黒雲が大きな渦を巻きながら京の街を覆っている。
時折東の山、鳥辺野辺りに稲妻のような光が閃く。
途中で何度となく怨霊と出くわし、落ち着かなげな磨墨をなだめながら、
景時は朔と共に京邸に戻ってきた。
そして今、景時からの緊急の命により、大広間に梶原党の面々が全員顔を揃えている。
ただ一人・・・姿を見せぬ者を除いて。
朔が外出から帰った時には、真っ先に駆けつけ、笑顔で出迎えるのが常であった者。
「まずは、朔様が無事に帰られて何よりだ」
「さすが景時様ぞ。すぐに朔様を連れて戻られるとは」
「しかし朔様はずいぶんお疲れのご様子。心配じゃ」
「検非違使共がきつく責めたのではないか。手弱女に情けもかけぬのか」
言葉を交わしながらも、不安な気持ちが頭をもたげてくるのはどうしようもない。
京を覆うただならぬ気配。
西国に行ったはずの景時の突然の帰京。
そして、姿を消した仲間。
「結局信直は見つからないのか」
話はそこに行き着く。
「あの傷では、そう遠くへ行ったとも思えぬが・・・」
「怨霊が闊歩しているのだ。いくら腕が立つとはいえ、手負いでは危険すぎる」
「ごめん、待たせちゃったね」
景時が広間に入ってきた。
一斉に居住まいを正す。
「みんな・・・」
景時は居並ぶ一同を見渡した。
「今までありがとう。こんなオレでも梶原党を率いてこられたのは
みんなのおかげだよ。本当に感謝してる」
一瞬、座がどよめいた。
景時様はいったい何が言いたいのか・・・?
これではまるで、別れの挨拶ではないか。
郎党達は身じろぎもせず、景時の次の言葉を待つ。
「オレはこれから、六条堀川に行く。
ああ、そうだ。みんな信直のこと心配してるんだろうけど、心配要らないよ。
あいつは今、政子様の所にいるから・・・」
なぜ、先程京に戻ったばかりの景時様がその事を知っているのだろうか。
そしてなぜ、その口調の中に苦さが混じっているのか。
疑問は増すばかりだが、景時の声には、口を挟むことを許さぬ何かがあった。
朔は部屋を出て、庭に下りていた。
横になって休むようにと、景時から珍しくきつく言われていたのだが・・・。
風に混じって雪片が飛ぶ。
身を切られるような冷たさが、今の朔にはかえって心地よい。
黒雲の向こうの東山を見る。
「望美・・・リズ先生・・・今頃どうしているの。どうかお願い、無事でいて」
胸がずきっと痛んだ。
ごめんなさい・・・梶原の者が、あなたたちを苦しめて・・・。
なぜ、信直殿はあのようなことを・・・。
兄上は、戯れに私のためだなどと言っていたけれど、
まるで裏切りを予想していたような口ぶりだった。
途中から、梶原党に加わったからなの?
確か頼朝様から、直々に託されたのだったわ。
身内の者は全員亡くなってしまって、天涯孤独なのだと。
しかし、見所ある若者だから・・・と。
その通りに、本当によく仕えてくれた。
梶原党の面々ともすぐに馴染んで、兄上が京に上る時も必ず同行していた。
礼儀正しくて、真面目すぎるほど、何事にも一所懸命で・・・。
けれど・・・、リズ先生や弁慶さんが警戒していた者の正体は、信直殿だったのね。
前庭に回り、池の側まで来た。昨日来の寒さで、池の水は凍っている。
池の傍らに、リズの掘り返した跡がある。
この辺りで・・・信直は曲者に襲われたのだ。
しかし、地面に目を落としていた朔は、ふと顔を上げて、はっとした。
文を隠しておいた景時の部屋は、ここからかろうじて視野に入る位置にある。
何者かが、昨夜のうちに景時の文を盗み見したことは事実だ。
だが、曲者にいきなり襲われたという信直の言葉は事実だろうか。
景時の部屋から曲者が出てきたなら、信直が背後をとられることなどなかったはず。
外から忍び込んできた曲者など、いなかったのだとしたら・・・。
龍の宝玉を掘り返そうとして失敗したための、一人芝居だったとしたら・・・。
あれは全て、嘘だったの?
