焼け落ちた橋の向こうに、静かな山野の風景が陽炎の如く立ち現れた。
怨霊と炎に巻かれた己がうつし世を透かして見る、別世界。
朧なる幻か・・・・・・。
目にした人々は一様にそう思い、我と我が目を疑った。
一つの場に、二つの世界。
未だかつて目にしたことのない不可思議。
しかしそれは、この場所と重なり合う、もう一つのうつし世。
橋を通り、そこへと至る道が続いている。
道は谷間を抜け、彼方には野の広がり。
人々は驚き、ざわめいた。
不安げに後ずさりする者もいたが、今は逃げる場所とて無い。
「鬼、これはお前の妖かしの術か?」
橋の前に立つリズのもとへ、他の武士もやって来た。
「妖かしではない。見えているのは、この橋から続く、我が里だ」
武士達は顔を見合わせた。
中には、鳥辺野で剣を交わした検非違使も混じっている。
あの時は、リズに救われる結果となったためであろう。
頭から否定することはしない。
しかし、彼らの理解を超えた出来事であることも確か。
最前の武士が問うた。
「ここに、街の者達を逃がすというのか」
「そうだ」
「鬼の里に・・・か?」
「先程言った通り」
「・・・・・中には、鬼がいるのか」
「鬼も人も、誰もいない。ここは隠された場所。ただ広野があるばかりだ」
「信じて下さい!私、里に入ったことがあります。危険なことは何もありません」
望美は必死に人々に向かって訴えた。
けれど、リズと望美と落ちた橋の上にかかる朧な道とを順に見比べながら、
誰一人として動く者はいない。
「もう、時間がありません!早くみんな、逃げて下さい!!」
それでも皆、怯えたように身じろぎもしない。
・・・・・・と、
「我ら検非違使が、先頭としんがりを勤める!」
武士の一人が大音声で呼ばわった。
仲間の一人とうなずき合うと、大股で橋の上の道に踏み出す。
「おお・・・」
人々がどよめいた。
二人は川に落ちることなく歩いていく。
その姿は景色の中に霞んでいくように見えたが、すぐに引き返してきた。
橋の上で、再度皆を呼ぶ。
「この中は、美しき野が広がるばかりぞ!疾くついて来られよ!!」
つい・・・と、弟の手を引いた女の子が前に出た。
望美とリズに向かい、こくんと頭を下げると、橋に向かう。
「急げ!!」
呆然としていた人々は、リズの声に、はっと我に返った。
堰を切ったように、橋の入り口に向かう。
ほどなくして、全ての街人が里に入った。
それを見届けた武士の一人が、リズに向き直る。
リズと共に、影の世界で仲間の救出に当たった者。
リズの言葉を確かめるため、真っ先に光の中に入り、
一度は外界に出ながらも、仲間を助けるため、再び影の中に戻った者だ。
「鬼・・・感謝する」
「礼は要らぬ」
「あの時と同じか。再びお前に助けられた」
「すぐに怨霊が来る。この里の入り口、守りきれるか」
「人々を守るのが我らの勤め。しかしお前は、どこへ行くのだ」
「間もなく神泉苑に、巨大な怨霊が現れる。私の戦いの場は、そこだ」
「神泉苑・・・怨霊・・・集まる・・・とは?」
「・・・まさかそれは?!」
京に住まう武士達は、その言葉への反応も早かった。
「お前はそれと戦うと・・・?」
「なぜ、それが現れると知っているのだ・・・?」
矢継ぎ早に問うてくる。
「時は至った。何をもってしても、もう止めることはできぬ。ただ、倒すのみ」
「む、むう・・・」
「なんということだ」
「この事態、誰も掴んではいなかったということか・・・」
しかし一時動揺した武士達だったが、怯むことはなかった。
「我らにできることは、腹をくくってこの場を戦い抜くことか」
「武士の本懐を貫くだけだ」
先の武士がいずまいを正し、一歩進み出ると、己の名を名乗った。
