「ヒノエくん!!」
望美は後も見ず、屋敷に向かって駆け出した。
縄を打たれた男達は、恐い娘がいなくなったことにほっとする。
が、それも束の間、入れ替わりに来た大男が彼らの縄を持った。
「おめえら、後でゆっくり話を聞かせてもらうからな」
頭上から、凄みのきいた声が降ってくる。
男達は震え上がった。
仮にも勝浦の街を根城にしていて、水軍副頭領のことを知らぬ者はいない。
しかも、漏れ聞こえてきた話から、
拐かそうとした娘の正体も薄々わかるというもの。
俺達は、とんでもない娘に手を出してしまったのか……。
後悔するが、もう遅い。
男達は、がっくりとうなだれて、屋敷の中へと引かれていった。
「望美様!!」
「いったい、頭領はどうしたんです?」
「大丈夫なんですか」
「何があったんですか?!」
「副頭領が、人払いして会わせてくれないんです」
「俺達、どうしたらいいのか…」
屋敷に入るなり、水軍の若衆たちが、口々に叫びながら望美を取り囲んだ。
「そ…そんな…ヒノエくんに何があったの?」
「望美様も、ご存じないんですか?」
「ご一緒に街に出掛けたのでは?」
「それが…私、ヒノエくんと途中ではぐれちゃって…」
「そ、そうだったんですか…」
「………あ!すみません、俺達が引き留めちゃって」
「そうでした。早く行ってあげて下さい」
「烏に運ばれてきた時には、もう…顔色が真っ青で…」
「ぐったりしていて、全然動かないんです…」
「こら、馬鹿!!望美様にそこまで言うな!」
「あ……」
終わりまで聞かないうちに、望美は全力で走り出していた。
「ヒノエくん!!!!」
幾度もつまづき、転びそうになりながら、奥の間に急ぐ。
廊下も庭も、厳重に警護されている。
異常なほどの警戒ぶりだ。
皆、望美を見ると一礼して道をあけるが、
誰一人として口をきく者はいない。
どうしたの……
何があったの……
ヒノエくん!!!
望美は、奥の間へ駆け込んだ。
部屋の中央に設えられた褥に、青い顔のヒノエが横たわっている。
眠っているの……?
「ヒノエくん…」
望美はそっと呼びかけた。
だが、ヒノエのまぶたは閉じたまま、ぴくりとも動かない。
「望美様……実は…」
後ろから、副頭領の声がした。
「何があったの?!ヒノエくん、どうしちゃったの…?」
望美の言葉に、副頭領は、ひどく辛そうな顔をした。
その時、慌ただしい足音と共に、配下の者が走ってきた。
「何事だ、騒々しいぞ!」
副頭領は不機嫌な声を出した。
「申し訳ありません!
ただ今、法皇様からの御使者がおみえになりました」
「何だと!」
「頭領に、御依頼の儀がある、とのことで…」
「…こんな時に……」
副頭領は、顔をしかめて唸った。
そして望美に向き直る。
「すみません。すぐに戻りますので、どうぞ頭領のおそばに」
望美は、こみ上げる涙をこらえながら、頷くしかなかった。
その夜遅くなってからも、熊野別当の屋敷の奥では、
慌ただしく人が動きまわっていた。
しかし、表向きはいつもと変わらぬ様子。
法皇の使者も、まるで何事もなかったように、しずしずと帰っていった。
「この虚勢、どこまで続くか…」
皮肉な笑みと共に、裏山に身を潜めていた男が呟いた。
男が探っていたのは、屋敷の奥での動き。
その場所からは、人の出入りがよく見える。
別当が部屋に運び込まれ、医者が呼ばれ、
ほどなくしてすごすごと立ち去った。
その後に入った妻は、大きな嗚咽の声を上げたきり、出てこない。
長い外套を纏った法師が続いたが、顔は布に隠れて見えなかった。
巨漢の副頭領は、出たり入ったりを繰り返している。
そして夜半を過ぎ、法師は部屋を出ていった。
そこまでを見届けると、男はその場を後にした。
薊様は失敗したようだが、我が頭領は勝った。
夜陰の山道を駆ける男は、高揚する気持ちのままに樹間の空を仰ぐ。
山道の木に罠を仕掛けたのが、つい昨日のことのようだ。
頭領自らが囮となり、それに欺かれた敵が見当外れな方向を
探っている間にも、我々は着実に動いてきた。
幾度、つなぎを取りに、京と熊野を往復したことか。
別当の骸をさらしものにできなかったのが心残りだが、
その死を、いつまでも隠しおおせるものではない。
いや、隠すこと自体、己が首を締めるようものだ。
さっさと使者に伝えておけばよかったものを。
法皇の到着が楽しみだ。
これから、さらに……熊野は追いつめられることになる。
深き緑に
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