深き緑に(まばゆ)き青に  〜14〜




バシッ!!

顔を叩かれた男が、部屋の端まで吹っ飛んだ。

取り囲む男達は、全部で五人。
皆、黙したまま見ている。

「頭領……申し訳ありません」
倒れた男は起きあがると、部屋の中央に立つ若い男に向かい、ひれ伏した。

ほっそりとしなやかな体躯をもつその男は、
冷たい一瞥を送ると、くるりと踵を返し、上座へと着く。

「俺はいいかげんな報告など、聞きたくない。
なぜお前は、湛増の骸を確認しなかった?
その程度の知恵もないのか」

「し、しかし…あの警戒ぶりを見れば、
大事を隠そうとしているのは明らかと…。
やつは、院の使者への目通りさえ、していないのです」
「ほう……むしろ俺が考え過ぎなのだ…と言いたいか」
「め…滅相もございません!」

「今となっては、何を言っても無駄…か」
上座の男は、別の男に向き直った。

「薊がしくじったそうだな」
「はっ」
「お前が段取りをつけたのではなかったか」
「法師の出現が……誤算でございました。
あの娘も、評判以上の強さで…」

「法師か。別当の屋敷に現れたやつだな」
「奥の間まで入ったのを見届けております。
おそらくは、藤原家ゆかりの者かと思われます」

「おそれながら」
一番年配の男が口を開いた。
「その法師は、湛快の弟、武蔵坊弁慶に相違ないと」

かつての戦で名を馳せた、源氏の軍師の名は重い。
ざわ…と、一同に動揺が走った。
「なぜ、この時に熊野に舞い戻ってきたのか?」
「まさか…」

しかし上座の男が一喝する。
「心を乱すな!これまでの我らの歳月を忘れたか!」

その言葉に、場は水を打たれたように静まりかえった。

「その法師、奥の間は出ても、屋敷からは出ていないのだな」
「はい、私が見張っておりました間には」
「ならば、放っておけ。
屋敷に居ながら、我らを止めるなど、できることではない」
「はっ!その通りにございます!!」

男は上座から立ち上がった。

「我ら、もう仮面など纏う必要はない。
見せ物に集まる有象無象に取り入ることもない」
「この時を、待っておりました」
感極まった声で、年配の男が言った。

「まだ、早いぞ。泣くも喜ぶも、積年の恨みを晴らしてからだ」
「はい、そうでございました」

「では、行く。
各自、務めを果たせ」
「御意!」
声を揃え、一斉に返事が返る。

男は、部屋を出た。
もう夜も深い。十三日の月が、天空に輝いている。

男は空を仰ぐと、潮騒の音に満ちた街を抜け、
夜陰に音もなく、その姿を消した。





「望美様を襲ったごろつきの依頼主ですが…」
しばらく席を外していた副頭領が、渋い顔で戻ってきた。

「今まで会ったことのない男だそうです。
礼ははずむからと言われ、最初に酒までふるまわれたようで」
「へえ、ああいう手合いは顔だけは広いものだけどね。
そういうヤツらが知らないんなら、勝浦の者じゃないって事になる」

「で、具体的にはどんな依頼だったのでしょう」
「娘が二人、小屋の前を通るから、後から来る娘をさらえ、と
言われたそうです。
目印は、先に通る荷箱を背負った物売りの娘だからと」

「僕が小耳に挟んだことと一致しますね。
嘘はついていないようです」

「え?小耳に挟んだって…どういうことですか」
「知ってたなら、早く教えろよ。
おかげで姫君は大変な目にあったんだぜ」

「そんな暇はなかったんですよ。
街で偶然耳にした言葉が、きっかけだったんですから」

「何て、言ってたんですか」

「『待ち伏せはあの小屋か?』
『娘一人とは、ぼろい仕事だな』
『でも強いらしいぜ…』
みたいなことでしたよ。
昔の名残かな。こういう話は聞こえてきてしまうんです」

