「ここまで来れば一安心だな。馬を休ませてやりたい。いいか」
「うん。ずっと走り詰めだったし、あんな坂を下りたんだしね」
風が強くなってきている。馬は落ち着かなげだ。
山を下りると、あの干涸らびた赤い地とは打って変わって、一面の雪景色。
木立の中に小さな流れを見つけ、そこで馬と共に喉を潤す。
「この馬、とてもいい子だね。初めてなのに、九郎さんの言うこときいて、
あんなに急な崖まで駆け下りてくれて」
「いや、こいつは源氏の馬だ。初めて乗る馬じゃない」
「ええっ、本当?!」
「こんなことで嘘をついてどうする。間違いなく、六条堀川で飼っていた馬だ」
「・・・堀川の館?!」
野盗の一味は、「例の男」が、馬を用意したと言っていた。
そいつは京邸の者であるとみて間違いないだろう。
当主たる景時ならいざしらず、梶原家に仕える身分である者が、堀川の馬を用意できるということは・・・。
配下である梶原家に、内通者を差し向けていたということか。
望美にも少し分かりかけてきた。
譲くんのことと今回のこと、無関係ではない。
でもなぜ、私達を?
共通することといえば、譲くんも私も違う世界から来たこと。
そして、神子と八葉であったこと・・・。
神子と八葉の間には絆があり、お互いに引き合うのだと、白龍がいつか言っていた。
遠い南の島から将臣くんと敦盛さんが来た。
ヒノエくんも、そして九郎さんも京に戻ってきた・・・偶然だろうか?
でも、私はもう役目を終えて、神子ではない。
それでも・・・何かが・・・あるのというのか。
考え込んでしまった望美の顔を改めて見て、九郎が驚いた声を出した。
「お前、どうしたんだ?!ひどい顔をしているぞ」
「もう、ひどいなんて、それこそひどいよ」
「そ、そうだな。すまなかった。だが、お前のこともあるが、わからんことばかりだぞ。
この馬が山をうろついているなんて、いったい堀川はどうなっているんだ?
いや、堀川ばかりじゃなく、この京全部が、どうかなってしまっているようだ。
この異様な黒雲といい、怨霊といい、なんともいえない嫌な気がたちこめている」
「それが・・・」
望美は今までの経緯を説明した。
「そうか・・・政子様が・・・」
今度は、九郎が考え込んだ。
「ねえ、九郎さんこそ、どうして京に来たの?謀反の疑いをかけられてるんでしょう?」
すると九郎は初めて笑顔を見せた。
「疑い・・・と言ってくれるんだな。そうか、お前は俺のことを信じているのか」
「当たり前だよ。私だけじゃない。朔も、先生も、弁慶さんもヒノエくんも将臣くんも敦盛さんも・・・あ」
望美は口を押さえた。鎌倉の指令の下に、平家の残党狩りが行われているのは周知のこと。
「ははは。お前には隠し事は向かないな」
「やっぱり、まずいよね。将臣くんと敦盛さんは・・・」
望美はしょんぼりしている。
「まあ、今は俺も似たようなものだ。どうこうする気はないし、万一俺が捕まったとしても、
そのことをしゃべったりはしないから、安心しろ」
「ありがとう、九郎さん」
「当たり前のことで礼なんか言うな。友を売るような真似はしない」
「でもみんな、九郎さんが鎌倉に行ったと思ってるよ。お兄さんに直接無罪を訴えにって。
あ・・・でもそういえば、他にも一か所、九郎さんが行きそうな場所があるって・・・先生が・・・」
