3. 京 六条堀川
六条堀川の源氏の館には、大勢の街人が出入りしていた。
もちろん、彼らが館の奥まで入ることは許されないのだが、
解放されている裏手の門をくぐり、遠慮無く次々とやってくる。
その中には、怪我人を抱えた者も、少なからず混じっている。
街人達の目的の一つは、水、
そしてもう一つは、
怪我の手当をしてもらうことだ。
地震の後、あちこちで井戸が涸れた。
そして涸れていない井戸水は、濁ってしまった。
暑さの中、水の無い苦しさは想像に余りある。
しかし、ここ六条堀川だけは、地震の被害も皆無。
井戸も涸れることなく、水が濁ることもなかった。
そうであるならばと、館の主九郎は、
敷地の中に幾つも点在する井戸の一つを、街人のために解放したのだった。
とはいえ、戦の勝者、源氏の総大将のお屋敷だ。
平家の世であったならば、平清盛の屋敷に行くのと同じこと。
最初のうちは、皆おっかなびっくりだった。
しかし背に腹は代えられず、病人をかかえた者、怪我をしている者が
真っ先に水を乞いに行った。
すると、無礼者とお咎めを受けるどころか、
総大将から直々に見舞いの言葉をかけられ、
あまつさえ、簡単な怪我の手当までしてもらって帰ってきたとなれば……。
噂を聞いた人々が押し寄せた。
が、九郎率いる源氏の者達は、嫌な顔もせず受け入れた。
館の下働きで手が足りなくなると、元気な街娘や若者、子供たちも
進んで手伝いに来るようになった。
忙しい仕事の合間を縫っては、九郎自ら顔を見せ、励ましの言葉をかけていく。
平家が睨みをきかせていた時分には、とても考えられないことだ。
義経様には、やはり神仏の加護があるのだろう、と、街人達は噂し合う。
源氏の御世になって、本当によかった……とも。
そのような中、忙しく立ち働きながら、九郎の噂を聞く度に、
ぐっと唇を噛みしめる娘がいる。
ほっそりと伸びた四肢と美しい顔立ちを、ぶかぶかの汚い着物、
ぼさぼさのままくくった髪の毛と顔になすりつけた泥で隠し、
眼を伏せたまま、不器用な動きで黙々と水を運ぶ。
鈍重な下女…周囲で共に働く者達には、その程度の印象だ。
しかし今日は、その娘に妙に落ち着きがない。
娘が気にしているのは、いつもやって来る尼僧と親しげに話す、長い髪の娘。
今日初めて来たというのに、慣れた手つきで怪我人の手当を手伝っている。
恐れる様子も嫌がる様子もなく、明るい笑顔を絶やさない。
見間違えるはずはない。
あれは、熊野別当の……。
娘の眼に、暗い炎がくすぶっている。
よい機会なのだろうか。
仇と狙う、源氏の総大将の館に、もう一人の仇、熊野別当の女が現れるとは…。
昼日中は、さすがにまずい。
娘は機を窺いながら、夕方を待ち続けていた。
そして辺りに街人の数が少なくなった頃。
娘は、水を汲みに行く風を装い、軽やかな一挙動で物陰に身を潜めた。
建物の配置は、もう頭の中に入っている。
あの女が一人になるところを襲えば……。
しかし、まだかすかな躊躇いがある。
自分は、義経を狙ってここに来たのではないか?
源氏の総大将、九郎義経こそ、真の敵のはず。
後ろ盾に源氏がついてくれた…。兄は、そう言っていた。
源氏にとって、今の熊野別当は何かと目障り。
取って代わるなら、源氏は援助を惜しまぬ…と。
しかし、甘言は嘘偽りだった。
さんざん利用された挙げ句、最後の最後で私達は見捨てられた。
兄も仲間も皆、源氏に騙されて死んだ。
心ならずも生き長らえてしまった私が為すべきことは、ただ一つ。
けれど……
源九郎義経は、想像していた卑劣な人物と、あまりに違いすぎた。
下女として義経の近くで働いているからこそ、疑問を抱かざるを得ない。
大らかで明るく、あたたかな人柄は、内から隠しようもなく出てくるもの。
演じてできるものではない。
地震の後、館の者を武士から下人下女まで全員集め、義経は言ったのだ。
この館を、困窮した京の街人のために開くと。
皆もどうか労を惜しまず、彼らを助けて働いてくれ…と。
耳を疑った。
これが、非道の男のすることか?
しかし、これに限らず、義経は困っている者には助力を惜しまず、部下の人望も篤い。
配下の武士達は、主従という身分の違いを越えて、
命すら投げ出す覚悟であることは、傍目にも明らかだ。
卑劣な陰謀と義経を、どうしても結びつけて考えることができないのだ。
だが……
熊野別当もまた、許すまじき仇。
よい機会ではないのか。
誰も、鈍重な下女など疑わない。
今を逃せば、明日はもうあの女は来ないかもしれないのだ。
物陰で始末すれば……。
娘が動いたその時、背後に気配を感じた。
後を取られた?!
次の瞬間、逃げる間もなく、娘は後ろから羽交い締めにされていた。
「いけないよ」
威嚇の声ではない。
咎めるような、甘いささやき声。
ぬかった。
あの女がいるなら当然……
「熊野…別当か…」
「当たり」
つい、と別当の腕が娘の襟の合わせ目に動いた。
反射的に身を固くし、次いで身を捩って逃れようとするが、
別当の腕はびくともしない。
胸元を探った手が迷いなく腿に下り、最後に髪の中に入る。
チ……
微かな金属音をさせて、娘の眼前に細い針が三本差し出された。
「まだこんなもの、持ってたのかい?薊」
終わりだ……。
なぜ、気づかれたのか。
悔しさに、言葉も出ない。
すると、熊野別当は、まるでその考えを読んだかのように言った。
「不思議に思ってる?でもね、簡単なことさ。
オレが、きれいな花を見逃すことはないんでね。
わざと自分を醜く見せようとする若い娘は、
かえって目立つものなんだよ」
浮薄な男……と薊は思う。
同時に、油断ならぬ男であることも、知っている。
だがこうして捕らえておいて、人を呼ぶこともしない。
何を考えている?
まだ、機はあるということか?
すると、熊野別当は驚くべき事を言い出した。
「ここに着物を隠しておくから、明日はそれを着て、
街娘として六条堀川で働くってどう?」
「明日、何か特別なことがあるのか?」
「察しがいいね」
ぎりっと、唇を噛む。
「お前は、兄上を殺した。
なぜ私が、仇の命令を聞かなければならない」
押し殺してはいるが、その声に怨嗟がほとばしる。
「……その通り、オレはお前の敵だ。
でも今、お前は選べない。そうだろ?」
薊の身体を締め付けていた腕の力が、ふいに緩んだ。
さっと身を翻すが、そこにはもう熊野別当の姿はなかった。
薊は背を少し丸め、下女の形に戻って井戸に向かう。
法皇の側にいた白拍子には、その命を狙った罪人として
追捕の命が下っている。
今夜のうちに逃げようか…とも思う。
だが、「選べない」と熊野別当は言った。
薊の正体を知ってもなお、黙っていようと持ちかけたのだ。
言う通りにするならば、という条件付で。
利用された後のことは、分からない。
だが、やっと源氏の中枢に潜り込んだ今、
この機会をやすやすと手放すこともできない。
まだ明るさの残る夕空に、ぽつんと一つだけ、星が光っている。
「兄上……」
薊は熊野の海を思い、その深き水底を思った。
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[9. 京 六条堀川]
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2008.6.21