六条堀川、源氏の京の拠点である館。
奥まった一室で、景時と政子が対座している。
室内には火の気もなく、外と変わらぬ寒さ。
政子の声はそれに劣らず冷たい。
「景時、鎌倉殿からの命よりも大切な用向きとは、何なのかしら」
「信直は・・・不在なのでしょうか」
「まあ、つまらないこと・・・。そんなことのために来たというの?」
政子は不興げに言う。
「あなたの元に私の部下を置くのは、当然のことじゃなくて?
何しろ景時は・・・・・裏切るのが上手ですものね」
景時は床に手をつき、政子を真っ直ぐに見た。
・・・ここからが、勝負。
「梶原平三景時、鎌倉の頼朝様に対し、決して二心あるものではございません。
私が京に戻ったのは、あることに気づいたからにございます。
九郎追討よりも、そちらが鎌倉の大事と判断した次第」
「景時、あなたは自分のお役目以外、判断などしなくていいの。
命令された通りに動いていればいいだけなのよ」
政子の気がびりびりと辺りを震わせている。
景時は歯を食いしばり、腹にぐっと力を込めた。
「お願いでございます!政子様・・・。
これからなさろうとしていること、どうかお止め下さい!」
景時は深々と頭を垂れた。
ずん・・・!!突き上げるような振動が襲う。
景時は伏した姿勢のまま耐える。
「やはり・・・と言うべきかしら?優秀な軍奉行だわ」
「政子様、何卒・・・」
「くすくす・・・恐ろしいのでしょう。声も手も、そんなに震えて」
「気づいてしまったなら、お止めすることこそ、頼朝様に仕える者の役目と心得ます。
長き目で見れば、決して鎌倉への利となることでは・・・」
ばん!!!
景時の身体が壁に高く吹き飛ばされて、激突した。
そのままどさりと床に落ちる。
政子は坐したまま、その様子を冷ややかに眺めている。
景時が腕を支えに頭を上げた時、再びその身体が壁に叩きつけられた。
景時は呻きながら身を起こし、平伏した。
「詫びてすむとでも思っているの」
「詫びではございません。お願いをしているのです。
ひとえに鎌倉を・・・頼朝様を思えばこそのこと・・・。お聞き届けを」
政子の目が、すっと細くなる。
「ねえ景時、天に二つの陽はいらないわ」
「戦で疲弊した人々に・・・さらに追い打ちをかけるのでしょうか」
「あら、血まみれの手を持つ者が、ずいぶん優しいことを言うのね」
「だからこそ・・・にございます。どうか、これ以上・・・ぐっ・・・」
景時は伏した姿勢のまま、いびつな格好で床に這いつくばった。
見えない力が、その身体を押さえつけている。
床が嫌な音を立てて軋んだ。
政子は眉を顰める。
「妙ね・・・。景時らしくない。私にこんな話をするなんて・・・。
私が心を動かすはずがないことは、誰よりもよく知っているはずなのに」
押さえていた力が緩んだ。
景時は、身体を起こそうとしてもがく。
呼吸がひどく荒い。肩が大きく上下している。
「そして私に敵うはずがないことも、身に沁みて分かっているはず」
政子は、つと立ち上がると、景時に近づき見下ろした。
「生意気ね。何を・・・企んでいるの?」
景時が一瞬、息を呑む。
その時、廊下を慌ただしく走り来る音が聞こえてきた。
「お人払いの中、恐れながら!」
政子は不快げに応える。
「どうしたというの」
「院よりの御使者でございます」
「しかたないわね・・・」
政子は景時に背を向け、立ち去った。
去り際に一言
「何をしても無駄よ」
と言い置いて。
冷え冷えとした部屋の中に、景時が一人残る。
その顔に、したたるほどの汗が次々と流れた。
呼吸はまだ荒く、手も足も、押さえようもなく震えている。
でも・・・オレは・・・生きている。
賭けに・・・半分だが、勝てた。
何の証拠も掴んじゃいない。
オレの読みだけに頼った命がけの・・・はったりだったけど。
この反応からすると、政子様のなさろうとしていることは、
ほぼオレの読んだ通りということか。
無駄・・・と政子様は言っていたが、それをわざわざ口にしたということは・・・
まだ終わってはいないということだ。
残り半分の賭けは、これからだ。
信直の役目は何だ。
それを突き止められるかどうか・・・。
全てはこれにかかっている。
景時は息を整えるとゆっくりと印を結び、呪を唱えた。
足音が聞こえ、部屋の扉が開いた。
「景時殿・・・?」
用向きが終わったなら立ち去るようにと、言付けに来た武士が、
いぶかしげに部屋の中を見回す。
自分と入れ替わりに景時が出たことには気づいていない。
信直は今、館にはいないとわかった。
ならば、景時にとって長居は無用。館の武士と顔を合わせ、言葉をかわすことも
できるだけ避けておきたい。
政子の目までをごまかすことはできないのだが・・・。
景時は隠形を使い、館を忍び出た。
しかし館から離れ、隠形を解いた時、突然に声がかけられた。
「景時・・・」
「・・・・・・!」
ごっ!
