「神子、少し回り道になるが、寄りたいところがある。よいか?」
「はい、先生と一緒なら、どこへでも!」
山道を下りきってからも、望美はリズの腕に手を絡ませたままだ。
「どこへ・・・とは聞かないのか?」
「着いてからのお楽しみで、いいです。それより、お話しの続きが気になって・・・。
瞬間移動はうまくできたんですか?」
真っ直ぐな瞳でリズを見上げる望美の視線が眩しい。
この澄んだ眼を、あの時の自分は忘れかけていた。
人間への憎しみが、幼い心を蝕みかけていたのだ。
自分を救ってくれた白龍の神子・・・望美のあたたかさすら、遠いものとして。
「鬼の気に助けられ、ひたすら遠くまで飛んだ先は、京にある鬼の里だった」
「じゃあ、京で仲間の人達に会えたんですね?」
「・・・そこはかつて鬼が棲んだ場所。だがその時には、すでに滅びた地となっていた」
「・・・・・・先生」
「しかし、そこで私は・・・」
リズは、咲き乱れる花の中にいた。夜の闇の向こうまで花の原は続いている。
「ここは・・・・・?」
逃げ切れた、という安堵感すら浮かばない。
気を使い果たし、リズはもう、意識を保っていることができなくなっていた。
その時、
「お館様・・・?!」
声と同時にリズの目の前に現れたのは、美しい鬼の女だった。
「お前は・・・・・・・?」
リズを見て女が口にしたのは父の名。
「なぜ・・・父さんを・・・?」
思いがけぬ所で聞く父の名前。
だが、すでに視界すら定かではない。問いを言葉にできぬまま、リズは花の中に倒れた。
「しっかりおし!」
女の声が朧な意識の向こうから聞こえる。
リズはそっと抱きかかえられるのを感じた。
「ずいぶん酷くやられたもんだ。京のやつらに見つかったんだね。
今、手当てしてやるよ」
言葉はきついが、女の声は優しかった。
女に運ばれながら、そのままリズは意識を失った。
三昼夜の間、リズは熱にうなされながら、生死の境をさまよった。
火傷の痕が化膿し、体中の傷が腫れあがっている。
「このまま逝くんじゃないよ。がんばりな!」
女の手当がなかったら、リズは2度と目覚めなかったかもしれない。
ふと、唇に冷たいものを感じて、リズはうっすらと目を開く。
女がリズに水を飲ませようとしているところだった。
「やっとお目覚めだね」
「・・・あ・・・」
「無理にしゃべらなくていいよ。水、一人で飲めるかい?」
こくんとうなずくと、リズは椀の水を飲み干した。
女はうれしそうにリズを見ながら、慣れた手つきで鬼の薬を調合し、
傷の手当てをしてくれる。
リズの寝かされているのは小さな部屋。すみずみまで手入れが行き届いている。
蔀戸が開けられていて、外が見えた。
明るい春の野。
ここはどこなの?
京の街?
京にはもう鬼はいないと思っていたのに?
この人は誰?
「驚いているのかい?」
傷に当てた布を取り替えながら女は言った。
「でも、驚いたのはこっちさ。いきなりすごい鬼の気がこの里に現れたんだ。
てっきり、お館様が・・・」
女の顔が曇る。が、すぐに何かを振り払うように、言葉を続けた。
「あたしも鈍ったもんだね。こんなおちびさんをお館様と間違えるなんてさ」
女の言っていることは、よくわからない。リズは黙って女を見ている。
その視線に気づき、女は言った。
「ああ、言い忘れてた。私はシリン。お前は・・・」
再びシリンは父の名を口にした。
「でも、そんなはずはないんだ。年恰好はお前にそっくりだけど、
あの子と会ったのは、もう5年以上も前のことなんだから」
ぼくと、そっくりな父さん?!子供の時の父さん?!
