「お友達が迎えにいらしたようね、天の白虎」
動くこともままならない譲を見下ろし、女はくすくすと笑う。
「くっ・・・・」
リズ先生なのか・・・・?何で、今日も来たんだ。あなたがこいつにやられたら・・・・。
そうしたら、先輩を守る人が、いなくなってしまうのに・・・・!
「心配そうね。あなたのそんな優しいところ、嫌いではなかったわ。でも、残念ね」
女の眼がすっと細くなる。
ああ、そうか・・・。
譲は女の残忍な忍び笑いに思った。
とうとう俺、死ぬんだ・・・。
覚悟を・・・決めなきゃならないんだろうな。
でも、俺は・・・・くそっ!俺は死にたくなんかない!先輩の無事も確かめずに死んでたまるか!
・・・・・いや、そうじゃない・・・。
俺は、先輩に・・・・会いたいんだ・・・・・。
他の・・・・男の元にいても・・・・俺は・・・・・。
「あら?なぜそんなに辛そうな顔をしているのかしら?」
女は面白そうに喉の奥で笑う。
「あなたをお友達に返してあげることに決めましたのに」
「何っ?!」
思ってもみなかった言葉。
もちろん、そのまま信じることなどできない。
「くすくす・・・。あなたは本当に賢い子ね。
私の所に来れば、大事にして差し上げますのに、残念だわ」
女は、横たわる譲の傍らにかがみ込み、譲の手を取り、その眼を真上から見据える。
その時、初めて譲は女の顔をはっきりと見た。
「・・・お前は・・・やっぱり・・・・」
「くすくすくす・・・。予想はついていたようね」
政子の眼が、狐火のようにゆらゆらとした光を宿す。
「ねえ、あなたはさんざん私に逆らったのよ。ただで帰っていい、というわけにはいかないわ。
わかるでしょう?龍の宝玉を、私の所に持ってくれば、許してあげる」
「ば・・・かな・・・こと・・・」
やっと、声を出す。
「あのお嬢さんの命と引き替えましょうね」
覆い被せるように、政子は言い、くるりと譲に背を向けた。
「・・・・・許さ・・・ない」
怒りが湧き上がる。こいつ、絶対に・・・!
しかし、譲の怒りに頓着する様子もなく、政子の背中がくすくすと笑う。
「有利な私の方から持ちかけて差し上げたのよ。感謝して頂きたいくらいですわ。
それにね、あの子に手を下すのは、私ではなくてよ」
次の言葉を予感し、全身の毛が、ぞわり、と逆立つ。
「自分でも、わかっているのでしょう?くすくすくす・・・・。
あなたの中の嫉妬の炎・・・心地よいくらいに、燃えていますのね」
「俺は・・・そんなことはしない!」
遠ざかっていく政子に向かい、譲は残った力を振り絞って叫んだ。
「少し、お仕置きが過ぎてしまったかしら。仕方のない子ね。五日だけ、待ってあげる」
「できるわけ・・・・ないだろ!」
「私、もう行かなければなりませんの。約束を忘れないでね、天の白虎」
闇が・・・・後に残った。
「鬼・・・あなたが、京を滅ぼすのよ」
静寂の世界に響いたその言葉だけが、暗闇に燃える炎のように、リズの脳裏に焼き付いている。
一瞬、目が眩み、気がつくと、汗にまみれ、譲のいる小屋の前にいる事に気づいた。
「時」が動き出し、音が押し寄せる。
「・・・・うっ」
「・・・っ」
見張りの武士達が、止められた「時」に飲み込まれたうめき声を、再度吐き出しながら倒れた。
「さすが、仕事が速いね」
ヒノエが降りしきる雪の中から姿を現す。
「じゃ、残りのヤツらも頼んだよ」
そう言うと、小屋の頑丈な錠前に細い金具を差しこんだ。
雪と闇に視界を奪われつつも、篝火を頼りに、次々と見張りの武士達が駆けつける。
その内の一人が、指笛を鳴らした。
ピーーッ!
鋭い音が館中に響き渡る。
「他の者達がここに来るのも間もなくか・・・・。今は譲を救うことが第一・・・」
あの巨大な力の正体は頼朝の妻、政子。
その政子の放った、毒を秘めた言葉の数々・・・・。
凍り付いた時間の中での邂逅は、いったい何を意味するのか。
しかし、リズは目前の戦いに集中する。
ヒノエの解錠を妨げることもできず、集まってきた武士達は、次々とリズの足元に倒れ伏した。
「よう、そっちの首尾はどうだ?」
「笛の音が聞こえてきたが・・・まだ、大丈夫のようだな」
将臣たちが合流する。
落ち合う場所はここ、と決めてあった。
「開いたぜ!」
ヒノエの声を合図に、将臣と敦盛が小屋の中にするりと入っていく。
小屋の中は灯りもなく、真っ暗闇だ。しかし中にも見張りがいると考えた方がいい。
将臣達は油断なく身構え、進んだが・・・・。
中には藁束がいくつかあるばかり。
「空っぽじゃねえか」
「ここは・・・・何もないようだ」
「ちょっと待ってくれる?」
ヒノエも中に入る。
手早く数本の藁を束ねて火を灯した。
床をくまなく照らしていく。
「隠し・・・部屋か」
「地下室ってか?そんな凝ったこと、してるのか」
リズは入り口に立ち、討ち手を警戒する役目だ。
小屋の周囲の篝火を全て消す。
夜目のきくリズは、雪が多少の妨げになるとはいえ、この場に駆けてくる武士より格段に有利だ。
気配を察知し、瞬間移動、そして攻撃。
相手には一瞬のこと。何もわからぬままに雪中に倒れ伏す。
しかし・・・なぜ、このようにたやすいのだ。
疑問が頭をもたげる。
政子は譲を返す・・・・と言った。
それがまことだとすれば、あの刺客は、今宵は現れないということか・・・?
