「先輩!・・・逃げて・・・下さい!」
望美は驚いて目覚めた。
譲の声が聞こえたような気がした。苦しげな声。
夢?
朔とおしゃべりしながら、いつの間にか眠ってしまっていた。
ぶるっと身震いする。
外は暁。
鞍馬に比べればまだ暖かいとはいえ、火の気のない部屋は底冷えがして寒い。
身支度をして土間に行くと、朔が竈に火を熾していた。
「おはよう、朔」
「おはよう。ずいぶん早いのね。疲れているのでしょう。もう少し寝ていてはどう?」
「ありがとう。でも、稽古もあるし、お料理も教えてもらいたいし・・・」
「ふふっ、忙しいのね。では、お料理の話はもう少し後にした方がよいかしら。
先にお稽古をしてくるといいわ。リズ先生に約束していたのでしょう?」
「うん、じゃあそうするね。でも朔は、毎日食事の支度をしているの?」
「そういうわけではないわ。ただ、できる時にはお手伝いしないと、私・・・」
朔は次の言葉を飲み込んだ。望美に話せば詮の無い愚痴になりそうだったから。
自分の思い、自分の立場、自分の成すべき事、繰り返し問うてもまだ答えの出ない諸々の事・・・。
「・・・朔・・・えっと・・・」
「ああ、ごめんなさいね。何でもないのよ。だから気にしないで」
「・・・ここにいる間、一緒に手伝わせてくれるかな。私、いろいろ覚えたいんだ」
「ありがとう。じゃあ、頼りにしているわね、望美」
朔は微笑んだ。望美の明るさに、心がなごむのを感じる。
望美は庭に出た。夢のことが頭から離れない。
朝日のまぶしさに、一瞬、目を閉じた。
再び目を開くと、昇り始めた太陽を背に、リズが静かに佇んでいるのがわかった。
「も、申し訳ありません!先生を待たせるなんて・・・」
「朔に教えを乞うていたのではなかったか?それはもうよいのか?」
「あ、先生ご存知だったんですか?お料理のこと」
「うむ」
「後で朔と相談することにしました。今は・・・」
「始めるか」
「お願いします!」
「はぁぁっ!!」
望美が打ち込んでくる。
「・・・・・・」
「とおっ!!!」
間合いの取り方も踏み込みも、流れるような剣さばきも、いつものまま。
しかし・・・
「うっ・・・」
リズの一瞬の切り返しに、カラン、と音を立てて望美の木刀が手から落ちた。
「何を迷っている」
リズの声は厳しい。
「・・・!」
望美の腕が、じん、と付け根まで痺れている。
「私の言っていることの意味が、分かるか」
「はい。すみませんでした」
「なれば・・・」
その時、がやがやと人の声がした。
「おおっ、やはり!」
「源氏の神子様だ」
「なんとお美しい剣の使い手だろうか」
「こちらは景時様の先生の・・・」
「さすがに伝説と言われるだけのお方だ」
梶原党の武士達だった。
「な、なんか、私たちの稽古、見られてました?」
「そのようだな」
リズはゆっくりと前に進み出た。それまで騒いでいた武士達が沈黙する。
「早朝から皆を起こしてしまったようだな。すまなかった。
初めて対面する者もいると思うが、私はリズヴァーンという。
景時殿とのご縁で、こちらには春までやっかいになることとなった。よろしく頼む」
リズは静かに頭を下げた。
促されて、望美も挨拶する。
「春日望美です。朝から大声を出して申し訳ありませんでした。
これから気をつけますので、以後よろしくお願いします」
なんとも芸のない自己紹介だと思いながら、望美はぺこんとお辞儀をした。
すると、
「こちらこそ、よろしくお願い申す」
「俺は神子様達と一緒に戦ったんですよ。そんな他人行儀な」
「えー、拙者は以前よりこの邸に仕えている者で・・・。」
「変わった剣さばきですね。一度手合わせ願えませんか?」
みんなから同時に挨拶が返ってきた。
聞き取れない。
でも、なんとなく嬉しくなって、望美はリズを見上げた。
「顔なじみの人もいるし、みんないい人でよかったですね」
「ああ。そうだな」
リズも微笑んでいる。
だが・・・その眼が笑っていないのを、望美は見て取った。
「と、いうわけで、オレのいない間もみんな仲良くね〜♪」
いつの間にか、景時も来ている。
「リズ先生、望美ちゃん、朝餉の支度ができたみたいだよ」
朝食を食べながら、望美は尋ねた。
「あの、弁慶さんは?」
「ああ、今朝まだ暗いうちに帰ったよ。望美ちゃんによろしくってさ」
「弁慶さん、忙しいんですね。会いに行こうと思ってるんだけど、迷惑かな?」
「そんなことないんじゃない?望美ちゃんと先生なら、いつだって大歓迎に決まってるって♪」
リズは黙ってやりとりを聞いている。
「じゃあ・・・、その・・・今日は嵐山に行ってもいいですか?」
「・・・そ、そうだね。譲くんにも、会いたいよね」
「・・・」
リズは答えなかった。いつもの沈黙?
それとも、何か知っている?!
譲くんのことで?
今朝の夢。
あれは、ただの夢ではないのでは?
