深き緑に(まばゆ)き青に  〜12〜




「入ってよいぞ」

その声に、白拍子の娘は、滑るようになめらかな動作で
几帳の内に入り、深々と頭を垂れた。

「どこに行っていたのだ、薊」

かすかに眉をひそめるが、その顔は、法皇からは見えない。
鈴の震えるような細い声で、詫びる。

「申し訳…ございません」
「一座の方にも、出ていなかったというではないか」
「はい…」
「どこぞに、よい男でもできたか」

言葉の底に潜むどろりとした感覚に息を止めるが、
顔を上げて、法皇の細めた目を見れば、
退屈しのぎに、からかっているのが分かる。

「すみませぬ……薊は…その…」
恥じらうように、少しうつむき、小声で言う。
「街の賑わいが…あまりに楽しくて…」

法皇は、破顔一笑した。
「それで、日がな一日遊びほうけていたとな」
「…はい……申し訳ございません…」

「そういうところは、童のようじゃな。
お前は本当に、ういやつよの」

「そのような申されよう……薊は、恥ずかしゅうございます」
頬を染めて身を縮めると、法皇は薊の手を取って側へと引き寄せた。
「いいや、お前は童じゃ。童なれば、楽しく遊ぶがよいぞ」

問うように目を見開き、身を捩って、薊は法皇の顔を間近に見上げる。

「舟遊びじゃ、薊」
くっくと、喉の奥に笑いを含んで、法皇は言った。
「狭い京の池とは違うぞ。熊野の広い海に舟を浮かべる」

兄上様!ついにこの時が参りました!

心の中で叫ぶが、顔には出さない。

震える声で、おそるおそる…という様子を作り、尋ねる。
「あの…私も舟に乗るのでしょうか…」

「もちろんじゃ。舟遊びの話を、ずいぶん面白げに聞いておったではないか」

「海…なのでございましょう?」
「なんだ、恐ろしいのか」

潤んだ瞳を法皇の目にひた、と据え、無言で頷く。
その瞳を瞬きもせず凝視したまま、法皇は続けた。

「高い綱を渡り、とんぼを切ってみせるというに、海が恐いか」

「……はい。…でも、法皇様もお乗りになるのでしたら…」

法皇は目を細め、再び喉の奥で笑った。

何を考えているのだろう…。
気になる。
しかし、ここまできて、うかつに話を壊すことはできない。

薊は唇を少し開き、微笑んだ。
「どうか薊も、お舟に乗せて下さいませ」

その唇の輪郭をなぞるように、指が動く。
「天気も上々。お前も上々じゃ。
楽しもうぞ、薊」

そう……存分に、お楽しみ下さいませ……。
美しい熊野の海を……。

さらに動き続ける指の感触に、薊は眼を閉じ、心も閉じた。






部屋に入り日が射している。

副頭領が去り、望美はヒノエと二人きりになった。

「眠っているの…?ヒノエくん」
足音を忍ばせ、身動き一つしないヒノエに近づいていく。

「きっと、眠っているだけだよね」

夕凪の時間。
部屋には潮騒の音もなく、望美の耳に聞こえるのは、
懸命に嗚咽を押さえる、自分の息づかいだけだ。

「ヒノエくん!」
大きな声で呼ぶが、返事はない。

ヒノエの隣に膝をつき、ぐったりと投げ出された手を取る。

その手は、氷のように冷たい。

「ヒノエくん!!目を開けて!!応えて!!」

長い睫毛が青い顔に影を落とし、まぶたはぴくりとも動かない。

「いやああああああ!!ヒノエくん!!」
これ以上は、がまんできなかった。
望美は、横たわるヒノエを抱き、その場に泣き伏した。

「ヒノエくん…私……私…」

と、耳元で、ささやき声がした。
「なかなかいいものだね、花のかんばせに宿る露の雫」

「!!……」

ヒノエくん! と叫ぼうとした望美の唇を、ヒノエの口づけが塞いだ。

あっけにとられたまま、いつのまにか望美は、
ヒノエにしっかりと抱きしめられていた。
状況を把握できず、様々な思いが次々と浮かんでは消える。

何?
私…ヒノエくんとキスしてる…
あ、ヒノエくん、生きてたんだ!
……よかった
で、なぜこうなったの?
副頭領、深刻そうだったけど…
みんなも大騒ぎして
で……
もうっ!!
こんなこと…うれしいけど…してる場合じゃないでしょっ!!

離れてくれないヒノエに、眼で抗議する。
ヒノエはいたずらっぽく笑って、望美を解放した。

「!!……」
なんで?! と叫ぼうとするが、今度はヒノエの人差し指が、
望美の唇に押し当てられた。

ヒノエの眼に宿る真剣な光を見て、瞬間的に、言葉を飲み込む。

「ごめんね、姫君。この部屋、見張られているんだよ。
そしてオレは、死んだことになってる」
ヒノエは低く抑えた声で言った。
「意味は…分かるね、オレの神子姫様」

そういいながら、ヒノエは腕の付け根にきつく巻いた紐をくるくると解いた。
腕が冷たかったのも道理だ。
次いで、顔に塗った青白い白粉も拭う。

望美はまだ混乱していたが、今、緊迫した状況にあることだけは理解できる。

「敵を欺くにはまず味方から…ってね」
「それにしても、私までだますなんて、ひどいよ」
「すまないと思ってるよ。でも、姫君にウソをつけ、なんてオレが言うと思う?」

「ああ、私、ウソが下手だもんね」
望美は、少ししょんぼりした。

「ごめん、じゃあ、お詫びのしるしに…」
「……ちょ、ちょっと、今はそんな場合じゃ…」
「なさそうだね。無粋な野郎が来た」

「望美さん、入りますよ」
弁慶の声がして、静かに扉が開いた。
副頭領も一緒だ。
部屋が一気に狭くなったような感じがする。

「無粋で申し訳ないですね」
弁慶がにこやかに言う。

副頭領は、いきなり望美の前でがばっと頭を下げた。
「望美様…!!申し訳ありません…!!」
小さな声で、目一杯叫んでいる。

「心ならずも、ウソをついた次第。
お顔を見るのが、本当に辛かったです」

望美は思う。
そういえば副頭領も、熊野男だった…。

「もういいですよ」
小さくなって平謝りしている副頭領に向かい、望美は言った。
「ヒノエくんが無事だった…それだけで、私はいいです」

ヒノエは、口笛を吹きたそうな顔をした。
「ちょっと、ヒノエがうらやましいですね」
弁慶は笑い、なぜか副頭領は真っ赤になる。

「ねえヒノエくん、何があったのか教えてくれる?」
そう言ってから、望美は付け加えた。
「もし、その時間があれば、だけど」

「さすがですね、望美さん」
「やっぱり、オレの姫君だね」
「む…むうう」
「だって、これってどう考えても、事が起きてる真っ最中だよ。
のんびりしてる暇はないんじゃないかな」

「お前には心配をかけたし、ちゃんと説明するよ。
最後の戦の前にね」



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