1. 京 法住寺
秋とはいえ、七月の京は暑い。
緑濃い寺の木々から、絶え間なく蝉時雨が降る。
「早いものよの」
「法皇様の御身をお守りできましたことが、何よりの喜びです」
ゆるり、と後白河法皇は、庭からヒノエへと視線を移した。
今日のヒノエは、神官の衣冠を身につけている。
水軍の頭領ではなく、熊野三山を統べる神職として
法皇に目通りしている、との無言の提示だ。
法皇は微かに笑いを含んだ声で言った。
「だが、ずいぶんと楽しい趣向であったぞ。
熊野別当自ら、あでやかな女房姿を見せてくれるとは」
「どうぞ、あれはお忘れ下さい」
ヒノエは恥じ入ったふりをしてみせる。
元より、ヒノエの芝居を信じる法皇ではないと、分かってはいるが。
「一重に、法皇様に恐ろしい思いをさせまいとの
浅慮から出たことにございます」
「ともあれ、熊野権現の効験、此度はしみじみと感じ入ったぞ」
法皇は、言葉を続けた。
その目は、亀裂の入った柱を見ている。
ヒノエは話題が変わったことを察した。
法皇の言った効験とは、つい先頃、京を襲った地震のことのようだ。
街には多大な被害が出ているが、法皇の周囲には大事無かったという。
「それこそが、法皇様の深き信心の証と存じます」
ヒノエは、深々と頭を下げた。
ヒノエは、京の後白河法皇の居所、法住寺に来ている。
法皇に直々に招かれてのことだ。
ことの起こりはこの夏、後白河法皇が熊野を訪れた時のこと。
その途上、側女の白拍子を使い、法皇を暗殺しようと、
罠が仕掛けられていたのだが、それはヒノエの活躍により未然に防がれた。
しかも、単に曲者を取り押さえたのではなく、
舟競べという法皇好みの舞台までしつらえてみせたのだ。
鮮やかな手際に、法皇はいたく喜び、帰京後、
―― 少しばかり礼をしたく思う。京に来るように ――
との使者を送ってきた。
が、その時ヒノエは、刺客との戦いで深手を負っていた。
そこで傷が癒えるのを待ち、やっと京を訪れたというわけだった。
謁見を追え、その場を辞そうとしたヒノエに、
さも今思い出したように、法皇は言った。
「鎌倉は、熊野に何ぞ言うてきておるか」
法皇の目的は、これなのか…?
「いいえ、何も聞いておりません」
「鎌倉は平家との戦で随分と熊野に助けられたであろう。
熊野水軍の働きぶりは、めざましいものだったと伝え聞くが、
何の報賞も無しとは、解せぬな」
…何が、言いたい…。
「戦にあっては、いつも死力を尽くすものです。熊野水軍も同じこと。
それがどのようなものであったか、自分自身では分かりかねます」
「ほう、そのようなものか。
しかし、惚れ惚れするほどの戦いぶり、鮮やかな勝ち様であったと聞くぞ。
源氏の神子の心までも奪うほどの」
ヒノエの眼が鋭く光る。
ぎりっと歯を食いしばり、心を静める。
そしていつもの熊野別当、ヒノエの軽やかな笑顔で答える。
「白龍の神子に心を奪われたのは、私の方です」
法皇は目を細くした。
「それはそうじゃ。
神に仕える者が神子に心引かれるのは、道理。
余も無粋なことを言ってしまったものよ。
鎌倉からも、追って沙汰があるとよいのう」
そう言うと、下がってよいと、手で合図する。
日が陰り、蝉の声が突然ぴたりと止んだ。
空に黒雲がむくむくと立ち上っている。
「一雨、来るね……」
長い回廊を行くヒノエは、我知らず急ぎ足になっていた。
寺を一歩出るなり、神職の装束をするりと脱ぎ捨てて、
ヒノエはいつもの身軽な出で立ちに戻る。
遠くで雷が鳴っている。
雲の流れを見ると、黒雲は鴨川をかすめて通り過ぎそうだが…。
法皇からの褒美の品々を、三山から供をしてきた神職達に託し、
ヒノエが馬に飛び乗ろうとした時、聞き覚えのある声に呼び止められた。
「ああ〜、やっぱりヒノエくんだね」
山門の脇から現れたのは、景時。
相変わらずの、人をそらさぬ笑顔を浮かべている。
景時には、どうしても会わなければならない用があった。
これで探す手間が省けたというもの。
だが、口には出さない。
「久しぶり。でも、あんたと逢瀬の約束をした覚えはないけど」
「ヒノエくんに似た人が、さっきお寺に入っていくのを見かけたからさ、
そうじゃないかな〜と思って、それで待っていたんだよ」
さっき?
