京の街。
その大きさと賑わいにリズは目を見張った。
生まれてこのかた鬼の里のある山から下りたことはない。
それが突然、国中で一番の殷賑を極める街に来たのだ。
リズが驚いたのも無理はない。
見渡す限りに建ち並ぶ家々も、多くの人が行き交う様も、初めて目にするものばかりだ。
しかし、驚き、少し呆然としながらもリズは身を隠すことを忘れなかった。
里の山ならば隅々まで知っている。が、初めての地では慎重にならなければならない。
ましてや、ここは大きな街の中。このような場所での隠密な動き方がリズには分からない。
それなのにこんな昼間から街中にいる。
リズもやはり幼い子供、わき上がる好奇心にはどうしても勝てなかったのだ。
夜まで待つ方がよかったのかもしれない。
引き返そうとした時だった。
「うぇ〜ん・・・」
身を隠した路地の奥から子供の泣き声がした。
振り返るとリズより少し年下の子供。
目が合うと、その子はリズの方へ走ってきた。
が、危ない!と思う間もなく、転んでしまう。
「大丈夫? 痛くない?」
その子の傍らに膝をつき、声をかけた時・・・。
「ひいいいいっ!! 鬼!!」
女の悲鳴が響き渡った。
「誰か来ておくれ!! 子供が鬼に殺される!!」
「ち、違います、ぼくは・・・」
「坊やをお放し! この鬼め!!」
事情を話す暇など無かった。
女は棒きれを拾うと、狂ったように振り回しながらリズに向かってきた。
これでは話を聞いてくれそうにない。
振り下ろされた棒の下をかいくぐり、そのままリズは立ち去ろうとした。
が、
「どうした?!」
「鬼だって?」
「本当なの?」
「なんと不吉な」
「子供は無事か?」
街の人々が集まってきた。
路地から出たリズは、あっという間に取り囲まれてしまった。
一瞬たじろいだが、まだたいした人垣ではない。隙をついて抜け出せる。
どこから逃げれば・・・。
その時、石つぶてが背中に当たった。
それが合図だったかのように、人々は一斉にリズめがけて石を投げ始めた。
「やめてください! ぼく何もしてません!!」
必死に叫んだが耳を貸す者はいなかった。
背筋に冷たいものが走る。
人々の目にあるのはむき出しの憎悪。
「黙れ!!また京の街を穢すつもりか!」
「子供だからといって騙されるとでも思っているのか!」
「くそっ!身軽なヤツだ」
石つぶてを浴びながらも、リズは頭をかばい、致命的な直撃だけは避けている。
それに業を煮やした男がリズの足元をはらった。
「くっ・・・!」
男は、バランスを崩したリズの腹を蹴り上げる。
「よしっ!」
「今なら!!」
倒れたリズに駆け寄り、人々が容赦なく足蹴にする。
誰かが言った。
「役人に突き出した方がいいんじゃないか?」
「そうか、鬼はこいつだけとは限らないな」
「調べてもらった方がいいよ」
人々がリズから離れたその時、激しく争う声が人垣に割って入った。
「やめろ!ばあさま!!」
「放せ!!鬼は父のカタキじゃ!!」
髪を振り乱した年寄りが刃物をかまえ、リズの前によろけ出てきた。
地べたに横たわったまま、うっすらと目を開けたリズは、
その年寄りの目に宿る狂気に近い憎しみを見た。
「いくら子供でも相手は鬼だ! 危ないからやめてくれ!!」
「ええい、放せと言うておろうが!!鬼のせいでどれだけわしらが・・・!!」
止める男ともみ合う内に年寄りの手から刃物が落ちた。
一瞬、人々の注意が逸れる。
今だ!!
リズは地面を蹴って飛び出した。身を低くして人垣を縫うように駆け抜ける。
怨霊の群れから脱出した時のことが頭の片隅をよぎったが、無理矢理それを追い払う。
土地勘のない街中、今は逃げることに集中するんだ!!
