遠くへ!もっと遠くへ!!
「時」が止まる刹那、逃れた。
望美を抱いて、リズは力の限り飛ぶ。
凍てついた「時」の外側へ!!
賀茂川の対岸に降り立つ。
夜陰の中、リズの眼は、向こう岸の枯れた蘆の茂みに見え隠れする、
あでやかな衣をまとった女の姿をとらえた。
診療所を背に、女は真っ直ぐこちらに向かってくる。
「先生・・・何が起こったんですか」
腕の中で望美が小さく動く。
「力ずくで仕掛けてきた。やつの狙いは、お前だ」
「政子様が・・・?」
「飛ぶぞ!」
風の渦巻く五条の辻へ。
が、今度は間髪入れず、政子が眼前に現れる。
いや、それはもはや政子ではなく、美しくも邪悪な気に満ちた
人ならざるものの姿だった。
「ねえ、童ではないのよ。こんな追いかけっこは、もうやめませんこと?」
口調と、着物の袖を口元に当てる仕草は、政子のまま。
だがその声は、はるか上から降ってくる。
「神子は渡さぬ」
「鬼の瞬間移動ごときで、逃げ切れるとでも思っているのかしら」
「神子、私から離れるな」
「はい、先生」
「せっかくまたお会いできましたのに、ご挨拶も無しですの?」
政子は、すっと指先を上げ、望美を抱いたままのリズに向けた。
飛ぶより速く、身体が宙に持ち上げられ、地に叩きつけられる。
咄嗟に身を返し、リズが下になって落ちた。
「くすくす・・・こんな時でも、お嬢さんをかばうのね」
「やめて!政子様!!」
望美の叫びに、政子は冷笑で応えた。
「やめるわけには、いかなくてよ」
・・・今だ!
瞬間移動。
が、すでにそこには政子がいる。
その眼がすっと細められた。
「逃げられない・・・と教えて差し上げましたのに」
・・・あきらめぬ!!
しかし、
再び瞬間移動をしようとした刹那、時が止まった。
凍りついた時の中、政子の唇に笑みがこぼれる。
怨霊の声が風音の隙間を縫い、響いている。
行き場を無くした嘆きの声が、次第に多くなってくるのがわかる。
暗闇に横たわったまま眠れぬ時を過ごしていた朔は、身を起こした。
もう、待っていることはできない。
素早く身支度を調える。
幸い、この京邸の中に怨霊はいないようだ。
信直が姿を消して以来、邸の敷地内に怨霊は現れていない。
兄上が堀川に行く前にかけた結界が、役立っているのかしら。
ふと、そんなことも頭をよぎる。
郎等達の焚く篝火が、風に煽られ、揺れながら庭を照らしている。
殿直の者が声をかけてくるのを手で制し、朔は厩に向かった。
落ち着かなげな馬たちが、朔が小屋に入ると一様におとなしくなった。
しかし中に一頭、頭を振り上げ、さかんに足踏みをしている馬がいる。
「磨墨・・・」
朔が声をかけると、磨墨は低く嘶いた。
「私と一緒に、行ってくれるかしら?」
磨墨は朔に頭をすり寄せた。
「朔様、このような時に、どちらへ」
「外は危険です。景時様が戻られるまで待つのではなかったのですか」
磨墨を引いて門前に来た朔を、郎等達は口々に止める。
「朔様は景時様の御名代。勝手な行動はなりませぬぞ」
古参の者も、朔を戒める。
しかし朔は皆を見回して、穏やかに言った。
「ごめんなさい・・・。私のしようとしていることは、
梶原の家を守る者としては、あるまじきことなのかもしれないわね。
でも私にはもっと、できること・・・やらなければならないことがあるの」
「我ら、景時様がお帰りになることは、露ほども疑ってはおりません。されど」
「景時様のいらっしゃらない今、梶原党を守らずして何をなされようというのですか」
「それを差し置いてまで、なさることとはいったい」
「怨霊達の声が、嘆きの声が・・・聞こえるの」
「朔様・・・?」
「あの声が京に満ちたら、どうなるのかしら」
「・・・・・・」
郎等達はしん・・・と静かになった。
雑兵のかかげる松明の、ぱちぱちとはぜる音までも聞こえる。
「私にどれほどのことができるのか、正直に言うと自信がないわ。
けれど、京の街を・・・人々を、災厄から守ることは、私にとっては、梶原党を守ることなの。
それだけは、わかってほしいのだけれど」
「して、朔様はどちらへ」
「五条大橋の、弁慶さんの診療所に行くわ」
「弁慶殿の・・・?」
「五条には、望美が・・・いるの。きっと、あそこに帰っているわ」
「きっと・・・とは?確かではないのですか」
「無駄足かもしれぬと考えると、あまりに危険」
郎党達は顔を見合わせた。
「では、行くわ」
皆の逡巡を振り切るように、朔は言った。
京邸の門扉が開かれた。
朔を乗せた磨墨が、大きく嘶いて走り出る。
しかし、しばらくの後に気がつくと、何騎もの蹄の音が追ってくる。
「お供させて頂きます」
「我らも、何かお力になれればと・・・」
「お邸を守る者も残っておりますゆえ、ご安心を」
「朔様が存分にお働きになれますよう、助太刀申し上げます」
朔の顔に、明るい色がさした。
「みんな・・・ありがとう・・・。よかったわね、磨墨」
朔がたてがみを撫でると、磨墨は小さく啼いた。
風に傾いた木が、不自然にたわんだまま、静止している。
夜陰に閉ざされ、時が止まり、色も音も無い世界。
優雅とも見える動きで、政子は望美に近づいた。
「神子の魂とは・・・どのような味かしら」
リズの腕の中の望美を鷲掴みにしようと、指を広げ、腕を伸ばす。
が、その指は空を掴んだ。
凍りつく瞬間、リズは腕を緩めてくれていた。
望美はその腕をすり抜け、政子の手から逃れた。
「くっ・・・、なぜお前は、静止した時の中で動けるの」
政子は明らかに動揺している。
なぜだろう・・・自分でも、わからない。
望美は周囲を見渡した。
全てが動かない世界。
これが、先生の言っていた、時の止まった世界。
先生も・・・私をかばった体勢のまま・・・。
望美は怒りに燃える眼を政子に向けた。
「・・・私、あなたの思い通りには・・・させない」
「やはりお嬢さんは、白龍の神子でしたのね」
「神子?私が?」
「隠していましたの?それとも・・・自覚がないのかしら」
何を言っているんだろう、この人は・・・。
ううん、人じゃない。怨霊でもない。
何なの・・・この気・・・強い・・・。
政子から放たれる気が、閉ざされた時の中に満ちていく。
苦しい・・・。
「あなたは・・・何・・・政子様じゃ・・・ないの?」
「まあ、失礼ね。私は北条政子ですわ。でも・・・くすくすくす・・・。
お嬢さんの最期の質問ですもの、答えて差し上げますわ」
政子が再び腕を伸ばしてくる。
かろうじて、逃げる。
「私は外つ国より来たりし神、荼吉尼天」
「神様・・・?」
思わぬ言葉に、望美は言葉を失った。
この人が、神?