譲の振り下ろした短剣が、望美の首をかすめ、床に深々と突き刺さった。
気力を振り絞って、何とか外すことができた。
一瞬の安堵。
同時に、譲は驚きと共に気づいていた。
首を絞められ、意識を失いそうになりながら、それでも
望美の目が、短剣の動きを捉えていたことに。
この人は・・・こんな時でも、目をそむけないんだ・・・。
なのに俺は・・・。
譲の腕が、短剣を床から引き抜こうとしている。
再び剣を手にしてしまったら、今度は外せるかどうかわからない。
譲は焦る。
だめだ・・・腕が言うことをきかない。
先輩を守りたかったのに・・・
そのために、この世界に残ったのに
それなのに・・・こんなことになるなんて・・・。
剣から手を離せ!!
望美の顔に、雫が落ちた。
望美は目を上げ、譲を見る。
譲の目からあふれ出た涙が頬を伝い流れ、望美の顔に落ちてくる。
譲は顔をそむけた。
「見ないで下さい、お願いですから・・・。
俺、すごくみっともない顔してて・・・こんな顔・・・
あなたに・・・あなたにだけは、見せたく・・・なかったのに」
吹き荒れる風が、粗末な小屋を揺さぶる。
ごうごうと鳴る風音の中、譲を見上げる望美の心が、
しん・・・と静まりかえった。
ゆっくりと・・・腕を差し伸べる。
指先が、譲の首に触れた。
「うあっ!!!」
譲は叫び、その身体が後ろに仰け反る。
望美の喉にかけていた手が外れた。
急に流れ込んだ冷たい空気に、望美は咳き込む。
ひゅうひゅうと喉が鳴る。
「あ、熱い・・・」
譲は首筋を押さえ、呻いている。
「大丈夫?譲くん」
望美は喘ぎながら身を起こすと、譲に近づいた。
譲は慌てて飛び退く。
「来ちゃだめだ!それより先輩、早くここから逃げて下さい・・・」
「譲くん・・・」
望美はそれでも譲の側に来た。
「先輩・・・逃げないと、俺・・・また」
譲の手を取り、両の手で握りしめる。
一瞬、譲の手にあの呪が浮かび上がったかと見る間に、
中空に漂い出て、霧となって消えていった。
「あ・・・呪が・・・」
「この手・・・政子さんに、何か呪をかけられていたんだね」
「そうです・・・。わかっていたのに・・・俺は」
「譲くん、ありがとう」
「何を言ってるんですか、先輩。俺はあなたに酷いことをしたんですよ」
「譲くんが力を加減してくれていたから」
「そんなこと・・・ないです。先輩にあんな苦しい思いをさせてしまって」
「ううん、譲くんの本当の力で押さえられていたら、私、今頃もう・・・」
「あ・・・」
先程は腕を止めることに夢中で気づかなかったが、確かにそうだと、譲は思い当たる。
弓道で鍛え上げた譲の腕力握力は、生半可なものではない。
手加減無しに力を入れていたならば、造作もなく望美の命を奪っていただろう。
望美は優しく続けた。
「それにね・・・あの剣・・・私を避けてくれた」
「あれは必死だっただけで・・・」
「譲くんが、勝ったんだよ」
「・・・俺が・・・?」
「そう、政子さんの呪に、譲くんは勝ったんだよ」
「そんなふうに・・・思ってくれるんですか」
望美の目が、真っ直ぐに譲の目を覗きこむ。
「そう思うんじゃない。本当のことなんだよ。
だって、譲くんは強いから。譲くんが自分で思ってるよりも、
ずっとずっと、強い人だから」
譲の中に、苦さと切なさと悲しさと愛しさと数多の思い出が
奔流のようにこみ上げてくる。
ああ・・・この人は・・・この人が言いたいのは・・・
「だから、もう大丈夫」
