果て遠き道

第1章・流離

2 地の玄武



どれほど眠っていたのだろうか。火傷の痛みがリズを目覚めさせた。
板壁のわずかな隙間から夕映えの光が射し込んでいる。
光に照らされた部屋にあるのは文机がひとつ。
そして壁が見えぬほどに高く積まれた書物と竹簡。
主の住んでいる気配は、皆無だ。

周りを見回し、ふと戸惑い、一瞬の内に蘇る記憶。押し寄せる絶望感。
泣きたくなるのを我慢して、懐から白い鱗を取り出す。
あの(ひと)の面影が重なる。

そうだ!!
白い鱗を握りしめ、あの場所へ飛べ!と祈る。
目を閉じて、強く、強く念じる。
しかし、白い鱗は沈黙したまま。
目を開けば、自分は見知らぬ地という牢獄の中。

まだ、泣いちゃダメだ。あきらめてもダメだ。
ほどけた紐を結び直し、鱗を首に掛けてみる。傷には触らない。
昨夜より、ずっと気分はよくなっている。
まず、できることは何だろう。この庵の主を待ってみようか。

その時、草庵の外に、ただならぬ気配を感じた。
怨霊・・・?!
思わず身構えたが、邪気を感じない。
ここの主が帰ってきたのかもしれない。ならば・・・・、

しかし、外に出たリズの眼前には、背に翼を持つ、異形の者が立っていた。

「うわぁっ!!!」
驚いて後ずさりするリズを、異形の者は興味深そうに眺めている。

「ぼうず、儂が見えるのか?」
「あ・・・・あなたは・・・?!」
「やれやれ、泰継の結界がこんなにたやすく破られるとはのう。しかも鬼の子に、とは・・・」
異形の者はおかしそうに笑った。
呆然としていたリズだったが、だんだん腹が立ってきた。
「何がおかしい!ぼくの名はリズヴァーン。お前も名乗れ」
笑い声が大きくなった。
「この儂に向かって、その遠慮会釈のない態度。気に入ったぞ、リズヴァーンとやら。
儂は天狗じゃ。北山の大天狗と呼ばれておる」

「天狗・・・?北山の・・・・・」
その意味する所がよく分からなくて、リズはおうむ返しに呟いた。
北山・・・・!ハッと気づく。土地の名前?!
「北山って、この山のこと?!大天狗・・・さん、教えて下さい、ここは、どこなんですか?
ぼく、里に帰らなければいけないんです!今すぐに!!」
すがるような思いだった。この天狗は敵なのかもしれない。
けれど、今は自分のいる場所を知りたい。
だが、天狗は黙している。

艮の卦を持つか・・・・・。だが地の玄武・・・八葉には幼すぎる・・・・しかも、鬼の子。
しかし、あの泰継の結界を解いた。
この幼すぎる子が・・・・そう・・・なのか?
 
「む・・・?!」
黙ってリズを見下ろしていた天狗の眼光が俄に鋭くなった。
その目がひたと見据えているのは、リズの胸元に下がる白い鱗。
やはり、この鬼の子は・・・・・・無縁ではないのだ。あの、存在と。

「なぜ、お前がそのような物を持っている?」
はっとして、リズは鱗を握りしめた。やはり、敵・・・なのか?
「お前こそ・・・・なんでそんなことを訊く?!」
じりじりと後ずさりしながらリズは言い返した。
「これは、ぼくを助けてくれた (ひと)のものだ!
ぼくはその(ひと)に これを返さなければいけないんだ!」

天狗の表情が和んだように見えた。しかし、リズは油断なく身構えている。
「そうやって身構えた所、子供とはいえ、山の大神のようだな。
お前のように強い気を持つ鬼には、久しく会わなんだ」

どちらに走って逃げても、翼を持つ天狗にはたやすく捕えられてしまうだろう。
だが、結界・・・と天狗は言っていた。
それが人力を越えた天狗にも力を及ぼすことができるのか・・・?分からない・・・。
それでも、狭い場所なら小柄な方が有利。逃げるなら、庵の中だ!
リズはせわしく考えを巡らせた。

