山道は次第に険しくなってきた。と同時に、息苦しさも増してくる。
ただでさえ、頭を下げた形で馬の背にくくりつけられているのだ。
気絶したふりをしたまま、望美は懸命に息を整える。
とにかく今は、この男達の企みの一端でもつかまなければ。
「ここから見ると、ずいぶんせり出した岩だな」
「確かに、あそこからなら下がよく見えますぜ」
男達は、さっき話題に上った場所を指してあれこれ言っているようだ。
「けど、本当にうまくいくんで?なにしろ、鬼は姿を消せるんですぜ」
「そうよ、あの時も、いきなり俺達の後ろに現れやがった」
あの時・・・・?
「だからよ、女を囮にすりゃいいのよ」
「要は、鬼の動きを止めりゃあいいって寸法だ」
「そういうことか」
「鬼といっても、鳥みてえに飛べるわけじゃなし、崖の上と下じゃあ何もできやしねえさ」
どういうこと・・・?
私を囮にして崖の上から先生を・・・って?
その時、望美は気づいた。
道の前方に、禍々しい気が凝集している。
この先に、何かがある!
突然、馬が高く嘶いて前足を蹴り上げた。
馬上の男があっけなく落ちる。
次いで、馬が後ろ足を上げ、胴震いしたところで、くくりつけていた綱が緩み、
望美は空中に放り出された。道端の木に当たり、背中をしたたかに打つ。
着物の端が枝にひっかかって破れた。
馬は目の前でまだ暴れている。蹄にかかってはたまらない。
咄嗟に馬との間合いを測るが、両手両足の自由がきかない。
身体を起こすのが精一杯だ。
馬を落ち着かせようとする男達の人数を見て取る。
六人・・・。
もしかすると・・・。
鞍馬の庵を襲った野盗と同じ数。
すばやく周囲に目を走らせる。
しかし・・・・
手足を縛られた状態で、隙をついて逃げられる人数ではない。
頭とおぼしき男が、望美に向き直った。
望美を見下ろす顔に、下卑た笑いが浮かぶ。
「気絶したふりがうめえじゃねえか。さすが、鬼の女だな」
「!・・・」
気づかれていた?!
「俺達の話を聞いてたんだろうが、無駄だ」
頭はそう言うと、自由のきく方の手で望美の髪をつかみ、顔を上向かせた。
「よく見りゃ、けっこういい女だ。
鬼を始末したら、その後は・・・まあ楽しみに待ってろ」
嫌悪感で吐きそうになる。
望美は、ぎりっと歯を食いしばった。
「くそおっ!!」
「逃げられたか・・・」
暴れる馬を取り押さえることはできなかったようだ。
蹄に蹴られたのか、幾人か怪我をしている。
「ちっ!」
頭は舌打ちすると、一番屈強そうな手下に命令した。
「この女を担いでいけ。縛ってあっても、気ぃ抜くんじゃねえぞ。
鬼と通じてる女だ。何するかわからねえ」
男の肩に担ぎ上げられ、再び荷のように運ばれながら、望美はリズの話を思い出していた。
子供の頃、悪党の隠れ家に連れて行かれた時、先生も、脅されたんだ。
でも先生は怯まなかった。
冷静に、機を窺って、一気に勝負をかけたんだっけ。
誰一人、助けてくれる人のいない中で・・・小さな子供だったのに。
望美は自分に言い聞かせる。
私も、落ち着いて・・・・怯えずに、よく見て、脱出の機会を見逃さないように。
先生は、きっと来てくれる。
その時に、足手まといにならないように。先生と一緒に戦えるように。
私は、先生の弟子なんだから。
いくばくかの後、同じ道を辿り来たリズは、
赤く染め上げられた地に立ち現れた、闇と対峙していた。
闇のなす形は、美しい娘。
娘は、妖美な笑みをリズに向けている。
その娘を、リズは知っている。
出会ったのは、まだリズがヒノエか敦盛ほどの年の頃だったか。
しかし、娘の姿は変わらぬままだ。
「リズヴァーン様・・・お久しゅうございます。お会いしとうございました」
娘は、笑みを浮かべたまま、ゆっくりと近づいてくる。
それはすでに、人ならぬ者。
歩む度に、その足下には黒い障気が立ち上り、小さな渦を巻きながら広がっていく。
「小夜殿・・・黄泉国の人と、なっていたのか」
