一瞬吹き込んだ冷たい風に、譲は目覚めた。
反射的に身構えるが、戸口を開け放したまま入ってくるような人間は、ここでは一人しかいない。
後から入ってきた敦盛が、そっと扉を閉める。
「おっ、だいぶ顔色がよくなったじゃねえか」
「弁慶が・・・いないようだが?」
「ああ、弁慶さんなら急病人を診に・・・ん?」
譲は敦盛の出で立ちを見ると、怪訝な顔になる。
「これは、その・・・変装の・・・かめふだじゅとかいう・・・」
譲の表情に気づき、敦盛は真っ赤になっている。
やれやれ。確かに源氏は、平家の残党狩りに血道を上げているけど、
これでカモフラージュのつもりなんて、兄さんらしいや。
「兄さんのせいで、災難だったな」
譲の声に、将臣と敦盛が、はっとしたように顔を上げた。
千切れそうに張りつめていた焦りの色が失せ、そこにあるのは明るささえ感じさせる色。
「いや、決して災難などとは思っていない・・・。しかし・・・」
「譲、何かあったのか」
譲は少しの間、黙っていた。
兄の険しい視線が、床についた真新しい剣の傷を捉えている。
「・・・・・先輩からの言付けがあるんだ。
九郎さんは京に来ている。無事だから心配するなと」
将臣が驚いたように顔を上げた。
「望美が、来たのか。お前、確か・・・あいつに会うのは」
譲は、床の傷に目を落とした。
「先輩は、すごい人だったよ。俺が一人で悩んで心配していたことなんか、
軽々と乗り越えていってしまった」
「で、望美はどうした、こんな中、一人で帰したのか?」
「リズ先生を探しに行ったんだ。はぐれてしまったみたいで」
「お前・・・」
譲は屈託なく笑った。
「ああいう時の先輩は、止めてもきかないから」
将臣の険しい表情が消え、笑顔に変わる。
「そっか・・・。詳しいことは聞かねえが・・・、なんだかお前、少しかっこよくなったな」
「何だよ、それ」
「ほめてるんだ」
「ワケわかんないほめ方するなよ。兄貴にかっこいいなんて言われても
うれしいわけないだろ」
「そりゃそうか」
「・・・・・でも、・・・・・・兄さん、ありがとう」
その時、一陣の風が吹き入った。
「ああ、帰っていたんですね」
弁慶が入ってきた。その後ろにヒノエ。
苫屋の中が一気ににぎやかになった。
そして、
「わあ、みんな揃ってる」
「話がある。よいか」
「神子、リズ先生・・・」
「やあ、姫君」
「体調はいいようですね」
「お、リズ先生と無事会えたんだな」
「先輩・・・」
五条に、再び一同が会した。
堀川に沿って北へと向かった景時は、とある大きな屋敷の前で足を止めた。
門番に何事かを囁くと、しばしの後に中に通される。
「しばらくだな、景時・・・いや、今は源氏の軍奉行殿か。無礼な呼び方をしてしまったな。
どうか、許されよ」
「・・・いや、どうぞ、景時とお呼び下さい。相変わらず、オレは不肖の弟弟子ですから」
「しかし、何用あって参られた。今は皆怨霊の調伏に忙しく、主立った者は全て出払っている」
「安倍家の書庫に入ることを、お許し頂きたいのですが」
「・・・そういえば景時は、つい数年前にもそのようなことを言ってこなかったか?」
「あの時は、昔のよしみというご厚情に甘えさせて頂きました。
本当にありがたく存じています」
「今回も、同じくと?それとも軍奉行としてか?」
景時は伏せていた視線をあげた。
かつての口うるさい兄弟子も、今は練達の陰陽師。生半可な言葉は通じない。
「どちらも、違います」
「ならば目的は」
「京を滅びから救うため」
兄弟子の目が鋭い光を帯びる。
突然尋ね来て、何を言い出すかと思えば・・・。
兄弟子は、景時の身体に、真新しい無数の傷を見て取った。
「ついて来られよ。これは、私の一存だ。後でお師匠には詫びておく」