「儂がそれを狙っているとでも思ったか。逃げる算段をしておるな」
「・・・・・・・・・」
「お前は、それが何なのか分かっていないのだな、リズヴァーン」
「・・・・お前には分かるのか?」
「龍の鱗・・・・・陽の気の塊だ」
「龍・・・・?」
何かの鱗であることは察しがついていた。
しかし、これほど大きな鱗を持つ生き物をリズは知らなかった。
まさか、龍とは。

天狗の言葉を偽りとは思わなかった。自分に害をなす存在かどうかはまだ分からない。
けれど・・・里の長老の言葉をリズは思い出していた。
天狗は小賢しい狐狸の類とは違う、神力を持つ存在。
偽りの言の葉を弄するような真似はせぬ・・・。

「そうじゃ。それの放つ尋常ならざる力・・・・・おそらく、龍の力の源、逆鱗であろうよ。
陽の気の龍神・・・・白龍の」

「龍神・・・・白龍・・・・」
どこかで聞いた言葉だ。
里の大人達が話していたこと・・・・・。人間達のこと・・・・・。

「それを持っていたのは、龍神の神子ではなかったか?」

神子!!!・・・・そうだ!大人達は「源氏の神子」の話をしていたのだ。
人間達の戦の中、龍神の加護を受け、怨霊を祓うと・・・・。

じゃあ、あの(ひと)は・・・ 龍神の神子・・・・?
怨霊を消し去り、清らかな気を纏い、白龍の逆鱗を持っていた・・・・。
でも、龍神の神子は昔ぼくたちの一族と・・・・・・。

「そ、そうなのかも・・・しれません」
あの(ひと)の面影が浮かぶ。 ・・・龍神の神子・・・?
「言葉使いが変わったか、リズヴァーン?」

リズは、大天狗を見上げた。天狗の強い視線を真っ直ぐに受け止める。
混乱する気持ちを抑え、今はまず、天狗の話を聞かなければ。
「儂の言葉、偽りとは疑わぬのか?」
「これが龍の逆鱗・・・なのかどうかは、本当は分かりません。
でも、大天狗さんがこれを龍の逆鱗だと思っているのは本当のことでしょう?」
「幼いのに事分けて考える子よのう。誰かに学んでいるのか」
「はい、里の長老に・・・・。あの、ぼくは里へ帰りたいんです。今すぐに!
だから教えて下さい!北山って、どこにあるんですか?!」
今度こそ、天狗は答えてくれるのだろうか。

必死な目ですがるように自分を見上げるリズの様子に、天狗は少し心痛んだ。
しかし、この鬼の子が望んでいるのは優しい慰めの言葉や同情などではない。
真実は時に残酷だが、それに立ち向かう者に道は開ける。この幼い地の玄武はどうか?

「リズヴァーン、心して聞け」
辛い言葉を聞くのだと悟る。しかし、リズは居住まいを正した。
大天狗の言葉は里の長老や、棟梁であった父の言葉と同じ重みを持つと感じていたからだ。
「はい。お願いします」

「この北山は京の地にある」

目の前が、すうっと暗くなった。
京?言い伝えでしか耳にしたことのない、遠い地。

「京というのは、分かるな?」
「・・・・はい。昔、ぼくの一族が人間と戦った地。人間世界の帝の住む都・・・です」
リズは、やっと、答えた。大天狗はさらに続ける。
「この地から鬼の一族の姿が絶えて久しい。
そして、お前達を滅ぼした龍神の神子も、何十年も前に去った」