「私を覚えていて下さったのですね・・・・」
娘は袖を口元に当て、はにかむように上目使いでリズを見る。
その仕草は、生き人であった時と同じ。
「うれしゅうございます」
娘が笑い、長い髪が障気の風にあおられてなびく。
リズの手が、剣にかかった。
「なぜ、現世に姿を見せた」
「あなた様をお迎えに・・・」
娘から、黒い障気が吹き付ける。
それより速く、瞬間移動。
娘の顔が悲しげに曇る。
「小夜と来るのが、いやなのですね。
また・・・小夜を・・・お捨てになるのですか?」
「誰かを捨てるなど、できようか。交わらぬ道を行く・・・それだけだ」
再び、障気の風。前よりも、疾い。
「・・・・・・・やめるのだ!小夜殿!」
「あなたが去ってしまわれて・・・私は屋敷に連れ戻されました・・・。
けれど、流行病に冒されて・・・」
「・・・・私を恨んで、みまかったというのか・・・?」
「あなたを思いながら死んだ私は、この地に捨てられ、黄泉路をゆくこともできませんでした」
娘の目が、かっと見開かれた。
「なぜ、あの時私を助けたのです?!生きることなど、とうにあきらめた私を・・・」
障気がふくれあがり、嵐の如き力となって襲い来る。
間合いがつまる。
「傷を負い動けぬ者を、山中に見捨てられようか?!」
障気が身体をかすめた。外套の縁が千切れる。
「あなたは・・・・酷いお方。優しくしておいて・・・冷たく突き放して・・・。
小夜を寄せ付けようとも・・・なさらなかった」
雷光の中の情景が、めくるめく蘇る。
息の詰まるような、あの時・・・
初めて、己の心の真実に気づいた。
自分の、想いの在処に。
障気が腕を広げ、四方から襲いかかる。
気づいてなお、受け入れるなど・・・、できなかった。
それが・・・私の罪であるならば・・・
リズは眼を閉じ、言葉にならぬ祈りを唱えた。
刹那、剣の一閃。
「う・・・・」
娘が、身体を押さえ、うめいた。
「小夜・・・殿・・・!」
障気を断ち切った剣を握りしめる。
「これが・・・あなた様のお心・・・と?」
リズは剣を納め、目を上げて、すがるような娘の視線を静かに受け止める。
「・・・・・そうだ」
娘は懇願するように言った。
「詫びることすら・・・してはくれないのですか」
「詫びるくらいならば・・・斬ったりはせぬ。小夜殿の恨みの心は・・・全て受けよう」
リズの声に苦悩が滲む。しかし、その目は娘に向けたまま、そらさない。
「小夜殿に・・・私ができることは、・・・これだけだ」
「愛しんで・・・いただきたかっただけ・・・・」
娘の形が揺らいだ。
「それは・・・できぬ」
「あの時も・・・そう仰った・・・。私を・・・求めていたのに・・・」
「・・・・人を、形代として愛することはできない」
娘は嗚咽の声をもらした。その目から、一滴の涙が流れる。
「小夜は・・・それでもよかった・・・
たとえ・・・あの娘の、身代わりでも・・・・」
そのまま静かに娘の姿は薄らいで、消えた。
「神子を知っているのか?!!」
中空に広がる闇に向かってリズは叫ぶ。
「お急ぎなさいませ・・・。鳥辺野は、異界と重な・・・」
娘の声が虚空に飲み込まれる。
闇は黒い煙のように、霞んでいった。
そのあとには土中から、半分顔を出したしゃれこうべがあるばかり。
「手向けるものは何もないが・・・」
リズは道の脇に穴を穿ち、しゃれこうべを葬った。
死を希い、生を希う。
その狭間に横たわる、業の深い淵に堕ちた者を責めることはできない。
まして、常世の国に渡り救いの光を見出されよと、言う資格など
持たぬ身であるならば。
手を合わせ、祈る。
遠い記憶がよみがえる。
山中で、怪我をして動けなくなった娘を助けた。
それが、小夜だった。
人と関わり合いを持たぬよう努めてきたリズだったが、そのまま捨て置けば、
娘が獣の餌食になることは明らか。見殺しにすることなど、できなかった。
だが、私のしたことは・・・間違いだったのか?