そして昨夜、裏手の門衛は信直だった。
交代の時まで、誰とも顔を合わせないこともある・・・。
まさか・・・
ふと思い立って、望美とリズの部屋に向かう。
この部屋を調えた時、朔を補佐していたのは信直だった。
二人を迎える準備が整ってからも、幾度となく出入りしていた・・・。
室内を見渡し、少し躊躇ってから、調べ始める。
櫃の底を返し、呪の文字を見つけた。
几帳の枠にも、同じ文字。
望美の名が刻んである。
朔は胸の前に組んだ手を、痛いくらいに握り合わせた。
何かの間違いではないのかという淡い期待が、顔にかかる雪片のように
たやすく溶け去っていく。
震える唇をきゅっとかみしめ、嗚咽の声をかろうじて抑えた。
「泣いてはだめ・・・」
今は、自分の感情に押し流されてはいけないのよ。
望美達が帰ってきた時のために、私はもっとしっかりしなくては。
これから試練に立ち向かう、兄上の・・・ためにも。
「本当に京邸まで送らなくていいのか?」
「うん、見つかるといけないから、九郎さんは無理しないで。
私は五条橋の近くまで行けば大丈夫」
「五条橋か・・・。弁慶にも会って無事を報せたいが、さすがに今はまずいだろう」
「ちゃんと私が伝えておくよ」
「すまん。恩に着る」
「九郎さんは、これからどうするの?」
「しばらく姿を隠し、機を窺おうと思う。京がこの有様では、内裏は大騒ぎだろうからな。
うかつに後白河院にも近づけん」
「どこか、当てはあるの?」
「それなんだが・・・、望美、すまないが、鞍馬の庵を貸してはもらえないだろうか」
鞍馬・・・九郎にとってはなじみ深い。
かつてはそこの寺で育ち、リズに剣を学び、修行を重ねた地だ。
「あ、いい考えかもしれない。九郎さんがよく知ってる場所だものね」
「先生の庵ならば、鞍馬寺とは離れているから僧と出会うこともないしな」
「もちろん、いいよ。先生だって・・・きっと・・・そう言うと思うし」
「望美・・・、先生はご無事だ」
「うん、そう信じてる」
望美はひきつった笑顔を作る。
馬を休ませた後、遠い山道を引き返し、先刻リズ共々、検非違使達に囲まれた場所まで戻った。
しかしすでにそこに人の姿はなく、山を覆っていた不吉な光も消え去っていた。
そして、何事もなかったかのように、辺りは一面の雪に覆われていたのだ。
ここではないのかとも思ったが、少し上の崖崩れの痕が、
この場所で間違いなく、先程の光景が夢ではないことを物語っていた。
望美と九郎はそのまま山を下りるしかなかった。
そして今、二人は五条橋へと向かっている。
「少しだけど、入り口の脇の壺に食料があるから、食べてね」
望美は努めて明るい声を出す。
「そうか、それはありがたい」
「薪は土間に積んであるからすぐ分かると思う。それから、裏手の壁際に・・・」
一生懸命に説明する望美を見ながら、九郎の顔にふと笑みがこぼれた。
「ん?どうしたの、九郎さん」
「あ、いや、何でもない」
「にやにやして、変だよ」
「変とは何だ、失礼なやつだな。俺は少し・・・」
「少し?」
「嬉しかっただけだ」
「???嬉しいって、何が」
「そうだな・・・嬉しい・・・とは少し違うか。心があたたかくなった」
「ますますわからないよ」
「今、先生には・・・お前がいるのだなと」
望美は顔が火照るのを感じた。
「・・・それが九郎さんには嬉しいの?」
「そうだな。弟子の俺が、先生のお心を慮るのも僭越なことだが・・・」
九郎は、黒雲に覆われた薄闇の彼方の鞍馬山を見やった。
「俺がまだ鞍馬にいた頃のことだ。毎晩のように寺を抜け出しては、
先生に剣や兵法を学んでいた」
「うん。九郎さんは先生の一番弟子なんだよね」
「先生は修行にはとても厳しいお方だった。俺が幼いからといって、手加減などなさらなかった。
しかし・・・いつも先生は俺の気持ちを思いやってくれていた。
まるで、俺の心がわかるかのように」
「先生、昔から優しかったんだね」
「そうだな。俺もその時にはそう思い、先生を尊敬し、慕っていた。
まだ俺は幼すぎて、先生の優しさの理由になど、思い至らなかった」
九郎は言葉を切り、少しの間、目を閉じた。