「ありがとうございます」
「時が迫っていることは、私にも分かる。
此度こそは、目的の本を探しあぐねることのないようにな」
櫛笥小路、梶原邸。
夕闇迫る部屋の中、紙燭を一つだけ灯し、朔は端座していた。
兄はまだ帰らない。
しかし、六条堀川から何らかの報せも来ない。動きもない。
今は、待つべき時間なのだろう。
機が熟し、全てが動き始める前の、束の間の静寂の時。
けれど、その「時」が来たら、
自分は何をすればよいのか、何ができるのか。
その時、紙燭の火が小さく揺らめいた。
気配に、はっと顔を上げる。
と、部屋の隅の深い陰の中から、地の底を吹く風のような声がした。
「朔様・・・」
「信直殿・・・?」
「逃げよと・・・申し上げに参りました」
その言葉にかまわず、朔は声の方にひと膝進み出る。
「望美に呪詛を仕掛けたのはあなたね」
「気づいてしまわれましたか」
「なぜ・・・望美にあんなひどいことを」
「白龍の神子は邪魔ゆえ」
「望美はもう、役目を終えてリズ先生と静かに暮らしているのよ」
「それでも、神子は目障り」
「私も・・・神子だったわ」
「神とは、勝手なもの。欲するままに神子を選び、己に仕えよと言う」
「あの人も、白龍も、そんなことはしていないわ!!」
「力を持たず、神子を頼り、神子に救いを求める神が?
人と契り交わしておきながら、あなたを置いて滅する神が勝手ではないというのか」
激していた朔の声が静まる。
「黒龍を・・・侮辱するの・・・?」
それは、月の光よりも冷たい声。
その時、
「朔様!中で人声がしますが」
「失礼します」
扉ががたりと開いた。
彼らが中の様子を認めるより疾く、信直が動いた。
座っている朔に、剣を突きつける。
「それ以上、近寄るな」
「曲者っ!」
「あっ、お前は・・・」
朔が、何事もなかったように言葉を継ぐ。
「龍の宝玉を返して」
「そこまで、気づいていましたか」
「信直、朔様を離せ!」
「貴様・・・何を考えている!!」
「動くなよ。動けばこの剣・・・」
「ならば、お斬りなさい」
「朔様!めったなことは・・・」
「私は、本気です」
「私にはあなたを斬れぬ・・・と侮っているのなら」
「迷わずに斬るといいわ」
朔はすっと立ち上がり、
「卑怯者!」
振り向き様、信直の頬を平手で打った。
乾いた音が響く。
信直は、避けなかった。
「二心持って梶原に仕えた私は、その通りの者」
「違うわ!そんなことじゃない。望美や、あの人のこと、
何も分からないで、傷つけて、貶めて・・・ひどいことを・・・」
この人が、これほど怒りを露わにしたことはなかった。
「これにて、お別れにございます。即刻京を離れ、鎌倉へお戻り下さい」
「やはりこの京が・・・。あなたはいったい、何をしてきたの」
言う必要はない。しかし、隠したままでいきたくはない。
「私は・・・鬼です」
「鬼・・・」
朔は思い出した。庭に怨霊が現れた時のこと・・・。
誰に呼ばれて来たのかという朔の問いに、怨霊が消えゆく間際に残した言葉。
オニ・・・と。
「それならなぜ、同じ一族のリズ先生を陥れるようなことを・・・」
信直の顔に走ったのは、苦い笑いだろうか。
「あなたには、決してわからぬこと。
御免!!」
信直の剣が一閃し、紙燭の炎を消した。
突然襲い来た闇に一瞬怯んだ郎党の間を、信直は駆け抜けた。
何のために・・・行った。
我が身かわいさに逃げ出すような人ではないと、知っていながら。
いつもそうなのだ。自分の辛さは口にせず、
他の者のことを、我が事のように喜び、悲しみ・・・。
女のか細い手が掠っただけのことなのに、
信直の頬はひりひりと痛かった。
己に投げつけられた、どの石よりも。
第5章 闇来