しん、と冷えこんだ星のない夜。
月の出までには、多少の時がある。
闇に身を沈め、リズは周囲を窺った。
まだ屋敷全体が寝静まる時間ではない。
母屋では人の動く気配がある。
が、見張りの武士達を除いては、あまり出歩く者の姿もない。
幾度か訪れたことのある屋敷。
建物の配置、警備の要となる場所も分かっている。
母屋の屋根に飛び、音もなく移動しながら敷地内に立つ見張りの位置を確認する。
一箇所、小さな蔵の周囲に不似合いな人数の武士。
その隣に、誰もいない小屋。
「蔵は目眩ましか・・・・」
小屋の裏手に飛ぼうとした瞬間、
周囲の風景が凍り付いた。
・・・・ように思えた。
気の迷いか?
いや、違う。
リズは感じ取っていた。
闇の底に、大きな力が潜んでいること。
それが薄ら笑いを浮かべたことを。
譲はここにいる。
リズが確信したその時、
ヒュッ!
背後から剣が振り下ろされた。
キン!!
振り向きざま、半ばまで抜いた剣で刺客の刃を受ける。
次の攻撃。
疾い!
リズに体勢を整える間を与えず、打ちかかってくる。
近づく気配も足音もなく忍び寄った刺客は、
足場の悪い屋根の上、体勢を崩すこともなく、
今はぎらつく殺気をみなぎらせながら剣を振るう。
刃と刃のぶつかり合う鋭い音が、夜気を震わせて響き渡る。
間断ない剣戟の音を聞きつけて、屋敷の武士達が母屋の周りに集まってきた。
「曲者だ!!」
「捕らえろ!!」
「お前達はそちらから回れ!!」
はしごをかけて屋根に上ってこようとしている。
その時、月明かりが射した。
瞬間、刺客は身を翻した。
リズの刃が刺客の背を掠る。
しかし、刺客はそのまま屋根の上を走り、
ちょうど武士達の間隙となる場所に飛び降りると、暗がりに姿を消した。
リズも後を追ってその場所に飛び降りる。
しかし、すでに刺客の姿はない。
母屋の周囲では、逃げた曲者を求め、武士達が
松明をかかげて走り回っている。
雲間を通して、冴え冴えとした月明かりが周囲を照らす。
武士達はその夜、誰も捕らえることができなかった。
夜中過ぎ、望美は目を覚ました。
弁慶の調合してくれた薬湯で、ひと時は身体も暖まり、
眠りに就つくことができたのだが・・・・・。
一度目が冴えてしまうと、なかなか寝付くことができない。
今ここで考えていても仕方のないこと、とはわかっていても、
様々なことが次々と頭に浮かんでは消えていく。
九郎さんのこと、譲くんのこと、私達が見張られていること。
背後に幕府が・・・・九郎さんのお兄さん、頼朝の存在があるらしいこと。
でも、わからない。
幕府はまだできたばかりで、基盤も強いとはいえない。
そんな時だからこそ、九郎さんのような人望の篤い人は大切なはず。
まして、頼朝とは血を分けた兄弟。
でも、確か私の世界では、源平の合戦が終わってから、
九郎さんは幕府に追われる身となって、
最後には・・・・・!!!
いやだ!!
せっかく戦が終わったのに!
みんな、生き延びることができたのに!
街の人々に穏やかな笑顔が戻ってきたのに!
白龍も空に還り、人の世の平和を見守ってくれているのに!
そんなのは、いやだ!!
譲くんの言っていた、この世界の行く末って、こういうことだったんだろうか?
・・・・・でも、それが私達と何の関係があるんだろう。
星の一族の館の火事が、譲くんや龍の宝玉を狙ってのことだったとしても、
龍神の神子と八葉の役目はもう終わっているのだ。
・・・・・・・そう、私はもう、白龍の神子じゃないから、だから封印の力も無くなったんだ。
今まで、当たり前のように使ってきた力だから・・・・だからショックだったんだ。
落ち着いて受け止めなくちゃ。
仕方のないことなんだ・・・・って。
でも、また怨霊が出るようになったのに、このままでは・・・・・。
そういえば、怨霊はなぜまた現れたの?
これは幕府の動きと関係あるの?
でも、怨霊を使っていたのは平家のはず。
・・・・・わからない・・・・・。
先生の話も、途中でお終いになったままだ。
先生・・・・・。
隣の部屋にいるのかな?
リズと弁慶は、望美と朔が床につく前に、今夜は次の間で警護しているから、と言ってくれた。
だったら・・・・。
望美は朔を起こさないようにそっと起きあがると、扉の隙間から次の間を覗いた。
そこには弁慶が一人。灯りをつけて、静かに書物を読んでいる。
二人交互に警護してくれているのだろうか。
ならば先生は自分の部屋にいるはず。
望美は音を立てぬように廊下に出ると渡殿を抜け、自分達にと用意された部屋に向かった。
脇戸を開き中に入ると、かすかに洩れる月明かりにリズの姿が見えた。
こちらを向いて眠っている。
リズは決して入り口に背を向けない。
これは長い間に身に染みついた本能のようなものだ、といつか言っていたことを思い出す。
「先生・・・・こんな時でも」
リズの眠りを妨げないよう、望美は忍び足で近づき、その傍らに膝をついた。
月の光がリズを照らし、床に流れた金糸のような髪がうっすらと輝く。
そっと触れてみる。
その時リズが少し動いた。
いけない!起こしちゃった?!
