雪の降りしきる京、五条橋のたもと。
そこに建つ小さな診療所に張りついたような粗末な苫屋。
そこからは、夜も更けてきているのに、かすかに灯りが洩れている。
「弁慶さん、準備はもう終わったんですか?」
望美の声に、弁慶は振り向き、彼女の様子に少しほっとする。
顔色がずいぶんよくなっている。それに、気分も落ち着いているようだ。
「ええ。いつみんなが戻っても、大丈夫です」
笑顔で答える。
「僕が動き回っていたので、落ち着いて休めなかったのではありませんか?」
すると望美はくすっと笑った。
「いいえ、そんなことありません。けど、弁慶さんが隣と行き来するたびに、扉がキイキイいうのがおかしくて・・・」
「え?そうなんですか・・・?」
「気づいてなかったんですか?」
「・・・言われてみれば・・・確かに音は鳴っていますね」
弁慶は自分の額に手を当てた。
小屋の修理の仕方といい、弁慶さんて、大ざっぱなところがあるんだ・・・。
望美はちょっと意外だった。
そのことを言ってみる。
沈黙は・・・耐えられない。
みんなはうまく潜入できたのか・・・譲くんは大丈夫だろうか・・・
無事に脱出できるだろうか・・・。
考え始めると、いてもたってもいられない気持ちだ。
自分の無力さが腹立たしくて・・・。
譲くんは私のためにこの世界に残って、そのせいで大変な目にあって、
そして、そんな譲くんを助けるために、大切な人達が危険を冒している。
まだ、少しふらふらするけど、気分はずっとよくなった。
うん、大丈夫。笑顔だって作れる。
「弁慶さんて、自分のことはあまり構わないんですか?」
聞かれて弁慶はにっこり笑った。
「嬉しいですね。きみが僕に興味を持ってくれるなんて」
「ええと、その・・・小屋の修理とか、扉の取り付け方とか、あまり得意じゃないのかなあ、なんて」
「ふふっ、これは手厳しいですね」
「あ、失礼な言い方でした。ごめんなさい。戦場では、軍師のお仕事の時も、お医者さんの時も、
弁慶さんはびっくりするほどいろいろと気配りするなあって思っていたので、ちょっと意外だったんです」
「僕は雨風しのぐ場所さえあればいいんですよ。ここは戦場よりは、ずっと快適です。
昔、九郎と京を脱出して平泉へ逃げた時には、かなり大変な思いもしましたしね」
そういう弁慶は、一瞬、遠くを見つめてるような眼をした。
「弁慶さんは、ずっと九郎さんと一緒だったんですね」
「ああ、昨日リズ先生に、僕たちの昔の悪行を暴露されてしまったんでした。
あまり言わないで下さいね。若気の至りというやつですから、これでもさすがに恥ずかしいんです」
そうは言っても、あまり恥ずかしそうに見えないところが、弁慶の弁慶たる所以か。
「でも、戦が終わってからは、弁慶さんは軍師じゃなくて薬師を選んだんですね」
「ええ、九郎には、これからも軍師として一緒に・・・と請われたのですが」
弁慶は真顔になった。
「僕は、自分の能力をぎりぎりまで振り絞ることのできる、軍師の仕事が好きでした。
だから、九郎と共に、新しい源氏の世で自分の力を試したいとも思いました。
もし、そうしていたなら・・・今頃・・・」
「・・・九郎さんを助けてあげられたのに・・・って?」
「そう、そのように考えた時もありました。けれど・・・」
弁慶はいつもの笑顔に戻った。
「今こんなことを言っていても始まりませんね。
僕はこの場所で薬師として生きると決めたんですから」
「前から弁慶さんはここで困っている人達のために働いていたんでしたね」
「ええ。九郎は為政者として、世の中を上から変えていく者です。
あの九郎なら、立派な仕事がきっとできると信じています。
でも僕は、目の前で苦しんでいる人達を救いたいんです。戦では多くの人が傷ついた。
でも、たとえ戦が終わっても、傷ついた身体が治るわけではないんです。
そんな人達はあまりにも多くて、僕一人の力は小さ過ぎるものだけど・・・」
そう言ってから弁慶は、ふっと悲しげに笑った。
「敵も味方も、勝ち戦のために、平気で犠牲にしてきた僕が、こんなきれいごと言うのは・・・おかしいですけど」
「そんなこと、ないです!」
望美は言わずにいられない。
「弁慶さんの思いは、本物だと思います。今だって、一生懸命やってるじゃありませんか!