「さすがに先生だ。俺の気持ちを分かって下さっている」
「どういうこと?」
「俺が謀反の疑いをかけられても、こうして無事逃げおおせているのは誰のおかげだと思う?」
「・・・逃がしてくれた人がいるってこと?」
「そうだ。館が追捕使に囲まれた時、そこから逃してくれた者達がいる。
そのために命を落とした者もいるし、今は謀反の嫌疑で無実の者がたくさん獄に繋がれている有様だ。
もとは平家の知行国であったのに、着任して間もない源氏の俺に、そこまで尽くしてくれている者達を
どうして見捨てることができる?」
九郎はきっぱりと言い切った。
「そういうところ、本当に九郎さんらしいと思うよ」
「長く続いた戦でみんな傷ついている。今は源氏も平家もなく、協力し合わねばならん」
人々の心をとらえ、この人であればついて行こう、と思わせる、九郎の人柄の不思議さ。
九郎は、平家に与していた国の人々の心さえつかみ、信頼し合う関係を、
驚くほどの短期間に築き上げていたのだ。
九郎は国を上から変えていける・・・弁慶の言葉が、ふと心をよぎった。
「でも、それがどうして鎌倉じゃなくて京っていうことに結びつくの?」
「よく考えてみろ。俺一人ならばまだ命がけで兄上に会いに行くのもいい。
しかし、兄上にとっては、他の者達はあくまで平家だ。兄上のご気性を考えると
到底許して頂けるものではない」
「え?じゃあ、京っていうと・・・もしかして」
「ああ。あのお方はどうも苦手だが、彼らを赦免する旨の院宣を頂ければ、
兄上とて反対はできないはずだ」
「それで、京に・・・」
「そういうことだ。景時が出立したと噂に聞いて少し遠回りをしたが、やっと辿りつくことができた」
「そうか。でも、九郎さんが無事でよかった。すごく心配してたんだよ」
「それはこっちの台詞だ」
九郎は頭から外した布で馬の汗を拭いてやっていたが、そう言うなり、馬の背の縄を示した。
「山道で源氏の馬に出くわした時も驚いたが、これを見た時はそれ以上だったんだぞ」
その縄には、長い髪の毛が絡んでいる。
「あ、これって私の・・・」
「お前の髪の色は見間違うことはないからな」
「確かにそうかも。でも、これだけで、よく私達のいる場所がわかったね」
「馬の様子からして、人からはぐれてから、大して時はたっていないようだったからな。
なので、馬の来た方に進んでいったら、遠くに先生とお前が見えたわけだ。
あの広い鳥辺野で、全く運がよかったというしかないが」
「うん。ありがとう、九郎さん」
「いや、礼には及ばん。・・・ん?どうした?」
「でも、先生が・・・」
「先生のことだ。あのような武士達に捕らえられるはずはない」
「うん・・・。そうなんだけど・・・」
「例の、影か?」
「何だか不安で・・・」
「お前が先生を信じないでどうする?」
「あ・・・そ、そうだよね・・・」
そう、信じなきゃ、先生を・・・。
しかし、そう思うそばから、忘れられない記憶が蘇ってくる。
九郎と共に、リズの帰りを待ち続けた晩のことが・・・。
何てこと!
そんなことを思い出すなんて!
「どうした、望美?」
「何でもない・・・何でもないよ!!」
望美は大きくかぶりを振って答えた。
先生・・・私はもう大丈夫です
だからお願い
どうか、どうか・・・無事でいて!
私はここにいますから!!