しかしリズの寝息は静かなまま。
無性に先生のそばにいたくなって、ここまで来てしまったけれど、
何してるんだろ、私・・・・・。
先生は昨日、真夜中に一人で嵐山まで行ってきて、今朝の稽古には私より早く来て
その後また一緒に同じ場所を往復してくれたんだ。
先生の休息を邪魔しちゃいけない。
望美は引き返そうとして、少しためらい、それから意を決して
そろそろとリズの顔に身を屈めた。
ちょっと・・・だけ・・・おやすみのキス。
唇が触れた瞬間、強い力で抱き寄せられた。
息が止まるほど狂おしい、口づけ。
熱い吐息が混ざり合う。
言葉のない、刹那の時間。
「先生は・・・・意地悪です」
冷たい床に横たわったまま、リズの胸に顔を埋めて望美が言う。
何だかとても恥ずかしい。
「起きていたなら、そう言って下さい」
「このような夜中に忍んでくるとは、神子もなかなか大胆・・・・と感心していたのだが」
「そんな・・・・そんなこと・・・・やっぱり先生は意地悪です」
「気配で目覚めるのはいつものこと。
神子だと分かっていたから、横になったままでいたのだ」
「分かっていたなら、なおさらです」
リズは真顔になった。
「神子、急ぎの用ならば、お前は走り来て迷わず私を起こしただろう。
しかしお前はそうしなかった」
「はい」
「お前はとても疲れている。お前が望むなら、話し相手を努めるのは構わない。
しかし、今のお前の最良の薬はよく休むことだ。私が眠っていることで、
お前がそのまま引き返すなら、それもよし・・・・・私はそう思ったのだ」
「先生・・・・・すみません。そこまで考えてくれていたのに、私は・・・・」
やはり恥ずかしい。顔から火が出るほど恥ずかしい。
「だが、私は間違っていた」
「え?先生・・・・?」
「お前の心も、大事に考えるべきだった。あれほどのことがあったのだ。
お前が心を痛めていないはずがない」
「先生・・・・」
「甘えていいのだ、神子。重荷は、二人で分かち合おう。
私には、それぐらいのことしか・・・・できない」
「先生・・・・・ありがとう・・・・」
先生は、わかってくれていた。
私に必要だったのは、こうしてつらい気持ちを受け止めてもらうことだったんだ。
リズの心が、望美には一番うれしかった。
「先生、あの、お願いなんですけど・・・」
「言ってみなさい」
「もう少し、こうしていてもいいですか。先生といると、とても安心できるんです」
「お前の望むままに・・・・。それは私の望みでもある」
同じ頃、嵐山の焼け跡に立つ二つの人影があった。
「譲・・・・」
「こ、これは・・・いったい何が・・・?」
「随分とひどい焼けっぷりだな。ただの火事じゃなさそうだぜ」
「館の人々は・・・無事なのだろうか・・・・」
「厄介なことに巻き込まれてねえといいんだけどな」
「これも、例の件と関係が?」
「まだ何とも言えねえが・・・、臭うな。ま、いろいろ調べてりゃあ、その内何か掴めるだろ」
「それにしても、皆の行方を確かめねば」
「そうだな、まずはそこからになるな。寄り道になって悪いが、付き合ってくれるか」
「もちろんです。・・・・あ・・・・・!!」
「ん?どうした?」
「これは・・・・なぜ、このようなものが?」
「何なんだ、この石は。なんか、ヤな感じがするぜ」
「呪詛・・・・呪いの念をこめた石です」
「こんなご大層なモン、いったい誰が埋めたんだ?」
「それに、ここは・・・・怨霊の気配が強い」
「何だ?俺達はもう、怨霊なんか使っちゃいねえぞ。とすると、他の誰かってことか?」
「いやな予感がします。早く動いた方が・・・」
「それにしても、お前、よくこんなもんに気づいたな」
「いや・・・・それは・・・・たぶん、私だから」
「とりあえず譲のことは、京にいる連中に聞くのが手っ取り早いだろうな。
櫛笥小路は論外として、あとは鞍馬と五条か」
「身を隠すには鞍馬山中がよいが、それでは・・・・」
「そうだな。情報を集めるには、やっぱり街中ってことか」
「五条は六波羅の源氏の拠点にも近い。・・・大丈夫だろうか」
「ま、病人のフリして行くしかねえだろ。お前も、こうすりゃ、どうだ?!」
「わっ!!わわっ!!な、何を・・・・?!」
「うーん、これでちっとは貧しい病人に見えるようになったな」
「ひ、ひどい・・・・。なぜ髪を解くのですか?着物も破くなど・・・」
「いやあ悪い悪い。お前って、なぁーんとなく、きれいさっぱりしてるからさ、
これぐらいしねえと、らしく見えねえんだよ」
「だからといって、何も今・・・・」
「善は急げって、言うからな」
「はあぁぁ・・・・・」
二つの影は山を下り、京の街へと向かった。
第2章 遠雷
(1)暗雲
(2)譲の行方
(3)嵐山
(4)景時の書状
第3章 暗鬼
(1)怨霊を呼ぶ者
[果て遠き道・目次(前書き)]