遠くの梢がざわめいた。
木立の間を、涼しい夕風が吹き過ぎる。
山道を登り続けてきた身体には、その風が心地よい。
望美は、額にうっすらと浮かんだ汗を拭った。
望美と共に立ち止まったリズだったが、ふと顔を上げ、空を見た。
風の方向を見定め、山の大気に混じる土と水の匂いに、
かすかな変化を感じ取る。
「神子、急いで野宿の支度だ」
「え?」
突然の言葉に戸惑う望美に、リズは短く答えた。
「雨になる」
壇ノ浦での勝利の後、リズと望美は京に帰る九郎達と別れ、
北へと向かう道を辿っていた。
目的の地は、もう近い。
・・・二人は、倶利伽羅へ向かっている。
運命の輪の、初まりの地へと。
リズの言葉の通り、夕暮れ時に降り出した雨は、
やむ気配もなく、しとしとと降り続いている。
暗くなる前に、手頃な洞穴を見つけることができた。
広くはないが、ここなら雨をしのぐことが出来る。
火を焚いて暖を取るための枯れ枝も、拾い集めた。
静かな雨音が、満ちている。
小さな焚き火、小さな洞穴、深い山。
望美はふと、不思議な思いにとらわれる。
この世界に、先生と二人だけで、いるみたい・・・
雨の音を聞きながら、望美はリズの横顔を見つめていた。
覆面に隠されて、ほとんど見ることのなかった素顔。
リズは、洞穴の入り口近く、焚き火の前に座っている。
立てた片膝に腕を預け、一見くつろいでいるような姿勢。
しかし望美には、リズが片時も警戒を解いていないことがわかる。
リズの視線は、降りしきる雨と、木々の影を宿す夜闇に向けられていた。
焚き火が、気まぐれな影をリズの顔に落とす。
時折、炎の揺らめきと共に、髪が金色の光を放った。
先生・・・って、・・・とてもきれいだ・・・。
望美が心の中でつぶやいて、思わずため息をもらした時、
リズが振り向いた。
「何か・・・私の顔についているのか、神子」
「いっ・・・いいえ・・・!!」
望美は慌てて、両手をぶんぶんと振る。
・・・・・先生ってきれいですね、なんて、言えるはずもない。
望美の狼狽ぶりに、リズはかすかな笑みを浮かべ、
「そうか・・・」
一言だけ答えると、姿勢を戻した。
沈黙が下り、聞こえるのは焚き火の音と雨音だけ。
再び、リズの横顔を見つめながら、望美は思う。
先生の眼が、どことなく淋しげに見えるのは、なぜだろう。
雨の向こうに、何を見ているの・・・。
もうここは、先生の故郷・・・あの鬼の村に近い。
やっぱり、先生は・・・つらいんだろうか。
「神子・・・心にかかることがあるのなら、言ってみなさい」
焚き火に小枝をくべながら、リズが言った。
望美は思い切って尋ねてみることにした。
先生には、隠し事なんてできない。
「・・・先生は今、何を考えているのかなって・・・」
リズはしばし考えているようだったが、やがてぽつりと言った。
「雨の夜なのに・・・あたたかい・・・と」
「ええと・・・あの・・・」
「そうか・・・、これだけでは言葉が足りぬか・・・。
私は・・・雨の音を聞き、雨に打たれる土や木々の葉音を聞いていた」
「はい。で・・・それがなぜ?」
「その時、思ったのだ。お前といると・・・このような雨の夜さえ、あたたかい・・・と」
望美は少しうれしい気持ちになり、さらには、
リズが悲しんでいるわけではないことに、ほっとした。
なので、気になっていたことも続けて聞いてみる。
「晴れていたのに、先生は、どうして雨が降るってわかったんですか」
今度はすぐに、リズは答えてくれた。
「風の匂い、雲の流れ方、獣たちの動き・・・、それらが教えてくれるのだ。
ましてここは・・・私の生まれ育った地。
遠く離れて幾星霜も過ぎたが、この地の気、山の香、土の感触、
どれも、忘れることはない。
気まぐれに変わる山の天候も、私には馴染み深いものだ」
望美は、はっとした。
喉がぐっと詰まるような、悲しさがこみ上げてくる。
鬼の里が滅んだのは、この時空では、ほんの数ヶ月前のことなのだ。
小さなリズのいた故郷の自然は、何も変わってはいない。