本当にこの人が会ったのが父さんだったとしたら・・・
リズは震えた。
では、もしかしてここは・・・・・
自分はとんでもないところに・・・・・
「神子、こちらへ・・・」
リズが望美の肩を引き寄せた。
「え・・・?」
人の行き交う、川沿いの道の真ん中だ。
ただでさえ、長身で金髪のリズは目立つ。
道すがら、そこかしこで囁き声が耳に入っていた。
「鬼・・・」
「なぜこんな所に」
「あの女の子、たぶらかされたんだね・・・」
京の街をリズと歩いていると、いつものことではあった。
今まで気にも留めなかった望美だが、リズの話を聞いた後だけに、
いらだちが募る。
が、当のリズが表情ひとつ変えるでもなく、超然としているのだ。
望美もそれに従うしかない。
「まあ、先生が表情を変えないのはいつものことだけど・・・でも」
リズに肩を抱き寄せられたまま歩きながら、望美は思う。
「いいのかな、こんなに目立っちゃって?」
柳の枝が影を落とす橋にさしかかる。
「神子、飛ぶぞ」
肩を抱いたリズの腕に力が入った。
と、めくるめく一瞬の後・・・
二人は雪の原にいた。
青くまばゆい空の下、人の影は無い。
四方を山に囲まれた、ひっそりと美しい場所だ。
「先生・・・もしかして、ここは・・・」
望美はリズを見上げた。
リズは微かに微笑んで、無言でうなずく。
「シリンが去った後、私に託された地だ」
望美は雪の原に足を踏み出し、四方を見渡した。
「きれいな所・・・。先生が初めてここに来た時は、一面に花が咲いていたんですね」
「そうだ。ここは鬼の一族のまほろなる庭。
かつて一族は、人にはない強大な力を誇り、この地に満ち栄えていたという」
「でも、先生は一族の人達に会うことは・・・」
望美は雪の原の彼方を見やっている。
「そうだ。栄華の時はすでに去り、幼い日の私がここに至った時には、
シリンという女が一人いるのみだった」
「・・・・・美しいけれど、淋しいところ・・・。だけど」
望美は振り向いた。
「子供の時の可愛い先生がここにいたんだって思うと、なんだか
なつかしいような、いとおしいような、不思議な気持ちです。
あっ!・・・可愛い先生、なんて言ってごめんなさい」
珍しくリズは口ごもった。
「・・・神子がそのように思うのなら、かまわない・・・」
照れて・・いるのだろうか。
「神子には、滅びた里は似合わぬと思ったが・・・そのようにお前は感じてくれるのだな」
「先生は、お話しの続きをするために、私を連れてきてくれたんですか?」
「それもある」
「それもって、他に何か・・・」
望美の問いには答えず、リズは話し始めた。
「傷が癒えるまで、私はこの地にいた。その間にシリンからは多くのことを教えてもらった。
鬼と人との闘いのこと、龍神のこと、神子のこと・・・。
そして・・・、シリンが会ったのは確かに私の父であった」
リズが少しの間起きていられるようになったある日のこと、
外から戻ってきたシリンが、荷物を置きながら唐突に切り出した。
「おちびさん、具合もよくなってきたんだし、そろそろ話してくれてもいいんじゃないかい?」
「・・・っ!ぼくは・・・」
「あはは、ごめんよ、リズ坊だったね」
「ぼくは!」
「リズヴァーン、正直にお言い。あんたが首に掛けてるその忌々しいモノは何だい?」
「・・・・・・・」
「熱にうなされてた時には、後生大事につかんで離そうともしなかったのに、
今は触ろうともしない、それのことだよ」
「・・・・きっと、おばさ・・・」
シリンのひと睨み。
「シリンさんは、信じないと・・・思う」
「お前、龍神の神子の手下なのかい?」
「え?! シリンさんは神子のこと、知っているの?どこにいるの?教え・・・」
リズの言葉は途切れた。
うつむくリズにかまわず、シリンは続ける。
「お前、神子に会いたいのかい?」
「・・・・・神子は、京の人間達の味方・・・なんでしょう?
ぼくたちとは敵同士、なんでしょう?・・・ぼくは」
「やれやれ・・・」
シリンは肩をすくめた。
「京のヤツらに痛めつけられて、いじけちまったのかい?
私が知りたいのはね、その白龍の鱗を、なぜあんたが持ってるのかってことなんだよ」
「知っているの、これ・・・・?」
驚いているリズに、噛んで含めるようにシリンは言った。
「そんな凄い気を放つモノなんて、そうそうあるもんじゃない。
私だってそいつに触るなんてまっぴらさ。それを、まだ小さいお前が・・・」
「ぼくの村は怨霊の群に襲われたんだ」
リズは話してみることにした。
「村のみんなも、父さんも、怨霊と戦って・・・それで・・・」
あの夜の光景が蘇る。
話の間、シリンはリズの手をしっかりと握ってくれていた。
「そうか、そんなことが・・・。あんたもつらかったんだね。少し横におなり」
身体を横たえると、楽になった。
リズは懸命に続ける。
「ぼくだけが、助かった。怨霊に囲まれた時、龍神の神子が来て、助けてくれたから」
シリンは黙って聞いている。