リズを追う大勢の足音が背後に聞こえる。
石の当たった傷が痛い。蹴られた身体中が痛い。
でも、心が一番痛い。
・・・・・・これが・・・天狗の言っていたこと・・・?鬼に向けられる・・・・・憎しみ。
里のみんなは優しかった。時に厳しく接することはあっても、皆リズを慈しんでくれた。
自分に突き刺さる悪意・・・・・リズの知らないものだった。
足音はどんどん近づいてくる。
だめだ!! 逃げ道を探せ! 余計なことは考えるな!!
・・・・・・あの
何を考えてるんだ、ぼくは! 逃げ込める場所を探せ!
その時
「おい、小僧、こっちだ」
荷物を積み上げだ荷車の陰から髭面の男が手招きしている。
足音はすぐそこの角を曲がってくるところ。このままでは見つかってしまう!
誰も信じられないリズだったが、反射的に荷車の後ろに飛び込んだ。
ほとんど同時に男達が角から現れる。
「くそっ!見失ったか」
「何てこった!うちの子はまだ小さいんだ。鬼に怯えて暮らすのはごめんだぞ!」
「分かれて探そう。あれだけ痛めつけたんだ。遠くへは行けまい」
「そうだな。じゃあ、俺はこっちへ行ってみる」
「なら、俺はあっちだ」
「ん?」
リズを追ってきた男の一人が荷車に近づいてきた。
人を信じたのが間違いだったか?リズの鼓動が早くなる。
「鬼を見なかったか?この前を通ったはずだが」
「ああ、見たとも。鬼といってもちっこいガキだろ?」
やはり、騙されたか。リズは音もなく荷車の下に滑り込み、様子をうかがう。
車輪止めが外せれば、荷を崩せる。その隙に・・・。
「で、どっちへ行った? おい!みんな!この人が鬼を見たそうだ」
「今時鬼とは、お前さん達もご苦労だな。ヤツならそこの道を曲がっていった」
「おお、助かるぞ。礼を言う」
「四条か。わざわざ賑やかな方へ行くとは、やはり子供だな」
「いや、何か企んでいるのかもしれん。急ごう!」
「役人には知らせてあるんだろう?」
「ああ、武士団にも、一応検非違使にもな」
「では行こう!」
男達は走り去った。
その後ろ姿を見送りながら、髭面が言った。
「鬼の小僧、人の荷車を倒そうとしてやがったな」
「ご、ごめんなさい」
車輪の間から這い出したリズは謝った。疑って悪かったと思う。
京には、鬼に敵意を持たない人もいるのかもしれない。
「ずいぶんしたたかな子供だな、お前は」
「え?」
「とぼけるんじゃねーよ。荷物ぶちまけて、その隙に逃げようとしたことといい、
さっきの事といい」
「さっきのって?」
「よってたかって痛めつけられてただろうが。
俺は見てたんだがな、やられっぱなしに見せかけて・・・」
髭面の目が細くなった。
「なあ、俺ん所へ来ないか?命も助けてやったんだし、ついでにあったかいメシも食わせてやるぜ」
心が激しく警鐘を鳴らす。
この男は危険だ!! 優しさを装ってぼくを助けたことが、もう罠だった。
「そのかわりに・・・・、ぼくは何をするんですか?」
視線を動かしてはいけない。逃げる気配を見せてはいけない。
「察しがいいな、小僧。俺が見込んだだけのことはある。・・・だが」
髭面の動きの方が速かった。
もう一度答えを促すと踏んだリズが甘かった。
海千山千の悪党は相手の意志など確認しない。直感で動く。
リズは悪事の誘いには乗らないと、男にはわかった。
リズの胸ぐらを掴むと、力任せに押さえつける。
一瞬、息が詰まる。
その間に慣れた手つきでリズの手足を縛り上げると、荷物の中の木箱に押し込んだ。
「まあ、お前には他にも使い道があるからな・・・」
荷車がごとりと動き出す。
日はまだ高いというのに、箱の中は暗闇だった。
その闇の中、リズは目を見開いていた。
自分の行く末は、この闇よりも深く暗いものなのかもしれない、と思いながら。
第1章 流離
(1)遠き道の始まり
(2)地の玄武
(3)夜話
(5)京への雪道
(6)一条戻橋