「政子さんが!!」
望美が叫んだ。
「弁慶さん、早く!!意識が、無いんです。手も冷たくて・・・」
「落ち着きなさい、神子」
「大丈夫ですよ、脈はしっかりしています」
「助かるんですね・・・」
「ええ、きっと。とにかく急いで診療所へ帰りましょう」
しかし、望美達が五条橋に近づくと、
診療所の前に幾つもの松明の明かりが見えた。
馬の低い嘶きと、人の声も聞こえてくる。
誰か・・・?!
一瞬緊張が走るが、夜目の利くリズが言った。
「問題ない。朔と梶原党の者達だ」
「え?朔が?」
喜んだ望美が飛び出すより早く、
「問題大あり〜」
景時が橋を駆け抜け、土手を走り下りた。
「兄上!こちらに来ていたのね」
「景時様!」
「ご無事で何よりにございます!」
景時はその言葉に耳を貸さず、珍しく厳しい視線を朔に向ける。
だが朔は、景時が口を開く前に磨墨からひらりと飛び降り、兄を真っ直ぐに見た。
「邸に戻れ・・・と、言いたいのでしょう、兄上」
「分かっているなら、今すぐ」
「いやです」
朔はきっぱり言った。
「朔!」
景時の声が強くなる。
「梶原党のみんなも、私も、兄上と同じことを願っているの。
それを拒むというの、兄上?」
「お願いにございます、我らもご一緒させて下さい!」
「景時様のお帰り、みな信じております。そのためにも、ぜひ我らを」
はやる武士達を見回し、景時は首を振った。
「みんなに話した通り、オレは・・・、もう戻れないんだよ。
オレとの関わりを断てば、何とか梶原党は残れるかもしれないんだ。だから・・・」
そこへ、望美達が河原に下りて来た。
リズと弁慶が、静かに政子を建物の中へ運び込む。
「まあ、兄上、その方は・・・」
「まさか・・・政子様・・・で?」
「ああ・・・そうなんだ」
「いったいどうして、政子様がこちらに」
「お怪我を、なさっているのですか?!」
武士達が驚き騒ぐ中、通りすがりに将臣が景時に声をかける。
「話は聞こえてたが、そんなに難しく考えることは、ないんじゃねえのか?」
「そういうこと。何しろ北の方の身柄を預かってるんだしね」
ヒノエもそれだけ言うと、さっさと行ってしまった。
朔はといえば、走ってきた望美と一緒に、景時には目もくれず中に入っていった。
「はあ〜・・・」
景時は大きなため息をつく。
状況はめまぐるしく変わっている。それに即応できぬような景時ではなかった。
「まあ、やっぱり、そういうことになるよね〜」
梶原党の面々に向き直る。
「景時様?」
景時は笑って肩をすくめた。
「朔は望美ちゃんに任せることにして、ちょっと俺の話、聞いてくれるかな?」
「はっ!」
「喜んで!」
「何なりと!」
診療所の奥に、粗末な燭台が灯っている。
その薄明かりに照らされ、静かに横たわったまま、政子は目覚めない。
「弁慶さん・・・」
ついさっき、戦ったのだ。
望美が討ったのは、神・・・荼吉尼天。
だが、その身が北条政子のものであったことも事実だ。
望美は震えている。
「大丈夫よ、望美、政子様の身体のどこにも、傷はないわ」
朔が望美の手を強く握っている。
「身の内に在った大きな力が消えたのだ。無理もないことだろう」
リズも言う。
「リズ先生の仰る通りでしょう。少なくとも、人間としての政子様には
刀傷どころか、打ち身の痕すらありません。
僕の診るところでは、今はむしろ、眠っているという状態の方に近いと思いますよ」
弁慶の言葉の通り、深い深い眠りの奥に、政子はいる。
その眠りの底で、政子は望美達の声を聞き、
自分に宿った、もう一人の自分と向き合っていた。
・・・くすくす・・・あなたを心配しているわ
ええ、優しすぎるわね、あの子たち・・・
・・・・・・・・でも、嫌いではないのでしょう?