白龍や黒龍と同じ、神?
「お嬢さん、あなたは神に逆らうの?」
「神様がなぜ、京を滅ぼそうとするの?人を救うのが神様じゃないの?」
荼吉尼天は笑った。
「私の力は、頼朝様のためのもの」
「じゃあ、百鬼夜行を起こすのも・・・」
「まあ、すてき。そこまでお分かりになっていたのね」
荼吉尼天は、袖を口元に当てて言う。
「くすくす・・・都は一つでいいと思いませんこと?」
ぐいっと、見えない力で身体を掴まれた。
宙に釣り上げられ、荼吉尼天の間近に運ばれる。
爛々と光るまなこが、望美を見据えている。
「もっと早く、始末しておけばよかったですわね。
天の白虎の呪詛を破り・・・信直のかけた呪詛まで浄化するとは・・・」
望美は、はっと気がついた。
身体の不調がいつの間にか、うそのように消えている。
でも・・・譲くんの呪詛は・・・
あの時には、そんなこと何も考えなかった。
譲くんを助けたかっただけ・・・。
でもあれは、譲くん自身の力で呪詛を打ち破ったんじゃなかったの?
身体を締め付ける力が増した。
意識がかすんでくる。
「鬼に身を任せた娘が再び神子になるとは、思ってもみませんでしたわ」
「・・・・・・!!!」
望美は、顔を上げた。
違う!愛し合ったのは、鬼と神子じゃない。・・・先生と私。
「先生のこと、そんなふうに言うのは、許さない!」
望美の眼に、強い光が戻る。
荼吉尼天は眼前に望美を引き寄せ、可笑しそうに笑った。
「まあ、このようになっても、まだ面白いことを言うのね。
でも・・・あなたは一人。仲間もなく、剣もない。
どうなさるおつもりなの?」
「それでも、私・・・あなたには屈しない」
望美が真っ直ぐに荼吉尼天を見返す。
「もういいわ。おしゃべりの時間は終わりにしましょう。
じっとしていらっしゃい。すぐに楽にしてさしあげますわ」
荼吉尼天の手が、望美を捕らえた。
「あなたの魂を、いただくわ」
身体を掴んだ爪が食い込み、その力に、息ができない。
荼吉尼天の放つ気が、望美を圧する。
頭が・・・割れそう。
しかし、遠ざかる意識に、望美は懸命にしがみつく。
負けてはだめ。
ここであきらめたら・・・滅びを・・・止められない・・・。
荼吉尼天の口が、大きく開いた。
そこに向かって、望美はゆるゆると運ばれていく。
荼吉尼天は・・・神子を・・・恐れている。
京の滅びを止めることのできる、ただ一人の存在だから。
ああ・・・そうだ・・・
私が・・・神子に戻れたなら、みんなを助けられるんだ。
だとしたら、私の願いは、たった一つ。
私・・・白龍の神子に・・・なりたい・・・!!!
暗闇を突き破り、色のない世界に一条の光が射した。
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ィ
ィ
ィ
ン
!
!
!
凍りついた時を破り、望美の耳に、なつかしい音が響く。
「白・・・龍・・・」
神子が呼んでくれたから・・・、やっと届いた
天上の光から、鈴の音が降る。
「やっと・・・聞こえたよ、白龍・・・。
ずっと・・・守っていてくれたんだね」
時が、動き出す。
「神子っ!!」
腕の中から消えた望美を探し、リズが荼吉尼天に向き直ったその時、
それは起こった。
荼吉尼天に掴まれたまま、望美は剣を構えるように、すっと手を上げた。
流れるように腕を返せば、その動きに合わせて白い光が集まり、きらめきながら軌跡を描く。
望美の腕が振り下ろされた時、その手には白龍の剣があった。
リズの頬に、宝珠が宿る。
「・・・・神子・・・やはり、お前は・・・」
荼吉尼天は剣から逃れようと、身を捩った。
再び望美は剣を振るう。
その攻撃で、荼吉尼天は望美を放した。
瞬間移動。
落ちてくる望美を抱き留める。
「先生!!」
明るく輝く望美の眼が・・・まぶしい・・・。
しかし、今は・・・。
リズは唇をぐっと引き結んだ。
「神子、好機だ、行くぞ!」
「はいっ!」
二つの花断ちの剣が、荼吉尼天に向かう。
第5章 闇来