オレが寺に入る時?
ヒノエは記憶の中を探る。
ヒノエ達が到着した時、山門を遠ざかる武家の一行がいたのだ。
その中に景時がいたのに気づかなかったとは迂闊だった。
武家の装束の家紋は、確か……三つ鱗。
北条家か!
………「鎌倉は何ぞ言うきているか」
法皇はそう言った。
「じゃ、オレに用っていうのは、北の方の父君だね」
「えええ〜〜〜っ!」
景時はひどく驚いた顔をした。
「な、何で分かるのお?」
ヒノエはこともなげに答えた。
「考えりゃ分かるよ。で、話は何だい?」
ヒノエの口調に、冷んやりとしたものを感じとった景時は、
手短に要件を話した。
「時政様が上洛してきてるんだ。
明日にでも、六条堀川に来てくれないかな。
引き留めちゃってごめん。用事はこれだけだよ」
しかし、そう言って立ち去ろうとした景時を、
今度はヒノエが呼び止めた。
そして、振り向いた景時の目の前に、花飾りの付いた簪を差し出す。
「……何?」
景時の反応が、一瞬、遅れた。
「これと同じの、見たことない?」
つい…と景時は簪から視線を上げ、ヒノエを見た。
「…ないよ」
「これ、オレの姫君がもらったものなんだ。」
景時は、息を呑んだ。
「望美ちゃん…が……?」
「お気に入りみたいでね、
朔ちゃんにもお揃いのものをあげたいって、探してるんだよ」
「そ、そう…か…」
「この簪、凝った造りでね、こういうのは、京の職人じゃなくちゃできないよ。
景時なら心当たりがあるんじゃないかと思うけど」
「悪いけどオレ…、こういうものには縁がなくてさ〜」
ヒノエは、ひらりと馬に飛び乗り、鞭を入れた。
「確かに、軍奉行殿が知るはずもないってね。
じゃ、明日は九郎の所へ参上するよ」
遠ざかっていくヒノエの後ろ姿を見送りながら、
景時は拳を握りしめた。
政子様……あなたは、どこまでこのオレに…。
そして、景時の背に、ぞくりとするものが走る。
そうだ、これで終わりのはずがない。
これは、頼朝様の意志なのだから。
ヒノエは全速力で馬を駆る。
六条堀川には、今、望美がいるのだ。
九郎の所なら安全だろうと判断したが、もう行かせられない。
一時たりとも、離れていてはいけない。
鎌倉が、動き始めた。
懐に入れた簪が、とても冷たい。
これだけは、知らせたくない、と思う。
知らせれば、望美を傷つけることになる。
後白河法皇暗殺計画の発端は、望美を狙ったものだった。
その時に使われたのが、毒を仕込んだ簪。
それを作ったのは、景時だった……。
[1. 京 法住寺]
[2. 熊野 勝浦]
[3. 京 六条堀川]
[4. 熊野 奥駈道 京 梶原邸]
[5. 奥州 平泉 京 梶原邸]
[6. 京 六波羅 ・ 梶原邸]
[7. 吉野山 京 六条堀川]
[8. 京 梶原邸 ・ 六条堀川]
[9. 京 六条堀川]
[10. 京 法住寺 熊野 勝浦]
「深き緑に
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第1話
2008.6.9 筆