そう・・・よくわかるわね
・・・・・・・・・・・・私・・・お別れしなくてはなりませんの
消えてしまうの?
・・・・・・・・・・・・・・・・・ええ
私を、かばってくれたのね
・・・・・・・・・・・・・だって、あなたまでいなくなったら、あの方が一人になってしまうもの
そうね・・・あの方を一人には・・・できないわ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私、あなたと一緒で・・・・・、楽しかった
私もよ・・・私達、ずっと一緒でしたわね
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・泣かないのね・・・・・・・・あなた
あなたもね
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・よい日々・・・でしたわ
私、あなたを、忘れることはないわ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ありがとう
ありがとう・・・・・・さようなら
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さよう・・・・なら
望美達に、しばしの休息の時が訪れた。
梶原の武士達が外を警戒してくれている。
決戦を前に、貴重な時間を無駄にせず、眠らなければならない。
信直はアクラムの憑代となり、捕らえることの能わぬ存在となった。
滅びを止める機会はただ一度、神泉苑での戦いに勝つことのみ。
望美達にはもう、それ以外の選択の余地は残されていなかった。
しかし、望美は眠ろうと努めても、どうしても寝入ることができない。
再び宿った、神子の力。
手にした白龍の剣の、確かな重み。
百鬼夜行との戦いの中心に、自分はいる。
目覚めぬ政子。
稲妻に照らされた、凄絶なまでに美しい、いにしえの鬼の姿。
その鬼を招来するため我が身を贄とした、もう一人の鬼、信直。
・・・・・先生は・・・自分の一族と戦おうとしているんだ。
ずっと一人だった先生が、やっと会えた同胞。
それなのに・・・。
「眠れないの?望美」
朔が小さな声で話しかけてきた。
「うん・・・いろいろあったから・・・」
「私でよければ、話をしない?少しは落ち着くと思うのだけれど」
「ありがとう、朔・・・」
望美にとっては、本当にたくさんのことがあった一日だった。
身体は切実に休息を求めている。
皆の眠りを邪魔しないように、小声でぽつりぽつり朔と語り合う声が、
次第に間遠になっていく。
それがやがて静かな寝息となるのを、
戸口に向かって横になったリズは、背中で聞いていた。
京の街は、暗い暁の時を迎えようとしている。
厚い雲に阻まれ、かすかな曙光すら射し込まず、
夕暮れ時と見まごうばかり。
吹き荒れていた風が、ぴたりと止んだ。
訪れた静寂は、音のない脈動を孕む。
大気の脈動は地の底の鼓動と呼び合い、共鳴した。
地の底から形ならぬものが湧き出でる。
影のような柱が立ち上っては崩れ、地を這いながら広がっていく。
京の街の四方に現れた得体の知れぬその影は、
やがてゆるゆると混じり合い、輪のように街を取り囲んだ。
その輪が、ゆら・・・と動き出す。
じわりじわりと輪は狭まり、行く手を障気で満たしていく。
地から起きあがった怨霊共は、その影に導かれるままに進む。
京の中心・・・・・神泉苑に向かって。
朝、外の騒がしさで目覚めた。
大勢の人の声がする。
中でもひときわ響く声に、望美ははっとして飛び起きた。
「九郎さん?!」
外に飛び出すと、もうみんながいた。
リズだけが、望美を守るように、後から外に出る。
にぎやかなのも道理だった。
診療所前の河原には、街の人々が集まっていたのだ。
手には棒きれやら竹竿やらを持っている。
中に一頭、馬がいて、そこには老人と子供が乗っていた。
