果て遠き道

第3章 暗鬼

8 鳥辺野



望美は部屋にいなかった。
開け放たれた扉、辺り一面の踏み荒らされた雪を見れば、
何があったかは一目瞭然だ。
廊下の柵の外側に、何かがひっかかっているのをリズは見つけた。
黒い糸が、結びつけられている。

これが意味するところは、何者かの手引きがあったということ。
ここは京邸でも、特に奥まった位置にある。広い梶原邸の敷地の中、
簡単に見つけられる場所ではない。
この部屋に望美がいることを知らせるための目印として、糸を結びつけたのだ。

3組の足跡が裏門へと続いていた。
片開きの小さな門を出ると、馬の蹄の跡が東へと向かっている。
今ならば、足跡を辿って追いつけるかもしれない。
邸内へと、とって返す。

「なんですって?!望美が・・・・」
朔はそれ以上の言葉が出ない。
「うむ。五条橋に行って帰ってくるまでの間に、さらわれたということだ。
短い時間ではないが、馬で追えば何とかなる。すまぬが、今一度、貸してはもらえぬか」
「もちろんだわ。どうか、一番良い馬を使って」
朔はリズと共に馬小屋へと向かう。
「でも、変ね・・・。どうして誰も気づかなかったのかしら」
「あの部屋から裏門までは近い。あらかじめ、邸内に潜んでいたのだろう」
「そうね、あそこは目立たない位置にあるから・・・。それでも、なぜ望美のいる所を・・・」
「・・・・・・・・部屋の前に、目印が付けてあった」
「え?!」
その意味するところに思い至り、朔の顔が青ざめる。

「先生!!」
その時、表門から若い武士が走ってきた。
「今し方、童がこれを」
武士の手には、布切れ。
「あ・・・・」
朔が息を呑む。
望美の着物の切れ端だ。
その上に、汚い字で殴り書きがある。

「女は鳥辺野にいる。鬼一人で来い。」


「はあっ!!」
馬を駆るリズの声が、冷たい空気を切り裂き響く。
雪の早朝・・・・というには、あまりに静かだ。
空を覆う厚い雲は、黒々と渦巻くように動いている。

「五行の均衡が、こんなにも早く・・・・」
リズはつぶやいた。

しかし、心を占めているのは望美の安否。
何者が、このようなことを・・・・。
京邸では努めて冷静に振る舞ってはいたが、一人になった今、
心に渦巻く怒りに、目が眩みそうになる。

その怒りは、望美を連れ去った者達と同時に、己に向けられたもの。
これは明らかに、望美にではなく、自分への怨嗟を持つ者の仕業だ。
そこに、望美を巻き込んでしまった。
鬼である自分が、人と交わって生きることで、悪しき波紋が次々と生じていく。

神子・・・・。私は・・・お前に、災いをもたらす存在なのか・・・。

三十年・・・・これだけの年月があれば、お前を守るため、私は十分に強くなれると 思っていた。
そして運命に従い、お前に生き延びるための剣を教え、お前の命を守った。
それだけで、十分だった・・・。

だが・・・・それなのに、私は、再びお前に救われることになった。
今度は、私の心を・・・・お前は救ってくれたのだ。
孤独な歳月を埋め、補ってなお余りある幸福を私にもたらし・・・・、
私はその歓びに酔いしれていた・・・・・。

しかしその代償として、お前は・・・・。
「先生と一緒にいることが、私の幸せなんです」
幾度と無く、お前は笑顔で繰り返し・・・・そして、
何も得ることなく、限りなく失っていく。
私は、お前に与える何物をも持たず、お前を救う力も・・・・無いのか・・・・?



   愚かな者達も、時に役立つものよ。

   敵う相手ではないと、分からぬ所が哀れだが、
   所詮、それまでの輩。
   猿知恵を働かせて、せいぜい上手くやるがいい。
   
   あわよくば・・・・・手負い傷の一つもつけられればよし。
   返り討ちにあったとしても、ヤツを動揺させただけで上出来だ。

   手はずは整えた。
   雪玉が坂を転げ落ちるように、この街は崩れていくのだろうな。

   くだらぬよ。
   何もかもが。
   人の生きる様が。
   失われたものが。
   失われゆくものが。
   確かなものは、俺の中の力だけ。
   
   その「時」は近い。



京邸に、ものものしい一団が現れた。

「それがしは、検非違使別当殿の使いで参った。梶原殿にお会いしたい」
「今、兄は頼朝様のご用事で留守にしておりますので、 代わりに私が御用の沙汰を承ります」
朔が応対に出る。

使いの武士に、馬鹿にしたような表情が浮かぶ。
「女人が代わりとは、いやはや、困りましたな」
「私は正式に兄の名代を任せられております。ご用件を」

梶原党の者達が小声で囁き交わす。
「おい、こいつは・・・」
「ああ、嵐山にやって来た、無礼な検非違使だ」
「景時様の不在を知らぬはずがないだろうに」
「そこを狙ってやって来たのだろう」

「では、さっさと鬼めの身柄を、当方に引き渡して貰おう」
「何ですって・・・・?」
「おや、妹御は言葉を解さぬか?」
「おのれ、朔様を愚弄しおって・・・」
「よせ!刀を抜けば、かえってご迷惑がかかるぞ」