望美の目に宿っているのは、澄み切った強い光。
この人は・・・もう・・・遠いんだ・・・。
望美は一瞬、目を閉じた。
・・・・・・先生・・・・・・ごめんなさい・・・でも、許してくれますね。
望美は譲の顔を両手ではさんだ。
「自由に生きて・・・譲くん」
唇を重ねる。
深く・・・もっと深く・・・
最初で最後の・・・口づけ。
吹きすさぶ風の音だけが・・・、聞こえる。
譲から身を離すと、望美は床からリズの短剣を引き抜き、腰に手挟んだ。
「先輩、行くんですね」
「うん、先生が呼んでるから」
「止めませんよ。一人で行くと言ったら、絶対にそうするんですから」
望美はにっこりと笑った。
「先輩・・・俺・・・」
望美は笑顔のまま、譲を励ますように真っ直ぐに見ている。
ずっと言えなかった言葉を伝えるのは今しかない。
そして、やっと辿りついた言葉も。
「俺、あなたのことが、好きです。
これからもきっと、この気持ちは変わらない。でも・・・
一度・・・さようならを・・・言わせて下さい」
望美は笑顔のまま、黙ってうなずいた。
「さようなら・・・先輩」
ああ・・・口に出してしまえば・・・こんなにも簡単なことだ。
「俺達の力が必要になったら、いつでも駆けつけます」
「その時は、頼りにしてるよ」
「あまり遠いことでもなさそうですね」
「うん、きっと、みんなの力が必要になる」
望美は風の中に出ていった。
「いいかげん、望美を解放してやれ・・・」
兄さんが言いたかったのは、このことだったんだ・・・。
心にぽっかりと穴が空いたような、
それでいてとても明るく澄み渡っているような
不思議な気持ちだ。
床に残った剣の痕を見ながら、譲はいつしかまどろんでいた。
夢の中を、幼い少女と二人の少年が走っていく。
抜けるような青い空の下、笑いさざめく三人は、
やがてそれぞれに分かれ、
そして永遠に見えなくなった。
「先生!!」
望美は風の中、叫んだ。
こちらに向かってリズが手を伸ばしているのが分かる。
「先生・・・私はここです!」
祈りをこめて、望美も腕をさしのべる。
「お願い・・・先生に届いて・・・」
「先生・・・」
望美の声が聞こえた。
右の頬に、熱が灯り、熱さが増していく。
薄らいでいた光が、頬の熱と共に再び輝きを強め、
やがて視界いっぱいに広がった。
白く眩い光に包まれた次の瞬間、リズは外界にいた。
そこは影に飲まれたあの山道ではなく、暗雲に覆われ、風の吹きすさぶ京の辻。
まだ熱い頬にそっと手をやる。
そこには何もないが、それは今でも、神子との絆の証。
神子・・・感謝する。
お前が、救ってくれたのだな。
「ここは・・・六道の辻か・・・」
いにしえより、現世と冥界を繋ぐ場所、と言われてきた所だ。
辻の中央で、一人の男が地に手を当て、何かを唱えている。
リズの存在に気づいたのか、男の声が止んだ。
男はゆっくりと振り向き、立ち上がる。
元結いの解けたざんばら髪、鋭い眼。
つい先日までの涼やかな若武者とは似ても似つかぬ姿。
しばし、二人はにらみ合う。
沈黙の中、見えぬ糸がぎりぎりと引き絞られるように、
二人の間の気が、痛いほどに張りつめていく。
どちらの抜く手も見えなかった。
ガッッ!!!
次の瞬間、
火花を散らして剣と剣がぶつかり合う。
第4章 炎呪
(1)兄と弟
(2)兄と妹
(3)現世と冥界の狭間で
(4)怨嗟
(5)鬼の力
(6)馬上の男
(7)弟子
(8)孤独を知る者
(9)闇の中の対決
あとがき
第5章 闇来