うち捨てられて、訪なう者もない御堂に娘を運び、
傷の手当てをし、水と食事の世話をした。
動けるようになったならと、帰りの道も教えた。
小夜は次第にうち解けて、ぽつぽつと身の上を話すようになった。
後見のいない身であること。
貴族の屋敷に仕えるうち、主に見初められ、寵愛されるようになったこと。
しかし、女房どもから嫉まれ、誹られ、年老いた主の執着にも耐えきれずに、
屋敷を逃げ出したこと。
リズは黙って聞いていた。
小夜の声が次第に優しげに、眼差しが艶やかになるのを訝しく思いながら。
傷は癒えても、小夜は去ろうとしなかった。
リズの住む庵に来たいと、だだをこね始めた。
その時に黙って、立ち去るべきだったのだろうが、
小夜の気持ちがわからず、リズは困惑していた。
そしてある日、貴族に仕える武士の一団が、小夜を探して山に入ってきた。
「あなたを探す人達が来た。帰った方がいい」
「いやです!小夜は、リズヴァーン様と一緒にいたい」
リズは驚いた。
「何を言っている、小夜殿。今なら戻れるのに」
「あなたは小夜が、お嫌いなのですか?動けぬ私に、優しくして下さったでしょう?」
「それは・・・当前のことだから・・・。あの人達が近くにいるうちに、早く・・・」
小夜の目に、激しい炎が宿った。
「小夜は戻りません!!」
そう言うなり、リズの胸にすがりつく。
突然のことに、小夜をふりほどくこともならない。
「リズヴァーン様・・・あなたを・・・お慕いしております」
喉にかかるような、吐息混じりの声。
立ち上る甘い匂いに、くらりと眩暈がする。
蒸し暑い御堂の中。
小夜の名を呼ばわる武士達の野太い声の合間に、遠く雷鳴が聞こえる。
「あなたに・・・何でもしてさしあげます」
耳元にあたたかい息がかかる。
鼓動が早まる。
「離れて・・・小夜殿」
かろうじて、声を出す。
「畑仕事もいたします。お食事も、身の回りのお世話も・・・小夜がします」
ひたりと寄せた小夜の身体から、柔らかく熱い感触が伝わってくる。
ずん!・・・と突き上がる脈動。
「小夜を・・・全部、あなたのものにして下さいませ」
稲妻が光った。
青白い光の中、小夜の白い肩が露わになる。
「リズヴァーン様・・・」
小夜はリズの手をとり、己が身体に導いた。
雷鳴が轟く。
その瞬間、遠い幻を見た。
「神子・・・」
遙か時空の彼方にいるあの
優しく、浄らかな・・・
憧れ・・・
手には、吸い付くように滑らかで、柔らかな感触。
頭の芯が痺れていくような・・・。
・・・・違う・・・
だめだ・・・重ねてはいけない
私は・・・何を・・・・思っているのか・・・
小夜の肩に手を置き、その身をそっと離す。
「・・・私には・・・私は・・・あなたを抱くことはできない」
「なぜ・・・?」
「私には、行かねばならない場所がある・・・」
「わかりません・・・リズヴァーン様・・・」
小夜の目から、はらはらと涙が落ちる。
「・・・・人を、形代として愛することはできないから」
「想い人が・・・いらっしゃるのですね・・・」
「私には・・・・・・答えられない」
「小夜は・・・それでも・・・リズヴァーン様が・・・」
叩きつけるような雨が降り出した。
ぬかるみを走る足音が近づいてくる。
「あのような所に御堂があるぞ!」
「み仏の導きか」
「しばし、軒端をお借りしようぞ」
武士達の声。
小夜が身を固くする。
「私は、行く」
リズはかすかに微笑んでみせた。何の救いにもなりはしないと分かっていても。
「いやです!小夜を置いていかないで」
「鬼にかどわかされた、とでも話すといい」
「お願い・・・」
リズに向かってのばした小夜の手は、虚空を掴んだ。
豪雨に叩きつけられながら、近くの木の枝に立ち、
武士達が御堂の扉を開くのを見届けた。
激しい雨に打たれながら、あの時の私は泣いていたのだろうか。
小夜が身を預けてきた刹那、
心の奥で動いた気持ち・・・
これが・・・
神子であったらと・・・
あの
願った。
ずっと憧れてきた・・・
あの
あの
あの
それは私を救ってくれたからだと信じていた。
美しくて優しくて強くて
だから、神子に憧れていたのだと・・・
あの
当然なのだと思っていた。
幼い私の抱いた、憧れのままだと思っていた・・・。
この気持ちは、封じなければ。
止めなくては。
そうでなければ、神子の八葉であることはできない。
清浄な神子を守ることはできない。
神子の八葉になるために、私はこの長い時を辿っているというのに。
あの
鬼とは・・・・相容れない、神子という存在。
何一つとして・・・・望んではならない。
私は、神子の影なのだから。
そして私は・・・この覆面に想いを封じたのだった・・・。
自分を戒め、鬼であることを忘れぬために。
今もまた、私の存在がお前を苦しめるなら、
私は再びこの想いを、封じよう。
そして神子・・・私はお前を、必ず助ける。
赤い光に満ちた世界。
禍々しい光の外は漆黒の闇。
振り返れば、京の街は黒雲の中に沈む。
冥界と現世の狭間をリズは駆け抜けていく。
第4章 炎呪
(1)兄と弟 (2)兄と妹 (4)怨嗟 (5)鬼の力 (6)馬上の男 (7)弟子 (8)孤独を知る者 (9)闇の中の対決 (10)解放