確かに、まだ仕掛けてはこない。本当にそうだとでも?
では、あの刺客、ここに来ないとなれば、・・・・どこに・・・・。
リズの心臓が、ドクン!と打った。
まさか・・・・
神子を・・・・?
「ちぇっ、さんざんダミー掴ませやがって、こいつが本当の入り口か」
小屋の中から将臣の声が聞こえてくる。
続いて、ギギーッと木の軋る音。
神子・・・・無事か・・・?
あの刺客は、危険過ぎる。
それなのに、私はお前を置いてきてしまった・・・。
弁慶は全力で神子を守ってくれよう。しかし、あの者の動きは、疾い。
一瞬の隙をついて、神子に近づき・・・・。
焦燥感がちりちりとリズの心を灼く。
「オッケー、行こうぜ」
将臣の声がした。
肩に、ぐったりと動かない譲を負っている。
「譲は、かなり弱っている・・・ひどいことを・・・」
「さあて、首尾は上々。こうなったら長居は無用ってね」
ヒノエは、小屋の周囲に盛大にヒシの実をばらまいた。
たくさんの足音が近づいてくる。
「じゃ、リズ先生、頼んだぜ」
将臣から譲を預かると、リズの姿は消えた。
後の三人も続けて撤退し、館の外壁で合流する。
「すまぬ!一刻を争う。譲を連れ、先に行く」
口早に言うと、リズは再び姿を消す。
「あ、リズ先生・・・」
「何だか慌てているみたいだね。珍しいな」
「弁慶に手当てしてもらうのは、早い方がいい・・・と、お考えなのではないか」
「なんか・・・あったみてえだな。ま、今は五条橋へ急ごうぜ」
「簡単過ぎたしね。得体の知れないやつも、例の刺客とやらも出なかったじゃん」
「では、リズ先生は・・・・」
「おい!全力ダッシュだぞ!」
「だっしゅ・・・とは?」
「急げばいーんだよ!」
将臣は敦盛の背中をドン!と押した。
考えておくべきだった。しかし、今は後悔している暇はない。
早く!!
一刻も早く神子のもとへ!!
「ん・・・・ん」
譲の意識が戻ったようだ。
「リ・・・ズ」
「辛いだろうが、もう少し辛抱しなさい。すぐに手当する。五条橋で弁慶が・・・」
「先・・・輩・・・は?」
譲の声にこもる苦しさは、身体の傷のためだけではない。
「大丈夫だ・・・・。何も心配するな」
不安と焦りで、目が眩みそうだ。だが、それを押さえ、リズは穏やかに答える。
「どこ・・・・に」
「神子にはすぐに会える」
「違・・・・う。俺・・・を」
譲の身体から力が抜け、言葉が途切れた。再び意識を失ったようだ。
訪れた沈黙に安堵する自分に、軽い驚きを覚えながら、
積もり始めた雪の中、リズは五条橋を目指す。
母屋で目を閉じていた政子が、かすかに眉をひそめた。
「あら・・・・あの子は、しくじったのね。しょせん、そんな力はなかったということかしら。
それとも、龍の宝玉ともなれば、簡単にはいかないということなの・・・・?」
政子は御簾を上げ、雪明かりの庭を見る。
「積もりそうね・・・。まるで、白い帷子のよう。帷子に覆われ、この地は逝く・・・」
庭に数名の御家人が走り入り、政子の前に膝をつく。
「曲者を、取り逃がしましてございます」
「昨日に続き、この失態・・・まことに面目なき次第にて」
「お詫びに拙者、腹を・・・」
政子は御簾の内から歩み出た。
「まあ、そんなに気になさらないで。私、あなた方を咎めるつもりはなくてよ」
「し、しかし・・・これでは頼朝様に・・・、」
政子の口元に婉然とした笑みが浮かぶ。
「かまいませんの。頼朝様は私に全権を託して下さいましたのよ。だから、もうよいのです。
それより・・・・くすくすくす・・・・、逃げたねずみ達が、これからどう動くのか・・・・、
見守ってあげましょうね」
御家人達は沈黙のまま、戻っていった。
彼らには、関与するなどできないこと・・・・。
大切な頼朝様の部下の命、無駄に散らせることもない。
この京は、鎌倉よりも、ずっと古い地・・・・。
「すばらしいですわ・・・・」
我知らず、言葉に出る。
地に眠る、数多の記憶が、私に力をくれる・・・・・。
あれを探り当てたのは・・・、なんという幸運だったのかしら。
おぞましくも、強い・・・・。
あとは・・・・・邪魔な宝玉さえ奪えば。
私の元に、宝玉を持ってくるのは、どの子かしら・・・。
「弁慶さん、そろそろでしょうか?」
望美の幾度目かの問いに、弁慶は笑いながら、幾度目かの答えを返す。
「まだ・・・でしょうね。そんなに心配しなくていいですから、君は横になっていて下さい」
繰り返される、同じ問いと同じ答え。
ちろちろと燃える囲炉裏の炎の周りだけが、ほの明るい。
冷たい雪の降りしきる夜の中、戦っている仲間を思い、その無事を祈る気持ちはどちらも同じ。
その時・・・・・
かすかな足音。
苫屋の外に気配。
扉が開き、冷たい雪が吹き込んだ。
第3章 暗鬼