「白龍の鱗は、神子が持っていて、これは何だろうって、思ったんだ。
それで、ぼくが触ったら、急に何か分からないことが起きて、
いつのまにか北山という所に来ていた・・・。そして・・・」
リズは大きく息を吸った。
「そして、ぼくの父さんの名は・・・・・・・」
沈黙が下りた。
シリンは少し首をかしげながら、リズの胸の白龍の逆鱗を見ている。
やっぱり・・・信じてはもらえない・・・
故郷は手の届かぬ彼方
人間は敵
偶然巡り会った同胞も・・・・遠い
・・・何もかも・・・・ぼくから遠い・・・・・
あの
初めから・・・遠いひとだったのに
しかし、次にシリンの放った一言に、リズは驚愕した。
「そうかいリズ、あんたも時を渡ったんだね」
驚いて言葉の出ないリズに、シリンは自分の過去を語ってくれた。
鬼の一族の興亡、シリンがお館様と呼ぶ、誇り高き鬼の首領、龍神の神子と八葉、
陰陽の気を司る黒白の龍神・・・。
シリンのいた世界は150年も昔。そこでの闘いの最中、龍神の巨大な力に飲み込まれ、
お館様もろともに100年の時を飛ばされた。
そこでも闘いは繰り広げられ、今一度、神子と八葉に敗れた。
「あれから、この京に鬼の一族はいない。私だけが残ってしまった・・・。
もう、50年も昔のことになるなんて・・・・早いものさ」
シリンはリズに向かって語っていたが、その眼は遠い時の彼方を見ていた。
「お館様が滅して・・・その後・・・私は旅に出た。仲間を捜して、東国に下り、
西国を巡ったけれど、見つけることはできなかった。
5年ばかり前、やっとお前の里に辿りついたんだよ。
後にも先にも、鬼の一族に出会ったのはそれっきりさ。
私にはもう、長い旅に出る時間も無いしね・・・」
リズはおずおずと聞く。
「あの・・・シリンさんは、おばあさんに見えないですけど・・・」
とたんにシリンは笑い出した。
「しっかりした坊やだと感心してたけど、あははは、やっぱり子供だねえ、あはははは」
リズはきょとんとしている。
シリンは真顔になった。
「ここはお館様の知ろしめした一族の地。お館様の心は今でもここにあるんだ。
老いた姿をさらすなんて、できっこないだろう」
「は・・・はい・・・?」
「私にはもう、闘う力は残っていない。神子との闘いで使い果たしてしまったからね。
でも、残った鬼の力の全てを、この姿に注ぎこんでいるのさ」
そう言うとシリンは婉然と微笑んだ。
シリンの女心は、リズにとって想像の埒外ではあったが、
「お館様」に寄せる想いの深さだけは分かるような気がした。
「何度も、鬼と人間、龍神の神子は闘ったんだね」
「そうさ、この京の街が造られてから、繰り返し何度も」
「なぜそんなに憎み合っているの?それなのになぜ、神子はぼくを助けてくれたんだろう?」
シリンは苦笑しながら、膝を立てて座り直した。
「あんたは神子のことが気なって仕方がないんだね」
「・・・・・」
「憎しみの理由なんて、わからないさ。闘う理由だって、考えもしなかった。
お館様が望むから、私は京の滅びを願い、力の限りに闘った。それだけだよ」
「それだけ・・・」
「ああ。でも、龍神の神子はいつもおかしな事を言っていたよ。闘いを止めようってさ」
「え?」
「八葉を従え、五行の力を操り、龍神と心を通わせる強い力を持っているくせに、
話し合おうだの、闘いを止めようだの、おかしいったらなかった」
「じゃあ神子は、鬼を憎んでないの? 本当に、そうなの?」
「やれやれ、あんたの神子殿なんて、ずっと先に現れるんだろう?
そんなこと、分かるわけ無いじゃないか。でも、私の会った二人の神子は、
どっちもお人好しな小娘だった。この前の神子なんて・・・」
この前の神子・・・天狗の言っていた、先代の地の玄武が仕えた神子のこと・・・?
「闘いに敗れた私に、自分の世界に来いってさ」
「自分の世界って?」
「何も知らないんだね。龍神の神子は、この世界の人間じゃないのさ」
「えっ?それなら神子も、時を越えてきたの?」
「いや、違う。この世界の時とは繋がっていない、まるっきり別の世界があるんだよ」
「そこから、そんなに遠いところから・・・?」
「確かさ。一人目の神子は、お館様が呼び寄せたんだ。時空を越えて、龍の宝玉の力でね」
「じゃあ、神子はこの世界に来たくて来たんじゃないの?
お父さんやお母さんと無理に離されたの?」
シリンはまた笑い出した。
「本当にお前って子は・・・。そんな風に考えるのかい?
優しすぎるよ。そんなんじゃ、生きていけない」
しかし、リズは無言だった。
外に目をやる。
春の陽光がまぶしい。
そうだ、神子の優しい笑顔は、あんなふうに、明るくて、まぶしかった。
リズの心に渦巻いていた迷いの霧が、光に照らされて消えてゆく。
神子もまた、自分のあるべき場所から切り離され、この地に導かれ来た者と知った。
そこでなお、優しく、強く、温かであり続けた。
ぼくも、強くありたい。
いつか、この時を辿れば、神子に行き着く。
その時までに、ぼくは強くなる!!
