無数の小さな足跡が、雪の原に残っている。
自分たちの住む京の街が、滅びに瀕していることも知らず、
童達は無心に遊んでいたのだ。
一つだけ、皆から離れて森に向かっていく足跡を、大人の足跡が追っている。
二つの足跡が重なると、そこから戻ってくるのは、少し深くなった大きい方の足跡だけ。
我が子がはぐれるのではと、慌てて後を追う母親の姿が見えるようだ。
この里は、久しく命のさざめきを知らぬ地であった。
長きにわたり、静かなる滅びと共に在ったゆえに。
比類無き力を以て、人間達、そして京という街に、戦いを挑んだ鬼の首領は、
この地で何を思っていたのだろうか。
・・・このまほろなる地を一番愛していたのは、アクラムであった。
彼の心の奥にあったものを知る術は・・・もうない。
そして信直の心にあったものもまた、今となっては知るべくもない。
確かなことはただ一つ。信直は、闇に惑う者であったということだけ。
闇の中に在って自ら光を灯すこともできず、滅びへの道を進んでいった。
私も同じ・・・闇に迷う者。
遠い彼方に輝く神子という光無くば、孤独の時間に命も潰えていただろう。
神子・・・。
お前の決断が、もしも違うものであったなら・・・。
黄昏ゆく空を見やりながら、リズは思った。
泰継の残した言葉が脳裏に蘇る。
私は声の限りに神子を呼んだ
虚空に私の叫びが響く
これほどに、何かを求めたことはなかった
我が身と引き替えに、神子を呼び戻すことができるのなら
私は、私などいらない
神子は・・・・・・
私に心を宿してくれた
私の・・・魂そのもの
泰継と神子の想い合う心に応え、龍神は神子を地上に返したという。
それでも、一点一画もおろそかにしない泰継の文字が、この部分だけ乱れていた。
この時のことを考える度に、心を乱さずにはいられなかったのだと思う。
泰継の心にあったのは、もしも・・・という怖れであったのだろう。
愛しいという想いを知ったゆえに生じた、喪失への恐怖。
その気持ちは、リズには馴染み深いもの。
望美を失うことを怖れるゆえに、あえて背を向け、幾度となく一人時空を巡ったのだ。
私も、泰継のように神子を呼んだのだろうか。
何よりも尊い、神子の決断をも退けてでも・・・。
しかし・・・望美は・・・望美の心は・・・。
いや、望美の心が翻らぬと知りながらも、呼び続け、追い続けただろう。
神子と引き替えにできるものなど、無いのだから。
望美に寄せる想い・・・。
共にありたいという願い。
幸せであれという祈り。
同じ思いを、人はそれぞれに抱いて生きている。
神子は、ただひたむきに、眼をそらさず、人々のその思いまでも守ろうとする存在・・・。
人智を越えた、龍神と唯一心を通わせる存在・・・。
白龍の心は知る由もない。
だが百鬼夜行の中から、ここへと運ばれた。
アクラムから受けた傷も、全て癒えている。
これは、白龍の意志・・・なのだろう。
なれば、望美の傷ももう、癒えているはず。
望美を思うと、胸が高ぶった。
しかし、湧き上がる心を押さえ、リズは谷へ分け入り、森の奥までも足を運ぶ。
冷たい風と共に夜の帳が下りてきた。
最後に向かったのは、シリンの暮らしていた庵。
ここにも、人の姿、気配はない。
端々まで見て回ったが、帰りそびれた者はいなかった。
この里に入った者達は、皆無事に京の街に戻っていったということか。
その時ふと、庵が隅々まで拭き浄められていることに気づいた。
ここで休んだ者達がいたのだろう。
去り際に残した、彼らの気持ちの証・・・。
庵を閉め、リズはかすかに微笑んだ。
頬に冷たいものが触れるを感じ、夜の空を見上げる。
淡い風花が、舞い始めていた。
「白い・・・光が?」
老婆の怪我を診ていた若者の手が止まった。
「そうじゃよ。まぶしい光で目が眩んだと思ったら、
今まで誰もいなかった所に、お前さんが倒れていたというわけでのう」