その手綱を引いているのが九郎だ。
「景時様・・・九郎殿が・・・」
「謀反人を捕らえる好機ですぞ」
「まあまあまあ・・・気にしないで〜・・・」
そんな会話を後ろに聞きながら、望美は人をかき分けて九郎の側まで行く。
「九郎さん!」
「ああ、望美か。先生と会えたんだな」
九郎は、望美の後ろからゆっくりと歩を進めるリズの姿を見ると、
笑顔で言った。
「どうしてここへ?見つかると危ないんじゃ・・・」
「そんなことを言っている場合ではないだろう」
いつもの九郎の口調だ。
「一度は鞍馬に行こうとしたが、この状況で、一人で隠れていても仕方ない」
「九郎さんらしいね」
「望美・・・」
九郎は、望美が腰に差した白龍の剣を見た。
「え?」
「俺の腕に、宝珠が戻った。みんなも、そうなんだな?」
「うん・・・」
望美はうなずく。
「そうか」
八葉が、今ここに、再び集まっている。
俺が、最後に来た。
そうか・・・
九郎は心の中で、繰り返した。
「九郎さん、この人達は?」
望美は馬に乗った二人を見た。馬は、昨日、九郎が乗っていた源氏の馬だ。
「おいら、弁慶先生を手伝いに来たんだ」
子供が答え、続けて老人も口を開く。
「わしも、せがれと一緒に、弁慶さんのお役に立とうと、こっちに来たんじゃ」
「え?弁慶さんを?」
「ここにいるみんなが、そうなんだ」
九郎が周りの人々を示して言った。
「弁慶のために、この五条の診療所を守ろうと、集まっている」
「それが・・・途中で怨霊に襲われてねえ・・・」
「そこを、この九郎様が助けてくれたんですよ」
「こんなに強いお方がいるとは・・・はあ・・・驚きました」
「弁慶さんのお友達ときいて、俺はなおさらびっくりしたよ」
他の人々も、話に加わった。
「そんな・・・怨霊と戦うっていうの・・・?」
「おいら、恐くなんかないぞ!」
馬上の子供が言った。
「目がいいから、見張りができるんだ。父ちゃんも、がんばれって言ってる」
「お父さんは、どうしたの?」
「この子の父親は、病で動けないんですよ」
「でも、弁慶先生のおかげで、助かったんだ」
「わしものう、こうして腰が曲がっても生きていられるのは、弁慶さんのおかげなんじゃ」
「俺もそうだ」
「うちのかあちゃんも、助けてもらった」
「だから今度は、おれたちの番だ」
「こんな時だから、わしらで、この診療所を守らなくてはのう」
その時、人垣が二つに割れ、弁慶が来た。
九郎の真向かいに立つ。
騒がしかった人々が、一斉に静かになった。
「九郎・・・、久しぶりです」
「ああ、本当に、長い時間が経ったような気がする」
少し、沈黙があった。
二人は言葉を探しあぐねているようにも見えた。
「でも・・・、九郎は相変わらずですね。こんな時に姿を現すなんて、
あまり上策とはいえません」
「お前も相変わらず手厳しいな。だが・・・俺はお前に詫びねばならんことがある」
「おや、再会して早々、何でしょう」
九郎は苦いものを噛みしめるように言った。
「俺はお前に、戦が終わってからも、俺の軍師を続けてくれと請うた。
西国に行く時も、お前がいてくれたらと思っていたし、
謀反の嫌疑で追われるようになってからは、お前を少し・・・恨んだりもした。
油断なく目配りのできるお前がいれば、このような事態は避けられたはず、と」
「九郎・・・、それは、僕の方が詫びなければならないことですよ」
「いや、違うんだ。お前を恨んだのは、俺の自分勝手な思いにすぎない。
それよりも、もし俺が、お前を軍師として連れて行ってしまったなら
俺は、この人達から、お前というかけがえのない薬師を奪うことになっていた」
弁慶は驚いた。
「九郎・・・そんな風に、思っていたんですか」
「詫びねばならないのは、お前にではなく、この人達にだな」
弁慶の顔に、明るい色がさす。
「口の悪い九郎に、ここまで言われると、さすがに照れますよ」
九郎は笑顔で言った。
