果て遠き道

第5章 闇来

1 屈 服



所は伊豆。頃は数年前に遡る。
小さな勢力が割拠し、山一つ、川一つ越えれば、別の家の支配となる。
その中でも力を伸ばしている北条氏は、近隣の地方豪族から見れば
目の上のこぶのように、鬱陶しくも警戒すべき存在となりつつあった。

そのような中、北条に与せぬ側に立つ、ある一族が住まう屋敷。

夜明けまで、まだ幾ばくかの時間を残す頃、その屋敷の門をくぐる者がいた。
その姿は真っ直ぐに、屋敷の主の部屋を目指す。

「聞きたいことがある」
その声に、主は目覚めた。
主は、開け放たれた扉の前に、残月を背にした年若い男の姿を認めた。
少年と青年の端境にある細い肩の線で、それが誰か、すぐに分かる。

殿直の者は何をしている、と思いつつも、そこは板東武者の端くれ、
主は瞬時に覚醒し、起きあがると、枕元の刀を手にする。
「このような刻限に帰ってきたのか。女遊びとは、分をわきまえぬやつだ」

「母上に、誰を呪詛させた」
「女親の所に行ったのか。今さら行ったところで生き返るわけでもなかろうに」
「母上は、誰を呪詛したのだ」
「鬼の呪詛は強いと聞いていたが、お前の親はとんだ役立たずだったな」
「・・・・・俺が代わって呪詛をする」

「何と・・・」
汚らわしいものを見るような表情が、夜目にもはっきりと見て取れる。
「我が血筋が入っても、鬼の血が勝るというのか・・・。そのような忌まわしい」
失笑する。
血縁の扱いなど、した覚えはないだろうに。俺とて、された覚えもない。
「今さら何を仰るのか・・・伯父上殿」

その口調に、屋敷の主はやおら立ち上がった。
容赦のない拳が飛ぶ。
「生意気な口をききおって。誰のおかげで、立派な屋敷に置いてもらっている!」
口元に流れる血を手の甲で拭いながら重ねて問う。
「俺は、誰を呪えばいい」
「頼朝だ」
吐き捨てるように言って、主である伯父は背を向けた。
「頼朝?」
「蛭が小島にいた源氏の生き残りよ。北条と結んで何をするやら」
「・・・・・・」
「これで平家の不興を買い北条が自滅するなら、それもよし。
だが、その逆があっては困る。悪い芽は摘んでおくことだ」
「・・・・・・・・」
「時政に不審な事態あらば、我が一族が疑われることもあろうが、
頼朝ならば・・・ぐぁっ!」

言葉が途切れ、伯父の身体がどさりと前のめりに倒れた。
背中には、中央に大きく焦げた穴痕。

「無駄な口を延々と・・・」
息も絶え絶えな伯父を見下ろした。
伯父の口がぱくぱくと動き、かろうじて掠れ声が聞こえる。
「な・・・何をする・・・信直・・・」
「頼朝とやらを、呪詛してやろう。お前の屍を贄として」
倒れた伯父の手から、太刀を取り、すらりと抜き放つ。
「本望だろう」

断末魔の悲鳴は、とても短いものだった。



周到に準備を進め、北条の館の裏手にある山に窟も見つけた。
その窟に籠もり、頼朝の呪詛を始める。

やり方は・・・知っていた。
最初から。
母の施していた呪法だけではない。
この身の内から、呪の力が湧き上がる。

しかし・・・
三日三晩、七日と七夜たっても、手応えが無い。

そして九日目の晩、厭魅の呪を唱えているさなか、
髑髏の向こうの炎に、女の顔が浮かび上がった。
うら若く、美しい顔立ち。

その目が妖狐の如く、きゅっと細められる。
その瞬間、ゆらめく炎が高く燃え上がり、
赤い口元から、音にならぬ言の葉が放たれた。

ずん!!!
心の臓を、大力の雷神に掴まれたような衝撃が走る。

呪詛返し・・・か?
このような・・・形で・・・返されるとは・・・

では母上も・・・こうして?

女の目が、細められたまま、面白そうにこちらを眺めている。

この女・・・何者だ。
歯痒い思いが先立つが、
すでに身動きも、呼吸すら能わない。
意識が遠のいていく。

頼朝への呪詛を・・・
この女が代わって受けていたというのか?



気が付けば、土牢の中に倒れ伏していた。
湿った土と黴の臭い。
強い視線を感じ、うっすら目を開くと、自分を見下ろす男女の姿。

男は・・・源頼朝。
呪詛に供するため、身近な品を盗み取りに忍び入った時に、
その姿は目に焼き付けておいた。
全身から放たれる、異様なほどの威圧感。
暗く鋭い目は、こちらにひたと据えられている。

寄り添うように立つのは、あの炎の中に見た女。
豪奢な着物に縫い取りされた三鱗の紋が目に止まる。
これが・・・頼朝に嫁した北条の姫か?
この、魔性の者が?