「あの頃俺は、いずれ出家するからという名目で、生かされていただけだ。
平家側の気が変われば、いつ首を刎ねられてもおかしくないような危うい境遇だった」
「そうか・・・。もしかすると、小さかった分だけ、今よりも大変だったのかもしれないね」
「ああ、その通りだ。寺には多くの僧がいたし、俺と同じくらいの年の子供もいたが
みんな俺の素性を知っていて、いつも遠巻きに見ているだけだった。
下手に俺に関わると、累が及ぶかもしれんと、思っていたのだろう」
「そんな・・・」
「俺は・・・気にも留めなかった。平家を倒すことだけを考えていたからな。だが・・・」
「私だったら、やっぱり淋しいよ・・・そういうのって」
「そうだな。俺も本当は・・・淋しかったんだと思う。何しろ小さかったからな」
「もう、わざわざ小さいって断らなくてもいいよ」
「・・・・・・やはりお前は先生と違って修行が足りん」
少し怒ったようなその口ぶりで、やっと望美は気がついた。
九郎は、淋しいなどと口にしたことを照れているのだ。
「本当にそうだね。気をつけます」
望美の思いがけなく素直な反応に、九郎は拍子抜けしたようだ。
「そ・・・そうか、それならいいんだ」
九郎は気を取り直して話を続けた。
「ある晩、俺はそんな気持ちを引きずったままで稽古をしていた。
しかし、そのように半端な気持ちを気づかぬ先生ではなかった」
ガッ・・・!!
リズの振った剣に、九郎は弾き飛ばされた。
「・・・痛っ」
後ろの木に、したたかに背中を打ち、手にした刀を取り落としてしまう。
すぐに立ち上がろうとした時、目の前に刃があった。
「九郎・・・この状況を何とする」
「ま・・・参りました、先生」
「敵なれば、参ったではすまぬぞ」
「はい、申し訳ありません」
「・・・・・なぜ謝る」
「そ、それは・・・」
言えなかった。
寺での出来事が、心にわだかまっているなどとは。
唇をかんで俯いた九郎をリズは黙って見ていた。
「もう一度、お願いします!」
そう言って九郎が身を起こし、刀を拾い上げた時、リズは初めて口を開いた。
「九郎・・・淋しさに負けてはいけない」
九郎は大きく目を見張る。
その目が潤んでいるのを見て、リズは剣を下ろし、膝をついて
九郎と同じ目の高さで静かに語りかけた。
「一人きりであることを、孤独という。
しかし、人の中にあったとて、孤独なこともある。
九郎、多くの人に囲まれてなお、お前の孤独は深い。
幼いお前にはさぞ辛かろう」
「先生・・・」
心の内を全て見透かされたような気がした。
一番わかってほしいことを、わかってもらえたと思った。
リズはさらに続けた。
「孤独の闇に迷ったなら、自ら灯りを点せばよい。
九郎、お前ならできるはずだ。
いずれ、お前にも本当の友ができる。その時を、待ちなさい」
「深い孤独の闇・・・」
「先生の優しさは、ご自身が孤独を知っているからこそなのだと
今になって、思い至った。世俗を超越していらっしゃる先生だから、一人、
山で過ごされているのだと思っていたが、あの言葉の背後にあったのは、
俺と同じ・・・いや、俺など思いも及ばないほどに深い、先生自身の
孤独の闇だったのではないかと」
そうなんだ。先生が優しいのは、痛みを知っているから。
幼い九郎さんを見て、自分が過去に飛ばされた時の気持ちを思わなかったはずがない。
「だが、今はお前が先生の隣にいる。これだけ話せば、いくらお前でもわかるだろう」
「あ〜、九郎さん、どうして一言多いの?」
「何のことだ?」
一言多い上に、鈍い・・・とも思う。
「でも意外だったな。九郎さんて小さい頃は友達がいなかったんだ」
「ああ、だがその後は先生の導きもあったし、運もよかったんだろう。
気づいたら、寺の仲間を引き連れて、京で暴れまわっていた。
弁慶に会ったのも、その時だ」
「ふふっ、そのころの話、私知ってるよ。先生と弁慶さんから聞いたんだ」
「なっ何?!いったいお前、何を聞いたんだ?!」
九郎はかなり慌てている。
その様子がおかしくて、望美は思わず笑ってしまった。
「やっと笑ったな。それでいい」
九郎がほっとしたように言う。