きれいごとなんかじゃありません」
「ありがとう、望美さん。医者の僕が、具合の悪い君に力づけてもらうとは、立場がありません」
いつもの柔らかな笑顔に戻る。
・・・・・・・・・「君は待っていてくれますか?ここは僕の診療所なんです。だから、僕が始末をつけなければね」
怨霊が現れた時、戦おうとした望美を制した弁慶の言葉は、柔らかだったが、きっぱりしていた。
その背後に秘めた弁慶の熱い思いを、望美は今垣間見たような気がした。
大切な場所、ここで生きると決めた場所・・・・・。
弁慶にとっては、ここ、五条橋であり、ヒノエにとっては熊野の地。
将臣、敦盛は平家の人々と共に。
そして私は・・・この世界で、先生と。
それぞれの思いが、今、京で交わり、見えない明日を探してあがいている。
望美は眼を閉じ、暗い夜の向こうを思った。
「なるほど・・・。景時殿は本当に食えぬお人だ。
衆人環視の中、平然とこれを書き上げるとは・・・」
京邸の一室。
忍び入った男は、二重になった文箱の底を探り当て、隠された文に目を通すと、皮肉な笑みを浮かべた。
文を読み終え、全てを元通りに直すと、男は音もなく、滑るように部屋を出て行く。
しばしの後・・・、
「うわああああっ!!」
京邸の庭に、悲鳴が響き渡った。
「何事だ?!」
「怨霊か!」
様子を見に飛び出してきた郎党達が見つけたのは、池の側に倒れた河原三郎信直だった。
駆け寄って助け起こす。
「どうしたっ!」
「しっかりしろ、信直!」
揺さぶられて、信直はうっすらと目を開ける。
「おおっ、気がついたか!」
「お前ほどの者が、どうしたというのだ?」
信直の口が、かすかに動く。
「く・・・せ・・もの」
「何っ!」
「まだ邸内にいるかもしれんぞ、探せ!」
信直は、苦しげに首を振った。
「あちら・・・の・・・塀を越えて・・・」
「そうか、わかった。もういいから、手当がすむまで黙っていろ」
「不覚・・・すま・・・ぬ」
「もうよいと言っておろう!」
リズが導かれた先は館の南庭に黒々と広がる池の前。
闇に浮かぶ、無数の動かぬ白い雪に四方を取り巻かれた、音のない世界。
池の水面の上に、点々と狐火が灯っていく。
狐火のゆらめく道の先、薄もやのような光を放ち、水の上に立つのは一人の女。
「こちらまで、来てもよいのよ・・・」
言われるままに、水に足を踏み出す。
リズの身体は沈むことも濡れることもなく、土の上と変わらずに歩を進めることができた。
静止した雪片がリズの体温に触れては、溶けて消えていく。
「久しぶりね・・・。私を覚えているかしら」
「鎌倉殿の北の方か・・・」
「皆さんが揃って来て下さるなんて、思ってもいなかったわ。本当にお友達思いなのね。
あなた達のそういうところ、嫌いではないわ」
「譲を返してもらおう」
「まあ・・・人聞きの悪い・・・。それではまるで、私が天の白虎をさらったみたいではなくて?」
「譲が望んで来たわけでもあるまい」
政子はすねたように少し横を向いた。
「京を守るために、どうしても知りたいことがあったのですもの。
それなのにあの子ったら、なかなか教えてくれないの。
だから、気持ちを変えてくれるまで待つことにしたのよ」
「京を守る・・・?無辜の民の館に火を放ち、意に添わぬ者を拉致してまで、何を知る?!」
「くすくすくす・・・。まあ、昔の主に向かって、ずいぶんな口のききようだこと」
「私は源氏に仕えたことなどない」
「そう・・・そうなのよね、だって、あなたは鬼ですものね。
私が見たこの先に待つ未来の風景・・・あなたなら、美しいと感じるのかしら」
「時の・・・先を見る、だと?」
「ええ、そうよ。私には見えますの。滅び行く都・・・。暗黒に覆われた京が」
「なぜ、お前に・・・見えるというのだ」
「まあ、つまらないことを訊くものね、地の玄武・・・いいえ、今はただの鬼。
私の力、今もその目で見ているのではなくて?」
「お前は・・・何者だ」
袖を口元に当て、政子はおかしそうに笑う。
「くすくす・・・。知らない方がいいことだって、ありますわ。剣を抜いても無駄よ。
だって・・・、わかるでしょう?あなたと私の、力の違い」
「その力・・・何のために振るう」
「あら、もちろん頼朝様のためですわ。京の滅びを止めるのも、頼朝様の名代として当然のこと。
そのためには、新しい神子と八葉が必要なの。龍の宝玉さえあれば、私にはその手助けができるのに」
「やはり・・・宝玉を狙ってのことか。譲に呪詛を仕掛けてまですることではあるまい」
政子は目を見開いた。
「まあ、何のことですの?私がなぜそのようなことを・・・。心外ですわ。
でも、今はつまらぬことで怒っている時ではないわね。
私の見た光景が、誤りだったらよいと願ってきたけれど・・・、もう京の地は穢れてしまったようね。
京のあちこちに怨霊が出たのでしょう。五行の均衡が崩れ始めているわ。
一度生じた歪みは、さらなる歪みを生み、もう崩壊を止めることはできないのよ」
少し首を傾げながら、政子は凄艶な笑みを浮かべた。
「龍神の神子以外には・・・」
「そのために、新たな神子と八葉が必要と言うのだな」
「ええ、あなたの元にいるあのお嬢さんは、もう神子ではないのでしょう?