「・・・武運を祈る」
リズも礼に習い、名乗る。
「私の名は、リズヴァーン。後を託すぞ」
「鬼の名は、不思議な響きがするものだな。何かの意が、込められているのか?」
リズの青い目が、武士に注がれる。
「リズヴァーンとは、楽園の門を、守る者だ」
静かな声。
「楽園の門・・・」
口の中でかみしめるように繰り返した武士は、絶句した。
「では・・・一族の楽園を・・・我らに開いたというのか・・・」
「・・・・・・そうだ」
「そして、お前を捕らえようとした我らに、その門を託すと・・・」
望美は、胸が詰まるような思いを感じた。
先生の心を、わかってくれる人がいた。
以前は敵対していたけれど、それでもわかりあえた・・・。
「ありがとうございます」
望美は思わず口に出していた。
一瞬、武士達が怪訝な顔になる。
望美は、彼らに向き直り、一人一人の顔を見回した。
先生が後を託した人達。先生を受け入れた人達だ。
最後の戦いを前にした今、この人達にはちゃんと伝えた方がいい。
凛として、名乗る。
「私は春日望美。白龍の神子です。皆さんも、ご武運を」
望美はそう言って頭を下げると、くるりと踵を返し、歩き始めたリズの後を追う。
武士達はその後ろ姿を見送った。
その心の中には、様々なものが浮かんでは消える。
では、さっき見た白い光は、神子の封印というものだったか。
・・・この娘が、源氏の神子。龍神の加護を受けた存在・・・。
神子が共に、戦うというのか。
そして武士達は一様に、この戦いの意味を悟った。
瞬間移動の直前、二人の背に武士達の声が届く。
「必ず、勝つのだぞ!」
「我らは、ここにてお前達と共に戦う!」
「この里、死守してみせるぞ!リズヴァーン!」
帰りの道程は速い。
距離は掴んでいる。一気に瞬間移動で怨霊の群を抜けた。
「こちらの道を行こう」
怨霊が塞ぐ小路を避け、重苦しく垂れ込めた黒雲の下を急ぐ。
リズは黙したまま、何も言わない。
望美は、その顔を見上げた。
前を見据える厳しい眼差し、固く引き結んだ口元は、
激しい感情を抑えている印であると、望美は知っている。
戦いを前に心を乱してはいけないと、誰より分かっているのはリズ自身。
気を整えるため、意識してゆっくりと呼吸をしているのが分かる。
先生がしたことは、こんなに心が乱れるほど・・・大変なことだったんだ。
改めて、望美は思う。
あの里は、鞍馬から京に下りてきた日に、リズに連れられて入った場所。
幼い日のリズがシリンに出会い、命を救われた場所だ。
けれど、それだけではない。
鬼の一族と京の人々との因縁の場所でもあるのだ。
あの里には、長い年月に渡り鬼の一族が重ねてきた思いがこめられている。
リズはそれを・・・人のために開いた。
他ならぬ、一族と敵対してきた京の人々に。
怨霊の炎を見た時、先生はすぐに行こうとした。
その時にはもう、決めていたのだろうか・・・。
しかし決断の早さは、容易さ、軽さを意味するものではない。
そこに至る思いと、その重さとを、リズと分かち合いたいと、望美は思う。
できぬとわかっていても、そうしたいと思う。
静かな小路で、望美は立ち止まった。
「神子?」
振り向いたリズの手を、そっと握る。
リズの青い目が、どうしたのだ?と問うている。
何と言えばいいのだろう。
ありがとう・・・でも、よかった・・・でもない。
「弟子がこんな風に言うのは、生意気かもしれませんけど・・・」
望美は口ごもった。
「思う通りに、言ってみなさい」
リズが望美の手をしっかりと握り返す。
望美はリズを見上げた。
「先生は・・・私の誇りです」
リズの手に、一瞬、痛いほどの力がこもる。
「あ!ご、ごめんなさい・・・私・・・偉そうに・・・」