「お兄ちゃんは・・・神様のお使いなの?どうして怪我をしたの?」
少女の疑うことを知らぬ眼が、心に突き刺さる。
「私は・・・罪人なのです」
老婆と少女が、一瞬息を呑む。
見ず知らずのこの男自らが、罪人・・・と言ったのだ。
しかし、この悲しい眼をした若者が悪人であるとは、とても信じ難い。
若者は焼けた柱や板壁をどかしては、かき分け、何かを探し始めた。
夕暮れに向かう薄明かりの中というのに、その動きは確実だ。
やがて若者は薄く細長い板きれを選び出した。
力を入れたためだろう。額の傷が割れ、布を伝って流れ落ちる。
しかし、若者は無造作に血を袖で拭うと、老婆の足の傷を水で洗った。
板きれをあてがって、その足を固定する。
慣れた様子で動く若者を、老婆と少女は驚いて見ている。
「ありがたいことじゃ。だが、その物腰に、怪我人の扱い・・・、
ひょっとしてお前様は、お武家さんかい」
老婆は怪訝そうな顔で尋ねた。
はっとして腰の周りを探るが、そこには太刀の一振りすらない。
若者は首を振った。
「おでこ、痛くない?」
少女が顔をのぞき込む。
傷は、動くたびに痛む。
額に、燃える焼き印を押し当てられているかのようだ。
しかし・・・
「心配要りません。折れた足の痛みを思えば、私の・・・傷など・・・」
既視感。
いつのことだったか・・・
このように・・・するものだと教わったのだ・・・。
人の・・・痛みを思えと・・・。
夢よりも遠い・・・時の彼方で・・・。
「ありがとうなあ。助けるつもりが、助けられてしまったのう」
老婆が言った。隣でぴょこん、と少女も頭を下げる。
「いろいろ事情がありそうじゃが、元気での」
動けぬ老婆と、幼い少女。これからどうするつもりなのだろう。
「お二人のお家まで、お送りします」
老婆は悲しげに笑い、少女は路地の向かいを指さした。
そこには、家の形すら残っていない。
「あそこが、そうなの・・・」
そう言った少女の目に、涙がみるみる溜まっていく。
少女は慌てたように、袖で目をこすった。
「お兄ちゃんのお家は、どこ・・・?」
家・・・。
炎の幻が、現れては消えた。
己の住処。ねぐら。安らぐ場所。帰る場所。
わからない・・・。
自分に家というものが、あったのかどうかすら・・・。
「分かりません・・・。何も、分からないのです。
なぜ、私が生きているのか、ということも・・・」
若者の血を吐くような声に、少女は驚いて目を見張った。
「分かるのは、私が、死なねばならぬ身であるということだけ・・・」
「なんで?!」
少女が叫ぶと同時に、いきなり後ろから怒鳴り声が降ってきた。
「何てこと言うんだい!」
通りがかりの夫婦だった。
怒鳴ったのは大柄な妻の方。
その妻は、痩せて青い顔をした夫を支えながら立っている。
若者が振り返ると、妻は顔を赤くした。
「あらぁ、いい男」
「おい、恥ずかしいよ。すまんな、カカアの言うことなんて気にしないでくれ」
夫が、青い顔のまま、とりなすように言う。しかし妻は続けた。
「せっかく生き延びたんだ。そんなバチ当たりなこと考えちゃいけないよ」
そうではない・・・。
私の罪は・・・そのように明るい言葉にふさわしくないのだ。
若者はうつむき、黙って首を振った。
「お兄ちゃん・・・?」
少女がおずおずと声をかける。
しかし私には今・・・やらなければならないことがある。
何もない自分だが、それだけは・・・。
若者は老婆をそっと抱え上げ、背に負った。
びっくりした顔をする少女に、笑ってみせる。
「間もなく夜になります。よい場所を探して、野宿の支度をしましょう」
「それなら、うちに来るといいよ」
大柄な妻が言った。
唐突な申し出に、若者は驚く。
「お知り合いなのでしょうか・・・」
全員が一斉にかぶりを振った。
「生き残った者同士だからね。・・・こっちだよ」
そう言うと妻は夫を支えて歩き出す。
「だいぶ壊れてるが、屋根も半分残ってる。ここよりは、ましだろうな」