その時まであと・・・
?????
「あの、ぼくは何年経ったら、神子に会えるんですか?」
シリンは笑い転げた。
山桜が散り敷き、薄緑の葉が青々と茂り始めた頃、
リズはシリンに別れを告げた。
「ありがとうございました」
「礼なんかいいさ。それより、一つだけ、頼まれてくれないかい?」
「はい!」
「ふふ、いい返事だね。頼み事っていうのはね、私がこの里からいなくなったら・・・」
「シリンさん、どういうことですか?!」
「お館様にまた会える日も近いってことさ。今からその日が楽しみだよ。
でも、そうなったらこの里は荒れ放題になってしまう。そんなのは我慢できない。
だから、時々ここにきて、里を見守ってやってくれないかい?」
「・・・はい、シリンさん。でもぼく、シリンさんがここにずっといる方がいいです」
シリンは優しく言った。
「ありがとうよ、リズ。あんたは本当に優しい子だ。
お腹が空いてたまらなくなったら、ここにおいで。
あんたは女の武器が使えないから、食べ物一つでも、何かと大変だろう」
「女の人の武器?食べ物に武器・・・ですか?」
「ははは・・・。さあ、早くお行き。
これ以上あんたのことが可愛くなったら
手放せなくなっちまうよ」
シリンの明るい笑い声に送られて、リズは京の街に出た。
今度は油断なく身を隠しながら、北に向かう。
北山・・・。
リズは最初の地に戻ってきた。
山の気がリズを包む。
運命というものがあるのなら、ぼくはそれに向き合おう。
細い流れに沿いながら、リズは山道を登っていく。
見たことのある小さな窪地。
清らかな小川。
ひっそりと建つ草庵。
その庵は今再び柔らかな光を放ち、リズを迎え入れた。
「シリンさん、という人のおかげで、先生は助かったんですね」
「うむ。たとえこの地まで飛ぶことができたとて、気力も体力も使い果たした幼子の私は、
倒れたまま、二度と目覚めることはできなかっただろう。
だから、その後も私は春には必ずここを訪れた。だが・・・」
「・・・・・もしかして、シリンさん・・・」
望美の声が震えている。
「嘆くな、神子。シリンは誰に悲しまれることも、望んではいなかった。
ただ、静かに姿を消したのだ。身の回りの物は何一つ残さず、きれいに片づけて」
「シリンさんは・・・」
「ああ、そうだな。お館様、のもとへ行ったのだろう・・・・」
「シリンさんとの約束があるから、それで先生は、ここに来たんですね」
「・・・・・」
「先生?」
「・・・・・神子、そろそろ戻ろう。日が傾かぬうちに京邸に着いた方がよい」
「そうですね、心配させたら悪いし。あの、先生・・・」
「どうした、神子?」
「春になったら、またここに連れてきてもらえますか?一面のお花畑、私も見てみたいです」
「望むままに。では、行こうか」
リズは踵を返した。望美は慌てて後を追う。
雪の原を歩き始めたはずが、いつの間にか、先ほどの橋の上にいる。
望美は驚いて足を止めた。
「あれ?瞬間移動しましたか?」
「いや、今度は結界を通り抜けただけだ。
以前神子もこのようにして、鬼の里に入ったのではなかったか?」
「そういえば・・・」
あの時・・・怨霊に襲われる鬼の里に入って・・・そして・・・。
二人は歩き出した。
のどかな冬の午後。
行き交う人々の表情も、どこかのんびりとして見える。
しかし・・・
やはり、尾けられている。
鞍馬の山を下り、京の街に入ってからずっとだ。
一条戻り橋で我らを見失って、慌てたのだろうか。尾行の数が増えた。
京の街の辻々にも、それらしき者達が配されている。
何かが・・・、動いている。
見慣れた櫛笥小路の邸。
「朔〜!!」
望美が梶原邸に駆け込んでいく。
リズが門をくぐるのと同時に、尾行者の気配は消えた。
「邸内にもいる・・・ということか」
「いらっしゃ〜い。よく来てくれたね♪ 遅かったんで心配しちゃったよ」
「ふふ、兄上は心配しすぎよ」
「うん、先生が一緒なんだもん。心配いらないよ」
「さあ、リズ先生も早く上がって下さい」
景時が門まで出てくる。
景時はいつものように、笑顔を崩さない。
が、その眼がすばやく邸の外を窺ったのを、リズは見逃さなかった。
一瞬かいま見せた、鋭い景時の眼とリズの視線が、ぶつかり合う。
第1章 流離
(1)遠き道の始まり
(2)地の玄武
(3)夜話
(4)捕らわれて
(5)京への雪道
第2章 遠雷