しかしリズは、ゆっくりと言った。
「神子は・・・・・正しかったと思うのだな」
リズが問うたのは、鬼の里を開いたことだと、望美には分かる。
望美はリズの視線を受け止めた。
「正しいかどうかは・・・わかりません。でも、みんなの命が助かりました。
先生には・・・とても辛いことなのに、こんな言い方しかできなくて・・・すみません。
でも、先生は立派だったと思います」
リズはかすかに微笑む。
「お前のその、のびやかな心、優しい気持ちこそが尊い。
私は・・・迷い、戸惑い、わからぬことばかりだ」
なぜ、このようなことを言うのだろう。
もしかして・・・先生の心には・・・もっと別のことが・・・。
しかし、望美がその疑問を口に出す前に、リズが言った。
「神子の気持ちを乱してしまったようだな。すまぬ」
「い、いいえ、私なら大丈夫です」
慌てて望美は答える。
リズは望美から視線を外し、ふと遠くを見た。
「神子、気づいていたか?あの老人のことだが」
言われてみて、はっと思い当たる。
リズと老人は、お互いの顔を見て驚いていた。
「お知り合い・・・だったんですか」
「あの者は、幼き日の私を捕らえ、売ろうとした男、
逃げる私に向かって剣を投げた男だ」
「ええっ?!」
「怨霊の二度目の刃を防いでから、気づいた」
「先生・・・」
リズの話を聞いて、極悪人・・・と思っていた。
しかし、街人や検非違使の話は違っていた。
数十年の間に、あの老人は変わったのだろうか。
幼い子を容赦なく手にかける者から、幼い子をかばい、我が身すら投げ出す者へと。
それを知る者は、たぶんあの老人自身だけなのだろう。
けれど、確かに分かることもある。
望美はにっこり笑って言った。
「でも先生は、あのおじいさんの正体を知っていたとしても、
きっと助けたと思います。私、そう信じています」
「神子・・・」
「私だけじゃないですよ。あの子達も、検非違使の人達も、先生のことを信じてくれました。
私、とてもそれが嬉しいな・・・って」
・・・・・・・お前は、いつもそのように考える。
我がことのように人の心を思い、その幸を願う。
その美しい魂こそが、神子なのだろう。
「一番嬉しかったのは、検非違使の人達が、一緒に戦うと言ってくれたことです。
厳しい戦いになるでしょうけれど、絶対に、負けられないですね」
・・・・・・・お前という運命に導かれ、私はこの日まで歩むことができた。
この先の戦いで、お前は何を選ぶのだろうか。
「先生・・・?」
・・・・・・・お前が心のままに在るように。
その眩く自由なお前の心を守ることこそが、私の使命。
望美はリズの頬に手を当てた。
「私はここにいます。私を見て下さい」
・・・・・・・私が全てを明かしたなら、お前は私の心を察してしまう。
それはお前の決断を曇らせる。
「お願いです。そんな淋しい顔をしないで・・・」
・・・・・・・お前は、私の思うことなど全て、分かってしまうのだから。
望美は少し背伸びをして、顔を上げた。
それは、二人だけで暮らした一とせに満たぬ短い間に、幾度も繰り返したこと・・・。
リズには、望美の願いがわかった。
・・・・・・・お前の望むままに。
リズは身を屈め、望美の唇に、そっと口づけた。
そして望美の肩に手を置き、一番大切な想いだけを伝える。
「私の心は、永遠に・・・・・望美・・・お前と共にある」
第6章 懐光
(1)苦い再会
(3)最後の戦い
(4)死闘
(5)神子
(6)朔の涙
(7)いとしき命に
(8)雪夜 〜 短いエピローグ
(8)雪夜 〜 短いエピローグ
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