勝浦の街は、朝から大変な人出だ。
どこで聞きつけたのやら、皆、海岸へと集まっている。
法皇様の御一行がいらっしゃるそうだ。
舟遊びをされるそうな。
物見高い人の数は、どんどん増え続ける。
見れば、きらびやかに飾り付けた舟がある。
隣には、護衛のためか、水軍の無骨な舟も係留されている。
どちらの舟にも、既に漕ぎ手が乗り込んでいて、すぐにでも出港できそうだ。
準備は万端。
人々が、まだかまだかと待つうちに、
「来たぞ!!」
「道を空けろ!!」
遠くでどよめきが起こり、それは次第に近づいてきた。
人の群も、そのどよめきと一緒に移動してくる。
輿から法皇が降り立った。
お付きの女房達も降りてくる。
皆、恥ずかしげに扇で隠してはいるが、
ちらりと垣間見えるその顔は、粒よりの美人ばかり。
人々の間に、一斉にため息が漏れた。
法皇が、側近くに寄り添った、ひときわ美しい女房に、
何か話しかけた。
女房は頷くと、随身の手を借りて、飾り付けられた舟に乗る。
次いで、それに劣らず麗しい女房も、しずしずと乗り込んだ。
と、その女房の合図で、まだ女が二人しか乗っていないというのに、
舟のもやい綱が解かれた。
先に乗った女房が、はっと顔を上げる。
法皇はと見れば、今しも、水軍の舟に乗り込もうとするところ。
巨漢の副頭領に支えられて、舟の舳先に立った法皇は、
満悦至極な顔で笑った。
そして、隣の舟の女房に向かって、
「舟競べじゃ。面白き趣向よの」
そう言うと、呵々と笑った。
女房を乗せた舟が、滑るように岸を離れる。
「先にゆくがよい。余は海賊じゃ。
海賊に掴まらぬよう、よう逃げるのじゃぞ」
くっ……
女房が、赤い唇をきつく噛んだ。
法皇が何か企んでいると、薊が言っていたが、
まさか、このようなこととは……。
舟は沖へと進んでゆく。
法皇の軍舟が遠ざかる。
「どう?気に入った?」
後ろからの声に、女房姿のアザミは、ぎくりとした。
しかし、動けない。
身に纏った重ねの上から、背に押し当てられているのは、
三つの刃を持つ、あの武器だ。
「別当殿は、悪運が強いようだ。…おまけに…」
素早く考えを巡らせながら、アザミは言った。
すぐに刃を突き立てなかったのが、こいつの甘いところだ。
時間を稼げば、まだ、勝機はある。
「悪知恵も、かなりものだ」
「何のことかな」
「この舟競べ、あんたの入れ知恵だろう」
「よくわかったね。法皇様が喜んでくれて、オレもうれしいってね」
「では、法皇からの使者は……」
「やっぱり、オレの屋敷を見張っていたようだね。
使者には、今日の段取りを詳しく書いた文を渡したよ」
「そういう……ことか」
言うなり、アザミが動いた。
女房装束が、ヒノエの視界いっぱいに広がる。
船縁を蹴って高く反転すると、アザミは針を突き出した。
上からの攻撃を、ヒノエは装束の袖を振って払う。
くるりと振り向けば、アザミは舟の中央に立っている。
「簡単に後は取らせないよ」
ヒノエは、自らも、纏っていた装束の紐を解いた。
華やかな色目を見せながら、衣が身体をすべり落ちる。
「おお!!これは、何としたことじゃ?!」
ゆるゆると出航した軍舟の上で、法皇が叫んだ。
遠目ながらも、鮮やかな装束の乱舞と、
それを脱ぎ捨てて対峙した、二人の若者の姿は見える。
「これも、趣向の一つでございます」
副頭領が、恭しく言った。
内心の不安を、微塵も見せてはいけない。
「だだだ大丈夫です。
この舟は速いですから、絶対勝てます……痛っ!」
「お前は黙ってろ」
副頭領は、元間者の足を踏んずけると、思い切り恐い顔で睨んだ。
「ひぃぃぃ…ごめんなさい」
「そもそも、何でお前が乗ってるんだ」
「せっかくだから」
「おとなしくしてねえと、海に放り込むぞ」
「おとなしくしてますやくそくします」
「しかし、その気弱そうな男の申すことも、もっともやもしれぬな。
大男が大勢乗り込んで、本当に飾り舟に追いつけるのかのう。
あちらは、船足も軽そうじゃ」
法皇の言葉に、副頭領はどん!と厚い胸板を叩いた。
「そのことでしたら、ご心配は不要でございます。
熊野水軍の力、お見せ致しましょう」
「おお、頼もしいことじゃ。
あのようにして、別当自ら趣向に加わってくれるとは、
追いついてからが、楽しみよのう」
陽が高くなってきた。
法皇は眩しげに手をかざして、海のきらめきの向こうを見やる。
飾り舟の上では、鮮やかに舞うかの如き戦いが、繰り広げられていた。
「いずれ、あんたが妹と入れ替わるとは思っていたよ」
「読みが当たって、満足そうだな、藤原湛増」
「計略が読まれて悔しそうだね、藤原湛覚」
「………俺の名まで、知っているのか」
「意外と知られてるんだよ、あんたたちは」
「それは光栄。悪名高い、とでも言いたいんだろう」
「いや、サイテーだね。
自分の妹を、平気であの法皇に差し出すようなあんたは」
「はん…。あんたは、女のことには偽善者だ」
アザミは、鼻先で笑った。
「目的のためだと、薊は承知している。
あんただって、熊野のためなら、誰彼かまわず犠牲にするんだろ」
「熊野のため…?」
ヒノエの眼が、怒りを含んで光った。
「熊野に生まれたあんたが、今やっていることは、何だ」
ふっ…と、アザミは笑う。
「ちょっとした準備さ。
あんたには、分からない。分かる必要もない」
「トボけてすむ話じゃないぜ」
「ふうん、じいさんを別の舟に乗せたってことは、
やっぱり気づいてたんだ」
「法皇を、どうするつもりだった…」
「長い間、好きなことしてきたんだ。
もうそろそろ、常世の国で休んで頂いてもいいんじゃない?」
アザミは、トン!と足元を蹴った。
床板が裏側にくるりと返る。
同時にアザミは身を低く伏せ、板に挟み込まれていた大針を抜いた。
目にも止まらぬ速さで、大針がヒノエの胸元に走る。
深き緑に
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