ただ一つ・・・小さな隠れ里が滅びたことを除いては・・・。
「ごめんなさい・・・私・・・先生に辛いことを・・・聞いてしまいました」
うなだれる望美に、リズは言った。
「神子、冷えてきたようだ。こちらに来て、火にあたるとよい」
焚き火から、時折ぱちっと小さな音がする。
あたたかい。
隣に先生がいるから・・・もっとあたたかい。
先生も、同じことを言ってくれた。
顔が少し火照るような気がするのは、炎のせいばかりではない。
「私にはもう、遠い昔のことだ。神子、お前は優しすぎる」
リズが、静かに話している。
落ち込んだ自分を慰めようとしていることが、望美にはわかった。
隣に座るリズを見上げ、その心地よい声に耳を傾ける。
「お前は、繰り返した時空の中で、私がすでに今宵の雨を経験している・・・と
思ったのではないか?」
望美は小さく頷いた。
「壇ノ浦の後、春までも時を進んだことはない。
私は・・・繰り返し、間違った運命を選んでしまっていたから・・・。
この雨の音も・・・初めて聞くものだ」
リズの眼も声も、とても優しい。
悲しみに曇ってもいない。
それが、自分に向けられた想いのためであると・・・望美は痛いほどに感じる。
先生は・・・私を助けるため、繰り返し時空を過去へと渡ってくれた。
私を置いて、たった数ヶ月先の時間すら、進むことができずに。
私の死を受け入れることを、拒み続けて・・・。
「少しだけ・・・先の時間を・・・先生は見たいと思わなかったんですか。
そこに、新しい日が、先生を待っているかもしれないのに」
「お前を置いていくことなど、できるはずもない。
いや、そのような考えさえ、思い浮かばなかった」
人は・・・未来へと進むもの。
なのに先生はただ一人、傷ついた心を抱えたまま・・・
未来に背を向けて、幾度も・・・過去へ・・・。
「神子・・・私はふと、長い夢を見ているのではないかと思う時があるのだ。
お前に触れたなら消えてしまうような・・・儚く、幸福な夢を・・・」
先生・・・私は夢なんかじゃない・・・。
消えたりしない。
これからだって、何があっても、私は・・・先生と一緒に・・・生きていく!
望美の決意は、一瞬で固まった。
大きく息を吸い、リズに向かってにっこり笑いかける。
「先生・・・私の世界の、おまじないを教えてあげます」
「神子の世界の・・・まじない?」
「眠る前のおまじないです。素敵な夢が、本当のことになっちゃうんです」
「不思議なまじない・・・だな。それは何と呼ばれているのだ?」
「『おやすみのキス』って言います。
先生の夢は、消えません。そして、ここにいる私も・・・絶対に・・・」
リズの瞳が、問うように望美の瞳を見つめた。
その青い瞳は、炎と望美を映している。
両の頬に手をそっと当てて、顔を近づける。
透き通った青い瞳が・・・眩しくて・・・でも、眼をそらすことができなくて・・・。
ふっと、リズの眼が優しくなった。
先生は・・・わかったんだ・・・
リズの唇に触れる瞬間、望美は思わず瞳を閉じていた。
柔らかくて・・・暖かい・・・
下から押し当てた望美の唇に、上からかすかな重みが返る。
眼を閉じたまま、望美はそっと唇を離した。
リズの頬に当てた手が、大きな手に包まれるのを感じ、
おずおずと目を上げると、そこにはリズの微笑み。
「・・・・・・あの・・・」
次の言葉に詰まったその時、
両の手を引かれ、望美はそのまま、リズの広い胸に顔を埋めていた。
「ありがとう・・・神子」
耳元に、先生の・・・声。
大きくて力強い手が、髪をなでてくれている。
「私も・・・お前という運命を、決して離しはしない・・・」
望美の眼から、一粒の涙が零れ出た。
余話
1.馬酔木の花の零れゆく 〜鎌倉にて〜
(オリキャラ→朔)
2.雨夜の花嫁 〜伊豆にて〜
(頼朝×政子)
3.汝、強き者 〜京にて〜
(梶原兄妹・リズ・望美)
5.我が故郷は静けき眠りにありて 〜倶利伽羅にて・後篇〜
(リズ×望美)