「京に残ってよかったな、弁慶。この人達に会って、やっと俺はわかった。
これは、おまえにしかできないことだ」
・・・・・・でも僕は、目の前で苦しんでいる人達を救いたいんです。
戦では多くの人が傷ついた。
けれど、たとえ戦が終わっても、傷ついた身体が治るわけではないんです。
そんな人達はあまりにも多くて、僕一人の力は小さ過ぎるものだけど・・・
望美は、弁慶の言葉を思い出していた。
穏やかな笑顔の陰に隠した、無力感と焦燥感と、罪の意識。
・・・・・・敵も味方も、勝ち戦のために、平気で犠牲にしてきた僕が、
こんなきれいごと言うのは・・・おかしいですけど
川に注がれたひとしずくは、あまりにも小さくて、
すぐに流れに飲み込まれて見えなくなってしまう。
けれど、その僅かなひとしずくは、決して消え去るわけではない。
いつしか、ささやかな雫たちは集まって、
川の流れさえも少しずつ変えていくだろう。
弁慶の注いできた一滴一滴は、確かな命を生き続けている。
「弁慶さんのしてきたこと、無駄じゃなかったんだ・・・」
望美の眼が潤んだその時、
「え?え?えーーーっ?!」
素っ頓狂な声が聞こえた。
ヒノエを囲んで、数人の若者が天を仰いだり、地にへたり込んだりしている。
「父ちゃん〜〜」
その中の一人が、馬上の老人の下に駆けてきた。
よく見れば、この前五条橋の上ですれ違った親子だ。
「あのきれいな人、男だったよ〜〜」
情けない声。
「何と!!あの別嬪さんが?」
がくっ・・・と老人はうなだれた。
「ヤローに興味はないって」
「そこで残念がるな、息子よ」
「ひどいよ〜弁慶さん〜」
「え・・・?僕ですか?」
それから数刻と経たぬうちに、その若者は五条界隈の路地を全力疾走していた。
怨霊が現れる度に「ひいぃぃ・・・」と半べそをかきながら、
取り柄の足の速さで、逃げる。
彼の役目は、病人やけが人のいる家に声をかけること。
診療所に避難したい者は、後から梶原の武士が馬で迎えに来るから
支度をしておくように・・・等々。
先触れの役だが、とても重要だ。貴重な馬という移送手段を、
無駄なく活かすことができる。
「ひいぃぃっ・・・ヒノエさん・・・おとこ・・・」
しかし若者はまだ、先程の衝撃から覚めやらない。
「きれいだったのになあ・・・おれ、ころんじゃいそうだ・・・」
怨霊の手を辛くも逃れ、一人ぼやきながらも、若者は役目を果たしていく。
河原には煮炊きの煙が上がっていた。
街人たちが、それぞれの役割を受け持ち、動き出している。
「それぞれよく動いてるな」
「さすがだね」
「おい兄さん、食べてばかりいないで、少しは作る方も手伝ってくれよ」
「食うやつがいないと、作る方は張り合いがねえだろ。俺は張り合いを作る」
「何だよ、それ」
源氏の中枢の三人は、わずかな時間で、
梶原の武士と寄り集まりの街人達との組織を組み上げていた。
警戒すべきは、怨霊だけではない。
怨霊が跋扈する不穏な状況が続くうちには、
必ずやそれに乗じる物盗り、火付け、野盗の類が現れるものだ。
九郎も、ここに来るまでに、それとおぼしき火の手を幾つも目にしている。
結界も張った。
神泉苑での決着がつくまで、ここを中心に何とか持ちこたえることができればいい。
その結果が、勝利ならばよし。
そうでなければ・・・・・・もう逃れる術はない。
まだ眠りから覚めぬ政子を、梶原の郎党に託した。
皆、無言で支度をすませる。
冬の朝というのに、生暖かい。
鴨川は、空の色を映して黒々と流れている。
風がないのに、雲が早い。
京の中心に向かい渦を巻き、吸い込まれていく。
そよとも動かぬ葦の枯れ草を踏み分け、五条橋を後にした。
その背中に、人々の声が届く。
神子と八葉だけの戦いではないことを、望美はかみしめていた。
第5章 闇来
(1)屈服 (2)対峙 (3)集いと別れ (4)それぞれの決意 (5)絆 (6)二つの剣 (7)蘇る幻 あとがき
第6章 懐光