒に・・・生きていく!

望美の決意は、一瞬で固まった。
大きく息を吸い、リズに向かってにっこり笑いかける。

「先生・・・私の世界の、おまじないを教えてあげます」
「神子の世界の・・・まじない?」
「眠る前のおまじないです。素敵な夢が、本当のことになっちゃうんです」
「不思議なまじない・・・だな。それは何と呼ばれているのだ?」

「『おやすみのキス』って言います。
先生の夢は、消えません。そして、ここにいる私も・・・絶対に・・・」

リズの瞳が、問うように望美の瞳を見つめた。
その青い瞳は、炎と望美を映している。

両の頬に手をそっと当てて、顔を近づける。
透き通った青い瞳が・・・眩しくて・・・でも、眼をそらすことができなくて・・・。

ふっと、リズの眼が優しくなった。

先生は・・・わかったんだ・・・

リズの唇に触れる瞬間、望美は思わず瞳を閉じていた。

柔らかくて・・・暖かい・・・
下から押し当てた望美の唇に、上からかすかな重みが返る。

眼を閉じたまま、望美はそっと唇を離した。
リズの頬に当てた手が、大きな手に包まれるのを感じ、
おずおずと目を上げると、そこにはリズの微笑み。

「・・・・・・あの・・・」
次の言葉に詰まったその時、
両の手を引かれ、望美はそのまま、リズの広い胸に顔を埋めていた。

「ありがとう・・・神子」

耳元に、先生の・・・声。
大きくて力強い手が、髪をなでてくれている。

「私も・・・お前という運命を、決して離しはしない・・・」

望美の眼から、一粒の涙が零れ出た。



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余話 

1.馬酔木の花の零れゆく 〜鎌倉にて〜 (オリキャラ→朔)
2.雨夜の花嫁 〜伊豆にて〜 (頼朝×政子)
3.汝、強き者 〜京にて〜 (梶原兄妹・リズ・望美)
5.我が故郷は静けき眠りにありて 〜倶利伽羅にて・後篇〜 (リズ×望美)

[果て遠き道・目次(前書き)]

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