先生・・・
望美は祈る。
不吉な予感を振り払うように、
胸の前に手を組み、黒雲の彼方の青い空を信じて、祈る。
闇は足下にどこまでも深く、
頭上にどこまでも高い。
自分の存在すら覚束なく揺らぐ闇の中、
幽かに明滅する流れの中に、リズはいた。
漂っているのか、自らの意志で歩んでいるのか
その感覚もない。
否・・・どちらが上でどちらが下かも分からぬ。
頭も足も、歩みも思考も、ゆら・・・と溶け出でる。
どれほどの時が経ったのかわからない。
出口は失われた。
せめてもの救いは、彼らがここから脱出できたことか。
影に飲み込まれてほんのしばしの間、光の輪が中空に見えていた。
光の向こうに朧に見えるのは鳥辺野の山道。
しかし武士達は、光を見ることができなかった。
加えて、この異質な場に耐えることができないのか、
生身の生き物としての恐怖を露わにした。
空気を求めるかのように喘ぐ者、己が両目をかきむしる者、
ざわりと蠢く異形の気配に捕らえられて魂切れるような叫びをあげる者などなど。
時折、ぬらりと身体をすり抜けていくものがある。
ここでは肉体が存在の意味を持たぬようだ。
蠢くものに絡み取られ、ひどくおぞましいものに囲まれるかと思えば、
彩なす紗の断片が蝶のようにひらひらと頭上を泳ぐ。
弱い者から順に倒れていき、
とろりと流れ出た魂が闇の中を何処へか散り散りに飛んでいく。
リズは、かろうじて正気を保つ者達に、光の場所を教えた。
「落ち着け。出口は間近にある」
リズの声が水輪のようにゆるりと広がる。
「くっ!鬼め・・・。お前がこの場所、操っておるのだろう」
耳を貸す者はいない。
「ならば、見ているがよい」
リズは苦しげにもがいている男の鎧をつかみ、そのまま軽々と持ち上げた。
「何をするっ!」
追いすがろうとする武士達を一顧だにせず、光の輪に向け、
その男の身体を押しやる。
一瞬光に包まれた後、男はふい、と姿を消した。
「・・・・・・」
沈黙した武士達にかまわず、次の男を運ぶ。
動きは水の中よりもままならない。
真っ直ぐ歩いているつもりでも、身体がよろりと向きを変える。
それでも、リズはもう一人の男を外界に押しやることができた。
と、武士の中の一人が自ら光の中に歩み出た。
一瞬、その姿は消え、そしてすぐに戻ってくる。
「鬼、お前の言葉、真実のようだ」
「せっかく出られたのだぞ。なぜ戻る」
「まだ残っている者がいるのだ。お前だけに任せられぬ」
仲間が外界への出口を確かめて来たとあって、武士達は心を強くした。
「しかし我らには、その光とやらが見えぬ」
「どこを目安にすればよいのだ」
「光は常に動いている。場所は私が示そう」
「・・・鬼・・・感謝する」
「礼は要らぬ。一刻も早くここを出ることだけ、考えればよい」
「・・・すまぬ」
武士達はリズと一緒に他の動けぬ者達を集めた。
そして次々と光めがけて押し出し、自らも外界へと脱出していった。
「鬼も、さあ早く・・・」
最初に出口を確かめて戻ってきた武士が、リズを振り向いて言った。
しかし、その言葉の終わらぬうちに、
光の輪は消えた。
リズは一人、影の中にいる。
光は消え、方向は失われた。
既にして方向など、存在しなかったのかもしれないが。
上っているのか下っているのか・・・
左右もなく、上下もない。
かろうじて己の足を動かすことで、自らの肉体の存在を確かめる。
ふいに、闇の中の気がざわめいた。
異形の物の怪に混じり、
朧な人々の影が上下に、斜めに、行き来するのが見える。
剣を交える影。
逃げまどう影。
あれは・・・戦の影か・・・。
累々と倒れ伏した数多の影。
腹の形が異様に膨れ上がっている。
これは・・・疫病か・・・飢饉か・・・。
その上を、華やいだ牛車の行列が通る。
商いの荷を担いだ者、馬を引く者、まるで、京の街を模したかのようだ。
しかしどの影もゆらゆらと、輪郭を持たず、顔を持たず、音も立てず、
ただ現れては、つ・・・と消える。
しかし・・・
リズは気づいた。
あれは・・・
影のただ中に、
ひどくおぞましく、邪なる気が満ちている。
それはさらさらとこぼれ落ちる砂にも似て、
定まらぬ形でありながら
一つに凝集しようとする意志があるかのように、
回り、動き続けていた。
その中心に、一つの姿。
この影の中にあって、ただ一つ、くっきりと形を持つ存在。
リズは、それを・・・知っている・・・と感じた。
なぜなら、それの放つ強い気は、まぎれもなく・・・
「鬼・・・」
それは、ゆっくりと振り向いた。
豪奢な衣に身を包んだ仮面の男。
流れる黄金の髪が、暗闇の中、まばゆいばかりに輝く。
第4章 炎呪
(1)兄と弟 (2)兄と妹 (3)現世と冥界の狭間で (4)怨嗟 (5)鬼の力 (6)馬上の男 (8)孤独を知る者 (9)闇の中の対決 (10)解放