「それなら、なぜあの(ひと)が 里に・・・・・?」
「分からぬ。新たな神子が現れたという話も聞かぬ。
この北山まで人の世の有様が悉く聞こえてくるわけでもないが」

帰り道が閉ざされた・・・・・。
遠い地、神子もいない。無力な自分だけがここにいる。

うなだれるリズを大天狗は黙って見ている。この鬼の子の真価、いかなるものか。
見定めねばならぬ。

リズは戦っていた。
幼い心にそのような自覚など生ずることは無かったが、
生まれて初めて経験する、己との戦いだった。

目のくらむような絶望と孤独との対峙・・・。
心折れず生き延びるため、父との約束を果たし神子を救うため、
リズは幼いながら戦士であらねばならなかった。

あの(ひと)・・・龍神の神子。
どんな屈強の者でも怯むような怨霊の群れの直中に、たった一人飛び込んできた。
ぼくを助けるため。

そして「生きよ!」と父は言った。
鬼の一族の棟梁としてぼくに命じて、炎の中に消えた。
ぼくを助けるため。

打ちのめされた時にこそ、勇気が試される・・・・・厳しい鍛錬の中、父に繰り返し教わった。

今が・・・その時・・・なの?父さん・・・。
心がひりひり痛い。何も考えたくない。大声で泣いて、全部忘れてしまいたい!
悲しい、さびしい、でも誰も助けてくれない・・・。
この「今」が父さんの言っていた、勇気が試される時なの?

だったら・・・・・・・・・

父から受け継いだ勇気にかけて・・・
・・・ぼくは・・・こんなところで立ち止まっちゃいけない。

そうだ。少しだけ、ぼくは前に進んでいるから。
昨夜は何も分からなかった。
でも、今日は天狗にたくさんのことを教わった。
あの(ひと)が 龍神の神子なのだとわかった。

京の街が近いのは、幸いだったかもしれない。
京は神子に一番近い場所だ。
ここで分からなければ、京の街で神子について知っている人を探せばいい。

・・・鬼のぼくが行って・・・教えてもらえるのだろうか。
どうすればよいのか、見当もつかない。
脆く細い糸を手繰り寄せるような、かすかな望み。
でも、龍神の神子に会うために、これしか方法が無いのなら・・・

選ぶ道はただ一つ!

リズは顔を上げた。

「ぼくは、京へ行きます」
「お前は鬼だぞ。無事ではすまぬかもしれぬ。それでもか?」
「はい。たくさんのこと、教えてもらって、ありがとうございました」
大天狗を見上げるリズの眼は迷いなく、澄んでいる。

大天狗は感じていた。
このように幼くして、一途に神子を想い、守ろうとあがいている。
八葉として在ることを運命づけられた者。
泰継の最後の勤め、成就する時が来たのだろう。

確かめるまでもない・・・・だが、大天狗は知りたい、と思った。
「ならば、何も言わぬ。決意は貫くだけじゃ。だが、一つ訊きたい。
お前、どのようにしてこの庵に入った?」

「声が聞こえてきて・・・・何だか・・・・ここに呼ばれたような気がして。
この庵が光っていたから、不思議な場所だと・・・」
「・・・・・・そうか、やはりそうなのか」
「あの、ここに住んでいる人を知ってるんですか? 今、どこにいるか分かりますか?
  黙って入ってごめんなさいって、言わないと・・・・・」

「リズヴァーンよ・・・」
大天狗の声が、心なしか優しく、そして少し悲しげに聞こえる。
「ここの主はもういない。お前の生まれる前・・・・、
いや、お前の父すら生まれていなかった頃にこの地を去ったのじゃ。
ここに住んでいたのは稀代の陰陽師でのう、先代の龍神の神子に仕えた」

一瞬、リズには大天狗の言っていることの意味がよくわからなかった。
「神子・・・!! その人は今どこに?!・・・・あ・・・・もう、ずっと昔の・・・・・」
儚い希望の火花がたちまちの内についえた。

同時に、疑問もわき起こる。
「・・でも、どうして・・・・・? 誰も住んでいないのに、この家、壊れてなくて・・・きれいで」
「前の主がここを去る時に結界を施したのでな。
その後主のいないまま、この庵は新たな主が結界を解くのを
幾星霜、待ち続けていた・・・というわけじゃ」


リズは背中が冷たくなるような気がした。
「結界って・・・・、あの、よくわからないけど、ぼくが破ってしまったんですか?
ぼく、とても悪いことを・・・」
天狗は小さく笑った。この鬼の子、頭もよう回るやつだ。

「結界を解いた者にこの庵を譲る・・・これが先代の主の意志じゃ。お前は結界を解いた。
だからお前がこの庵の新たな主だ。しかと、伝えたぞ」
「ええっ?!」
リズは戸惑った。どんどん頭がこんがらがってくる。
幼い彼にとっては無理もない。やっと言葉を見つけて、口を開く。
「あの、でも、ぼくはここに住めません。すぐに京に行くし・・・ぼくの家は鬼の里にあって、
そこに帰らないといけないから・・・」