「京の街に、怨霊が湧き出ているのだ。元凶は鬼に決まっておろうが。
幾度と無く、鬼は怨霊を使って京を穢してきたのだからな」
「・・・・・」

朔の脳裏に、怨霊の言葉がよみがえる。
信直に斬られ、土塊と化す前に、鬼に呼ばれて来た・・・と言ったのだ。
鬼・・・・。それは・・・・。

しかし、朔は検非違使の男を見据え、きっぱりと言った。
「リズ先生は、そのようなことをする方ではありません。
ましてや先生は梶原家のお客人。引き渡すことなどできません」

検非違使は驚いたように言った。
「これはまた・・・気の強い女人ですな。」
「ですので、このままどうぞお引き取り下さい」
朔は手をつき、頭を深々と下げた。

その様子を見る検非違使の目が、意地悪く光る。
「鬼をかばうようなことをなさると、あなたに、検非違使庁まで来て頂くことになりますが」
「え・・・」
「どうです?いろいろと厳しく訊かれることになりますよ。
恐ろしい目にあいたくはないでしょう?」

「貴様ぁ!」
「無礼であろう!」
堪えきれずに、梶原党の者達が朔をかばうように検非違使との間に立ち塞がる。
しかし、朔は静かに彼らを制した。
「いいのよ。それが決まりであるならば、行きましょう」
「な、何と・・・」
「朔様・・・」

朔は側に控えている、梶原家一番の古老に声をかけた。
「きっとすぐに戻りますから、しばらくの間、この家のこと、お願いするわ」
そして、
「みなさんも、しっかりと留守居、お願いします」
「ははーっ!」
「御意!」

思いもよらない朔の返事に、しばしあっけにとられていた男が、
ごほんとおもむろに咳払いして言った。
「あいにくと牛車の用意もないもので、馬に乗って頂くことになりますが」
「人目にさらすというのか?!」
「重ねての無礼、許さぬぞ」
しかし朔は、
「かまわないわ。気になさらないで下さい」
そう言うと、驚いている男に目もくれずに邸を出ると、門の前で待っている馬に
ひらりと飛び乗った。
「では、この馬に乗せて頂きます」
「う・・・それは拙者の・・・」

朔を伴った検非違使の一行は、櫛笥小路を遠ざかり、やがて角を曲がって見えなくなった。
「朔様・・・・」
「こんな時に景時様が・・・」
「しかし、朔様はかりにも景時様の妹だ。めったな真似は・・・」
「いや、そうとも言えない・・・。今の別当は・・・」
「・・・っ!そうかも、しれないな」
「咎人の腕を容赦なく切り落としたっていう、あの平時忠以来の厳しい詮議というぞ」

「何が・・・あった・・・」
よろよろと奥から信直が出てきた。
「おいこら、お前はまだ寝ていろ!」
「俺はいい。それより・・・朔様の声がしたようだが」
「実は・・・・」

一部始終を聞いた信直は、拳を固く握りしめた。
「それで・・・朔様は、リズ先生の代わりに・・・?」
「ああ。迷い無く、そうされた」
「お前達は、止めなかったのか!みすみす朔様を・・・!!」
「落ち着け!信直」
古老が一喝した。

「いかに梶原党とはいえ、天下を律する法には従わねばならぬ。
朔様は、それが決まりであるならば、と申されて、あやつらと行かれたのだ。
経緯を伝え、ことの理非曲直を説くことこそ先決。それをなす前に事を構えては、
景時様の名を汚すことになろうぞ」
信直は俯いてその話を聞いている。握りしめた拳は、わなわなと震えたまま。

「わかったな、信直。そして皆の者、明日まで待とう。それまでに朔様がお帰りに
ならぬ時には、わかるな?」
一同は声を揃えた。
「はっ!必ずや!」

しかし彼らは、待つ必要はなかったのだ。



山道は次第に急坂になる。
降り積もっているはずの雪が消え、ごつごつとした地面が顔を出している。
辺りはいつの間にか赤い光に満ちている。

突然、馬が高く嘶き、その歩みを止めた。
足で地面を掻き、落ち着かなげに身を揺する。

「恐ろしいのだな。ここで待っていなさい」
リズは馬に声をかけると綱を近くの木に結び、一人、道の奥を目指す。

赤く染め上げられた、荒涼とした山道。
立ち枯れた木がぽつんと立っている。
「冥界との端境を行く道か・・・・」
立ちこめる重苦しい気の狭間から、亡者の声が聞こえてくる。
「ここを・・・神子が通っていったのか・・・?」

「む・・・!」
木に引っかかっている布切れ。
望美の・・・・。


足が速まる。
「神子・・・神子・・・・!!」
赤い光が強さを増していく。
行く手に、禍々しい気が立ち上った。
その後ろにだけ、ぽっかりと暗闇が口を開いている。

気はゆっくりと凝集し、やがて人の形となった。
あでやかな着物姿の若い娘。
美しい顔立ち、淋しげな眼、抜けるように白い肌。

しかし、その周囲にゆらゆらとまとわりつく、どす黒い障気が、
その娘が人ではないことを示している。

娘の形の良い赤い唇が、ゆっくりと動いて言葉を紡ぎ、
笑みの形をなす。

「リズヴァーン様・・・」

「・・・・小夜・・・殿・・・」


第3章 了


第3章 暗鬼 

(1)怨霊を呼ぶ者 (2)再会 (3)救出 (4)狐火 (5)代償 (6)潜む影 (7)読まれた書状 第3章あとがき

間章 散桜

(1)夢

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