青い顔の夫も、振り返って言う。
「どうしますか・・・?」
老婆は、黙って頷いた。
夫婦の背に向かって丁重に礼を言い、後について歩き出す。
片手を後ろに回し、背に負うた老婆を支えた。
もう片方の手は、少女がしっかりと握りしめている。
一足ずつの歩み。
年老いた身体はひどく軽い。
しかし、その無力な身体が、握った手が、
悔恨と悲しみに押し潰されそうな心を、つなぎ止めてくれている。
夕風が、吹きすぎた。
深い紫色に傾いていく空に、ひとひらの茜雲が浮かぶ。
美しい空だ・・・。
たとえ私が何者であるのか、分からずとも・・・。
私が許されざる者であったとしても・・・。
それでも、私は生きて、この空を見ている。
若者は悟った。
死して償いきれぬこの身ゆえ・・・
私は・・・生かされたのだ・・・と。
墨を流したような空には、月も星もない。
身を切るような寒さの中、焼け落ちた橋の前に検非違使が一人立っていた。
人待ち顔のその者は、こちらに向かって駆けてくる足音に気づき、
暗がりを透かしてその姿を見た。
軽やかな身ごなし、長い髪の娘。見間違いようもない。
「・・・もしや、神子殿では?」
声をかけると、涼やかな声で自分の名を呼ばれた。
覚えていてくれたと、そう思うだけで誇らしい気持ちになる。
神子の前で、膝を付き、深々と頭を下げる。
「京の街を・・・人々を救って頂きました。神子殿に、感謝いたします」
頭上に、慌てている気配を感じる。
「そんな、大げさなことしないで下さい」
顔を上げると、神子はぶんぶんと顔の前で手を振っていた。
何かの・・・まじないだろうか。
周囲を見回した神子は、心配そうな顔になる。
「あの・・・・検非違使の皆さんは・・・」
気遣わせてしまったようだ。
「我ら皆、ここにて神子殿とリズヴァーン殿をお待ちしたかったのですが、
次なるお役目に当たらねばならず、拙者一人が皆の代わりにお待ちしていた次第です。
手傷を負った者は少なからずおりますが、皆無事ですので、ご安心下さい」
神子は愁眉を開いた。
「よかった・・・。では、怨霊に袈裟懸けに斬られた赤い着物の人も、それから・・・」
神子は、次々に我々の仲間が傷を負った時の様子を挙げていく。
・・・・・真に・・・このお方は、龍神の力を受けた神子なのだ・・・。
改めて、畏怖の思いが湧く。
「幸い、致命傷を受けた者はおりません」
「街の人達も、大丈夫でしたか」
「はい。怪我人もなく、帰っていきました。鬼の剣士に感謝を・・・と」
神子の顔に、まぶしいほどに明るい笑顔が広がった。
「して・・・リズヴァーン殿は今どこに」
すると、神子は、はっきりと答えた。
「鬼の里にいます」
「は?」
思わず、間の抜けた声を出してしまった。
鬼の里が姿を消していることは、神子にも分かっているはず。
橋は岸から数歩先で途切れ、その先には暗い水が流れるばかりだ。
「ここにはもう、焼け落ちた橋が残るばかり。
街の者が全て帰ってから後は、誰もここを通っておりません」
けれど神子は笑顔のまま。
「先生への街の人達からの言葉、間違いなく伝えます。ありがとうございました」
そう言うと、焼け落ちた橋に向かって歩を進める。
「神子殿!!」
制止の声にも振り向かない。
神子は、動じる気配もなく暗い淵に足を踏み出し、そして・・・
その姿は、消えた。
検非違使は、しばし呆然として橋の向こうの暗闇を見つめていた。
やがてその視界に、ひらひらと落ちてくる白い欠片。
「雪・・・か」
空を見上げ呟いたその声は、白い息となって空に散った。
第6章 懐光
(1)苦い再会
(2)開かれた扉
(3)最後の戦い
(4)死闘
(5)神子
(6)朔の涙
(8)雪夜 〜 短いエピローグ
(8)雪夜 〜 短いエピローグ
←背景効果付 (IEのみ6.0〜対応
重いので、他のタスクを実行中の方はご注意下さい)
余話