「まあ、目覚めることができたのね。よかったですわ」
女が愛らしい声で笑う。
「あれほどの呪詛を返されたのですもの、命を落としていても不思議ではありませんことよ」
「やはりお前か!!」
飛びかかろうとするが、身体は地面に縫い止められたように動かない。

「くすくすくす・・・このようになっても、ぎらぎらと殺気を立ち上らせていますのね。
お前の気、嫌いではないわ」

「まだ、子供ではないか」
頼朝が初めて口を開いた。
幾重にも重なった想念を内包する重々しい声。
「ええ、でもただの子供ではありませんわ」
女は両の手を重ね合わせた。
「この前あなたを呪詛していた鬼の子供ですのよ」

なぜ・・・分かった・・・
「お前は・・・化け物か?!」
頼朝の口元が、ほんの少し歪み、笑みの形となった。
「これはよい。政子、お前も言われたものだ」
「まあ、お人の悪いこと」
「しかしこやつ、鬼には見えぬが」
「人の血が入っているのでしょう」
「人の形を持つ鬼か」
「使えそうね」

眼前の自分が無きが如き会話。
使う・・・だと?!
母上の仇が何を・・・
それくらいなら
「さっさと殺せ!」

その叫びに動じた風もなく、女は言う。
「お前の母は、お気の毒でしたわね」
「母上を殺したくせに、何を言う!」
女は目を見開いた。
「まあ、何を言いますの?呪詛をする者は、それが我が身に返ってくることも
覚悟しているはずですわ。私は頼朝様への呪詛を返しただけですもの。仕方ありませんわね。
私がいる限り、頼朝様には指一本、触れさせは致しませんことよ」

「お前が手を下したことに変わりはない」
「そうかしら。呪詛を依頼した者こそ、仇と呼ぶべきではなくて?」

伯父の屋敷での惨劇が脳裏に蘇る。
「やつらなど、とっくに・・・呪詛の贄とした」
初めて・・・人を殺めた。
父の、兄弟を。
母上は・・・悲しむのだろうか。

「まあ、遠慮がないのね。そういう力の使い方、嫌いではなくてよ。
もっと強くなりたいと、思っているのではなくて?いいわよ、力を使わせてあげる。
鬼の一族の力、その身に宿っているのでしょう」

何を・・・この女、勝手なことを・・・。

「この子を預かってもいいかしら」
「鬼を飼うのか」
「でもあなたがお望みなら、今すぐこの子の息の根を止めますわ」
「そうか」
頼朝は逡巡するということがない。
「お前の好きにしろ。だがわかっているな」

「ええ、あなたへの信頼、揺るがせにするような事はいたしませんわ。
あなたがこれから支配する関東の地に跋扈するのは、力に明かして覇を競い合う者達。
そのような者達は鬼道妖術など信じてはおりませんものね」
「戦も領地も現実のものだ。目に見え、手に触れられるもので彼らが安堵するならば、
そうさせておけばよい」
「人の心は・・・何て弱いのかしら。人外の力を恐れながら、その力を振るう者を
嫌悪するのですもの。それを利用するのも一興ですけれど・・・」
「政子、出過ぎるな」
「くすくす・・・わかっておりますわ。私にはあなたへの人々の心服こそが大切なこと。
でも、あなたを裏切る者、あなたの行く道を遮る者がいたなら、容赦はいたしませんことよ」

「相変わらず、恐い女だ。鬼は任せたぞ」
そう言うと振り返ることもせず、頼朝はその場を去った。


「起きてもいいですわ」

その一声で、身体が地べたから解放される。

「お前の名を言いなさい」
「イシム」
「人としての名は」
「河原三郎信直」
「すてきな名前ですこと」
「・・・・・そのようなこと、二度と言うな」
「まあ、気に障ったようね」
政子はおかしそうに笑った。

「人が嫌い?」
「答えるまでもない」
「くすくすくす、可愛らしいこと・・・・。恐がっているのね」
「何を言っている」
「人も、母を失ったことも、我が身の力も、何もかもが恐ろしいのでしょう」

この女も・・・恐ろしい。
人でなく鬼でもなく・・・もっと強い力。

「もちろん、私も恐いのですわね」

心の底が、ぞくっとする。

「やがて戦が始まるわ。頼朝様のために、働きなさい」
「・・・いや・・・だと言ったら」

「くすくす・・・もちろん、お前はどちらを選んでもよくてよ。
頼朝様に従って、より強い力を得るか、この場で冷たい骸になるか」
「・・・・・・・・」
「お前の望むものは、何なのかしら?」





第5章 闇来 

(2)対峙 (3)集いと別れ (4)それぞれの決意 (5)絆 (6)二つの剣 (7)蘇る幻 (8)長い夜の終わり

[果て遠き道・目次(前書き)]

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