「え・・・?」
九郎は真顔になっって続けた。
「いいか、今は、これから何が起こるか分からん状況だ。
先生の弟子ならば、こんな時こそ、気持ちを強く持つべきだと思う」
「九郎さん・・・」
そうだ、先生の身を案ずる余り、自分は大切なことを忘れていたのかもしれない。
暗い顔をしているだけじゃ、何もできないし・・・。
とにかく今は、できる限りのことをしよう。
「ありがとう、九郎さん」
「礼などいらん」
望美は馬を下りると、弁慶の診療所に向け、強い風の吹きすさぶ五条通を駆けていった。
その後ろ姿が見えなくなるまで見送り、やがてゆっくりと馬の向きを変えながら、
九郎は自問自答する。
左腕に灯った熱さのこと、望美に言わなくてよかったのだろうか。
神子の力はもうないのだと言っていたが、それならば、この熱さは何だ。
これは、新たな神子が現れたとでもいうのか。
しかし・・・俺には・・・いや、他のやつらにとっても、白龍の神子は
望美だけだ。
先生・・・どうか早く、望美のところへ戻って下さい。
「はあっ!!」
九郎の合図で、馬は北に向けて走り出した。
診療所の戸を激しく叩く音がする。
「弁慶先生!!父ちゃんが・・・!!」
子供の声だ。
弁慶は閂を開けた。
涙で顔をくしゃくしゃにした男の子が転がるようにして入ってくる。
弁慶を見るなり、着物の裾にむしゃぶりついた。
「お願いだよ!父ちゃんを助けて!!」
「君は・・・怨霊が出る中を、走ってきたのですか」
「そんなもん、怖くねえや!父ちゃんが血を吐いて・・・苦しがって・・・」
男の子は泣き崩れた。
弁慶の見知っている子だ。
たしか、先の戦に巻き込まれて母と兄弟を喪ったのだった。
父も大怪我をしたのだが、かろうじて一命だけは取り留めた。
しかし、戦の間、ろくに手当もできなかったせいもあって予後は悪く、
その上、他の病も併発して、寝たり起きたりの生活を続けているのだ。
ここ数日来、病状が思わしくないと言っては、動けぬ父に代わり、
この子が薬を取りに来ていたのだが・・・。
今、父まで亡くしたらこの子は・・・。
「泣かないで。すぐに君の家に行きますから」
弁慶は外套を羽織ると診療道具を入れた包みを持ち、
もう片方の腕で、男の子を抱え上げた。
男の子はびっくりして泣きやむ。
「せ・・・先生・・・いいよ、おいら、歩けるから」
「何回も転びましたね。足をひねったでしょう」
「そ、それくらい、平気だい」
「これも治療の内です。医者の言うことはきくものですよ」
弁慶は軋む扉を開けて、譲に声をかけた。
「急病人です。少し留守にしますが・・・」
「聞こえてましたよ。俺なら大丈夫ですから、早く行ってやって下さい」
「すみませんね。病人に留守番を頼むなんて、とんでもない診療所だな」
「気にしないで下さい。だいぶ、気分がいいんですよ。だから・・・」
「では行ってきますね。しばらくの間、一人にしてしまいますが」
風が小さな苫屋をぐらぐらと揺らす。
「屋根どころか、小屋が全部飛んでいきそうだな」
譲は呟いた。
朝方、リズ先生が来て、すぐに帰った。
その後、兄さんと敦盛が出掛けて、だいぶ経ってからヒノエもどこかへ行った。
そして今度は弁慶さんか・・・。
結構忙しい日だ。
俺・・・こんな所で何してるんだろう・・・。
ふと、何もかもが、ひどく現実離れして思えてくる。
高校はもう、冬休みに入ってるだろうな。
いつもなら、宿題をさっさと終わらせて、
母さんの手伝いで大掃除とかやってる頃か。
身体を起こしてみた。
かなり楽になっている。
風の音がうるさいくらいだが、診療所の中は人の気配もなく、しんとしている。
一人・・・か。一人ならば、大丈夫だ。
先輩に、会いさえしなければ・・・。
その時、風に煽られ、扉がバタンと大きな音をたてて開いた。
戸口に立つ影は、見間違えようもない。
「譲くん!もう起きられるの?!」
譲の心臓がどくん!と拍った。
「・・・・・・・先輩・・・」
第4章 炎呪
(1)兄と弟 (2)兄と妹 (3)現世と冥界の狭間で (4)怨嗟 (5)鬼の力 (6)馬上の男 (7)弟子 (9)闇の中の対決 (10)解放