天狗は背の翼を広げ、ふわりと宙に舞い上がった。
「ここはお前の場所・・・。後はお前が決めるがよいぞ、リズヴァーン・・・幼き地の玄武よ」
瞬間、大きな風が吹き過ぎ、大天狗の姿は消えていた。

呆然として立ち尽くすリズだったが、しばらくしてゆっくりと草庵を振り返った。
そっと板壁に触れてみる。

ここはぼくの場所・・・? ぼくを待っていた・・・? ぼくはここを去らなければいけないのに?
でも・・・と、リズは少しほっとして考える。
もう日は暮れかけている。今夜一晩、ここで遠慮なく眠ることができる。

一刻も早くあの(ひと) のもとに戻らなければ、という気持ちは変わらない。
しかし、尋常ならざる力でこの地に飛ばされた。
ならば、すぐに帰ることは叶わない。

まず探すべきは、神子の居場所。
それが帰る道・・・、故郷の地に帰り着く術につながるはずだ。

小川の水を飲み、渇きをいやすと、耐え難いほどの空腹感が襲ってきた。
思えば、ずっと食べ物を口にしていない。
薄明かりのあるうちに木の実でも探そう。柿が見つかるといいなあ・・・。
立ち上がって歩き出す。

しかし・・・・・違和感。
変だ。

水辺の草の匂いたつ強い香。低木には柔らかな青い芽吹き。
振り仰いだ草庵の背後に、僅かに花びらを残す・・・・・桜・・・・・。

季節が・・・・違う!
里は秋の終わり。でもここは、春。
場所だけではない。時も・・・移動した?

桜の花びらが、ゆるやかな夕風に乗って静かに舞い散る。
空腹も忘れ、リズヴァーンは身じろぎもしなかった。
その目は桜の枝の向こう、茜から深い紫へと変わっていく遠い空を見ていた。


翌朝、まだ山に白い靄が立ちこめる中、リズは庵を出た。
目指すのは京の街。
はっきりと場所は分からないが、小川の流れを辿って下流に行けば、必ず人家や街に着く。

山を下りていくリズの小さい姿を、大天狗は楠の巨木から見送った。

大天狗の脳裏に、昔の光景がよぎる。

八葉の役目を終えた泰継が、この地を去る時のこと。

泰継は天狗に新たな地の玄武の到来を告げ、その者にのみ扉を開くよう庵に結界を張ると、
そのまま姿を消したのだった。

陰陽相和した泰継が施した、最後の渾身の術。
その結界の存在を知った者達が、この草庵に次々とやって来るようになった。
己が力に覚えのある陰陽師、修験者、法師達。
皆、泰継の結界を破ろうと試み、誰一人として果たせなかった。
泰継が住んでいた時には近づこうとさえしなかった当時の安倍家一門までが
選りすぐりの術者を集めて挑んだ。
が、草庵は板戸一枚音を立てるでもなく、ひっそりと静かなまま、
誰一人として近づくことかなわなかった。

・・・・それが、あの幼子を呼んだ。
あの子が結界の存在にすら気づかぬほどに、優しく迎え入れた。

小さなリズヴァーン・・・・・数百年にわたり京の街に仇なし、龍神の神子や八葉達と
死闘を繰り広げてきた鬼の一族の子供。
それが・・・地の玄武となるべく、運命づけられているというのか?
平安の世が、大きく変わろうとしているのだろうか。

幼いながら、山に慣れた者の足取りで、リズの姿は見る間に小さくなっていく。

あの鬼の子、まだ人と出会ったことがないのだろう。
人の世に今なお根強く巣食う鬼の一族への恐れと憎しみに、
あの幼子は立ち向かうことができようか。

「泰継よ・・・」
天狗は心の中で呟いた。
「あの子がまこと地の玄武であるのなら・・・・・・酷い宿命(さだめ)よのう」




第1章 流離

(1)遠き道の始まり (3)夜話 (4)捕らわれて (5)京への雪道 (6)一条戻橋

[果て遠き道・目次(前書き)]

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