封印ができないのですものね」
「なぜ、お前がそのことを知っている・・・」
「私の力を、まだわかっていないのかしら・・・鬼。あなたはまだ自分が八葉のつもりでいるの?
そう・・・前の八葉の絆の強さはたいしたものだわ。こうして危険を冒して仲間を助けに来るくらいですものね。
でも、もうあなた達は八葉ではなく、あのお嬢さんが神子に戻ることもないわ」
「・・・・我らの思い・・・お前には分からぬ」
「あら、そんなに不機嫌な顔をするものではなくてよ」
政子はリズに近づいた。
「あの子はもう、神子にはなれないわ。龍の宝玉を光らせることもない。だって・・・」
政子の眼が、すうっと細くなった。
「あなたがあのお嬢さんを・・・穢したのだから」
・・・・・・・・神子・・・・。
望美の姿が、浮かんでは消える。
この言葉を・・・私は予期していたのか?
いや・・・、いつか・・・この言葉を聞くことになると・・・幾星霜も繰り返し・・・
己を戒めてきたのではなかったか・・・。
この言葉を聞きたくないと、心を閉ざし、神子に背を向けねばならぬと、
固く誓った日々があったのではなかったか・・・。
「お前に、何がわかるというのだ?!」
リズの声に、押し殺した怒りがこもる。
「神子と鬼は所詮相容れないものなのに・・・あなたは神子を望んだ。
あなたは、八葉であるだけでは満たされず、それ以上を・・・欲するなんて、
くすくすくす・・・罪な・・・ことね・・・。
そして、あのお嬢さんは、身も心も全て・・・あなたを受け入れてしまった」
リズは剣に手をかけた。
「神子を侮辱するのは許せぬ!!」
望美の想い、私の想いが、運命を乗り越えたように、
この宿命をも乗り越えられると・・・信じた・・・。
信じたからこそ、愛することを・・・許した。
望美と共にあると、誓った・・・。
政子はそれをおかしそうに見ている。
「誤解しないでね。あなた達を苦しめるつもりはないのよ。
だって、あなた達、昔は源氏のために働いてくれたのですものね。
だから、こんな乱暴なことはしたけれど、特別に慈悲をかけてあげようと思っているの。
天の白虎は返してあげる。それに、あなたに一つ、教えておくわ」
「お前の言葉に・・・、真はない!!」
「くすくす・・・。あなたが信じるかどうかは、問題ではないわ。
私は、この京を思って言っているだけなの」
すっと腕を上げ、政子はリズに真っ直ぐ指先を向ける。
「あなたの鬼の気が、怨霊達を呼んでいるのではなくて?
平家には、もうそんな力はないのよ。
今の世でそれができるのは、鬼・・・、あなたしかいない」
恐れていたことが、言の葉となってリズを突き刺す。しかし・・・
「違う・・・私は、京を穢すことなどしてはいない!!」
「そうね、あなたは以前は八葉だったのですもの。そんなことは考えていないわよね。
私も京の人達も、そう信じられるといいけれど・・・」
「私を・・・ここに呼んだのは・・・そのこと・・・なのか・・・」
「あなたはあのお嬢さんが愛しくてたまらないのでしょう?
けれど・・・あなたがあの子を滅ぼす。そして・・・」
政子の眼に冷たい光が宿る。
「鬼・・・あなたが、京を滅ぼすのよ」
第3章 暗鬼