「でも、それだけで悪企みが分かったんですか?」
「ええ。人を人相風体だけで判断することはできませんが、
街の人が、人混みの中でもぶつからないように避けてましたから、
どんなやつらかは、想像がつきました」

「それで、後を尾けたってわけ?」
「そういうことです」
「毒は毒屋だね」
「僕を、あいつらの仲間みたいに言わないで下さい」

「でも、気に入らないね」
「どうして?ヒノエくん。弁慶さんは助けてくれたのに」
「お前に棒を一本渡しただけだよ」
「望美さんが強いのは知っていましたから」
「いえ…それほどでも…」
「清らかな姫君を、ごろつきの手に触れさせるなんて、
オレには許せないね」
「いかにも怪しげな娘が目の前にいても、見逃せと?」
「当然」

「もう大丈夫ですね」
弁慶は笑顔を見せた。
「その言い方は、いつものヒノエです」

「オレはいつだって、大丈夫さ。
姫君のためならね」
そう言うと、ヒノエは立ち上がった。

「ヒノエくん…、起きていいの?」
望美は、ヒノエの顔をのぞき込んだ。
まだ顔が青白い。
手に触れれば、ひんやりと冷たい。

だが、ヒノエはいつものように笑ってみせた。
「花に宿る憂いの翳もいいものだけど
姫君に似合うのは、とびきりの笑顔だよ」

「ヒノエくん……どこに行くの…?」
望美は思い出した。
さっきヒノエは、最後の戦に行く……と言ったのだ。

この身体で?

「私も、連れて行って」
しかしヒノエは黙ってかぶりを振った。

「なぜ?」

「これは、オレに仕掛けられた戦だから」
「戦って何…?私には分からないよ」
「熊野別当、藤原湛増が受けて立たないとね」
「だって、あっちが勝手に恨みを持って、卑怯なことを…」
「それが、熊野に向けられたものならば、オレは退けない」

もう夜も更けている。
副頭領が灯した燈台の灯りが一つだけ、部屋を照らす。

揺らめく灯火が、ヒノエの瞳に映っている。
その瞳には、揺るぎない決意の色。

望美は、ヒノエの背負ったものの重さ、
熊野別当であることの重さを、感じずにはいられない。

その身に集まる、人々の尊崇と富と権力。
しかし明るい光の当たるところには、必ず影ができるもの。
光が強ければ強いほど、
目に見える華やかさと同等に、あるいはそれ以上に、
人の心の闇、いわれなき憎悪もまた、浴びなければならない。

けれど、望美には分かる。
ヒノエは、その重さに、微塵も怯んではいない。
まだ少年の輪郭を残すほっそりとした肩に、
熊野という国を担い、真っ直ぐに立っている。

「ヒノエくん、信じてるよ」
望美はにっこり笑った。

「お前は、サイコーだよ、オレの神子姫様」
そう言うと、ヒノエは望美の頬に小さく口づけた。

弁慶は見ない振りをしていたが、副頭領は真っ赤になる。

「じゃ、行くぜ。これ借りるよ」

ヒノエは弁慶の外套を取り上げると、
弁慶がいつもするように頭からかぶった。

「これで僕はここから出られませんね」
「オレの姫君に近づくなよ」
「さあ、どうでしょう」

ヒノエは弁慶そっくりの歩き方で出て行った。
痛めた足をかばうことさえしない。

この部屋は見張られている、と言っていた。
ヒノエの行動は、それを見越してのことだ。

望美が扉を閉じ、振り返ると、
「僕は少し休みます」
弁慶はそう言うなり、その場にごろりと横になった。
すぐに規則正しい静かな寝息が聞こえてくる。

どんな場所でも、どんな時でも、休める時に休む。
戦場の倣いだ。

熊野は今、見えない戦に巻き込まれているのかもしれない。

一つだけ灯った明かりを見つめながら、
望美は、潮騒の音に耳を澄ましていた。



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