望美の胸に不安が黒雲のように広がる。
この世界では、夢に出てきた者の方が、夢を見た者のことを思っているという。
しかも、譲は夢に未来を予知する能力の持ち主。
「私、どうしても行きます!譲くんに何か起きてるかもしれない!!」
望美は顔を上げて叫んだ。
「望美?」
「望美ちゃん・・・」
「神子の剣の迷い・・・そのことだったか」
「・・・はい。先程はすみませんでした。でも、譲くんのことが気にかかるんです」
剣は真っ正直なもの。リズには、お見通しだったのだ。
「先生・・・、私と一緒に嵐山に行って下さい」
一瞬の沈黙の後、リズは答えた。
「行かぬ方がいい。我ら、気づくのが遅・・・すぎた」
「先生!それって・・・どういう?!」
「なぜ、そう言えるんですか。確か、昨夜の話では・・・」
「!!昨夜って・・・私達が部屋を出てから何かあったんですか?」
「兄上!ひどいわ。私達に隠し事をするなんて。譲殿はかりにも・・・」
「分かってる!そんなことはオレだって!!・・・それより、リズ先生、あなたは何を?
・・・もしかして昨夜のうちに?」
「嵐山まで行ってきた」
「で、今朝にはもう戻っていたんですね」
「たいしたことではない・・・。そう、私の労など・・・そんなことより」
「譲くんは、無事なんですか?!先生!!」
「・・・すまぬ・・・神子。わからないのだ。星の一族の屋敷は焼け落ちて、もう跡形もない」
「先生が行った時には・・・もう?」
「煙が、まだくすぶっていた。昨夜早く動いていれば、あるいは・・・」
リズは苦しそうに言った。
「なぜ景時さんに知らせが来なかったんですか?」
「兄上は頼朝様の家臣ではあるけれど、京の職に就いてるわけではないから・・・」
・・・「先輩!・・・逃げて・・・下さい!」
望美の脳裏に、夢で聞いた譲の声が響く。
暁の頃に、その声で目覚めたのだった。
・・・暁の頃・・・?
「先生、嵐山に着いたのはまだ暗いうちですよね」
「そうだが・・・」
「夜が明ける前には、こちらに戻っていたんですね」
「その通りだ」
だとしたら・・・
「譲くんは、生きてるよ!!」
「本当?」
「望美、あなた、わかるの?」
「神子・・・」
「明け方、譲くんの声を聞いたの。私に、逃げろって言ってたの」
「ええっ?!」
「それじゃ、次はもしかすると」
「神子、お前が危ない」
望美はきょとんとした。そんなことは、思ってもみなかったのだ。
譲が危ない目にあっているのではと、そのことばかりが気になっていた。
譲がもとの世界に帰らなかったのは、望美がこちらに残ったからだ。
「この世界は、俺たちの世界の歴史と似ているようでいて、
どんどん違いが大きくなってきているんです。
戦の勝者は源氏でしたが、この先どうなっていくのか・・・俺には皆目見当もつきません。
だからこの目で確かめたいんです。この世界の行く末を」
「でも、将臣くんもこっちにいるんだよ。譲くんまで帰らなかったら・・・」
「祖母のことも・・・ありますから」
「あ、スミレおばあさんの・・・」
「ええ、嵐山の藤原家に世話になることにしました。星の一族についても、もう少し調べてみたいんです」
「そうか、譲くんはもう、決めたんだね・・・」
「・・・先輩、もとの世界の料理が食べたくなったら、いつでも来て下さい。
あの・・・もちろん、リズ先生も一緒に」
「うん、ありがとう。もとの世界のことを知ってる人が京にいるって、何だか心強いよ」
「先輩にそう思ってもらえるんだったら・・・俺、うれしいです」
伏し目がちに、時折目をそらせながら話す譲の気持ちを察することは容易だった。
どちらかといえば、鈍感の部類に入る望美だったが、幾度となく死線をくぐり抜け、
自分の想いを貫き、愛する人と心を通わせて生きることを知った今では、
譲の気持ちが痛いくらいにわかる。
「幼馴染みの譲くん」として「星の一族」として、譲はこの世界に残ると決めたのだ。
それだけを、望美との絆のよすがとして・・・。
そしてそのために、譲は危機に瀕している。
「私は、大丈夫。やっぱり嵐山まで行こうよ。何か手がかりがつかめるかもしれない」
「だめだ、神子」
「行っちゃいけないよ、望美ちゃん」
「どうして?!先生も景時さんもおかしいよ!二人とも!」
「待って、望美」
朔が穏やかな声で割って入った。
「朔までっ?!」
「兄上達が昨夜何を話していたのか、私達はまだ知らないわ。その話があったから、
リズ先生は嵐山まで行ったのでしょう?
まずは兄上に、全部話してもらった方がよいと思うのだけれど」
「そうか!その通りだね。私ったら、何だか焦っちゃって、肝心なこと、忘れてたよ」
「では、兄上」
「え、えぇ〜っ、オレ?う〜ん、困っちゃったなあ。どうしたもんかなあ・・・」
「ごまかさないで下さい、兄上。こんな時なんですよ!」
「う〜ん、できればもっと見えてきてからの方がいいかなあ〜って思ってたんだけど」
「仕方あるまい。すでに危機は存在している。神子にも朔にも、油断があってはならない」
「・・・そうですね。じゃあ、いいかい?オレの話、最後まで落ち着いて聞いてくれるかな?」
「はい、兄上」
「お願いします」
その頃、櫛笥小路を目指して早馬が京の街を駆けていた。
「ええっ?!」
「そんな・・・九郎さんまで?」
せわしない足音が近づき、部屋の外で止まった。
「お話の所、失礼つかまつります!早馬の使者にございます」
「うん、何?」
「景時様、すぐに出仕せよとの御下命です」
「・・・ここで詳しく言って構わないよ」
「謀反人、九郎義経の六条堀川の屋敷にて、
頼朝様の御名代、政子様がお待ちでございます。
お急ぎ下さいませ!」