4. 熊野 奥駈道 京 梶原邸
熊野大峯奥駈道。
沖天に上った月が、森の底を淡く照らしている。
常であれば山も深い眠りの中にある頃。
静寂を切り裂いて、剣戟の音が間断無く響く。
気合の声もなく次々に襲い来る者達を相手に、弁慶は一人、薙刀を振るっていた。
相手は、旅人を狙う物盗りではない。
このような刻限に歩き回っている旅人などいないのだから。
となれば、弁慶と知って襲ってきたのは明らか。
勝浦から夜を日に次いで歩き通して来たが、尾けられていることには、
とうに気づいていた。追尾の気配だけ漂わせていたのは、
こちらを急ぎ足にして疲れさせようとの策か。
さらには、足場も悪く、薙刀を使うには狭すぎる場所を選んで…、とは
念の入ったことだ、と弁慶は薄く笑う。
僕だって、無駄に比叡で過ごしていたわけではないんだけど…。
「う…ぐ」
真後ろから来た者を、振り向きもせずに打つ。
返し様に、周囲を短く薙ぎ払い、よろめいた男の足を蹴った。
「うわあぁぁぁっ!」
道から飛び出た勢いで、男はそのまま崖下へと落ちていく。
誰一人その男には見向きもせず、次の攻撃が来る。
弁慶は外套を脱ぐと、目の前の男の頭にふわりと投げた。
一瞬動きの止まった男の横を飛び越し様、外套を掴み、男もろとも振り回す。
「ぐ…」
「この法師…これほどの大力とは」
「心せよ」
弾き飛ばされた男達が、初めて言葉を発した。
「ああ、やっと声を聞かせてもらいました」
気を失った男の頭から外套を外し、身に纏いながら弁慶は言った。
「心して頂くのはいいことですよ」
「減らず口を叩くとも聞いている」
「そうですか。こんな風に襲われて、僕は今、少々機嫌が悪いんです。
そのつもりで…」
ほどなくして、山は静寂を取り戻した。
わずかな月明かりを頼りに、薙刀を杖にして再び弁慶は山道を進んでいる。
とうてい無傷とは言えないが、致命的な深手は負わずにすんだ。
それでも時折、ぐらりとよろめいては、かろうじて踏みとどまる。
しかし外套の下、弁慶は静かな笑みを浮かべていた。
「弱ったな…。背中を押されてしまったようです」
さて、今日の仕事はこれからが本番ってね。
忍び入った小屋の中で、ヒノエの眼が光る。
本当にいろいろあった一日だった。
熊野三山の神職として法皇と謁見。
景時との苦い再会。
そして……
法王との謁見を終えて六条堀川に立ち寄ったヒノエは、
特に異変がなかったことを確かめると、館の中の様子を見て回った。
薊に気づいたのはその時だ。
理由を問うより先に、ヒノエは行動を起こした。
あの娘がなぜ源氏の館にいるのか、その真意は分からない。
だが少なくとも、その目的……あるいは標的は、望美ではないはず。
望美が今日ここに来るなど、知る由もなかったのだから。
しかし、彼女が一度、望美を狙ったことは事実。
仇を目前にして、何か仕掛けても不思議はない。
結局、ヒノエの懸念は的中した。
薊が夕暮れ時を待ったのは、暗殺をこととする者の定石とはいえ、
こちらにとっては幸いだったといえる。
そのおかげで、望美を守ることができた。
そしてさらに……。
だがヒノエの心配をよそに、迎えに出てきた望美は、にこにこと楽しげだった。
朔との偶然の再会に、大喜びだったのだ。
聞けば、朔は毎日のようにここを訪れては、手伝いをしているらしい。
望美は朔と一緒に、ひきもきらずやって来る人々の傷の手当てをしたり
水を運んだりと、今日は一日、忙しく立ち働いたという。
「姫君達をこき使うなんて、九郎も人使いが荒すぎるぜ」
「そうじゃないよ。みんな忙しそうだったから……」
「ふふっ、ヒノエ殿は相変わらずなのね、望美。
ところで、さっきも望美に話したのだけれど、お願いしたいことが……」
朔の申し出は、京邸に泊まりに来てほしいということだった。
景時とあのような再会を果たした後に、望美と二人で梶原邸を訪れるとは
皮肉なものだが、こうして無邪気に誘ってくれた朔は、何も知らないのだろう。
あの景時が、大事な妹に気づかれるようなへまをするはずもない。
景時は今日は戻らないそうだ。
ならば、と、朔の申し出を喜んで受けた。
もちろん大いに下心あってのことだが……。
望美と朔は夕餉の膳を前に、積もる話に花を咲かせている。
ヒノエはそんな二人を残し、さりげなく部屋を出た。
と、聞こえてきたのは、ため息混じりの話し声。
見張りの交代に出向く者達のようだ。
「……景時様もお人のよいことだ」
「おや、お前もそう思っていたのか?」
「お前もか」
「俺もだ」
「拙者も」
「何と、皆、同じことを考えていたとは」
「そのようだな」
「何もあそこまで北条殿に気を遣わずとも」
「全くだ」
その場の全員が頷く。
「ふうん、主のいない間に本音の話か…。ちょっと面白いね」
ヒノエは足を止め、聞き耳を立てた。
立ち聞きされているとも知らず、話は続く。
「そも、梶原家は何代も続いてきた由緒正しき家柄」
「そうだ。鎌倉殿の岳父とはいえ、北条家は伊豆の小豪族にすぎん」
「家格はこちらが上というものだ」
「やはり、途中から鎌倉殿の下に参じたのが…」
「いや、それを言うなら、御家人の中でも、梶原党の他に…」
やはり……そうか。
景時の顔が曇るのは、戦の頃から何度も見てきた。
それは決まって……。
野郎の表情なんて、どうでもいいんだけど…何かあるね。
景時は今日、上洛してきた北条時政に従って、六波羅に泊まっている。
かつての平家の牙城は、京での源氏の新たな拠点として整備されつつあり、
その差配をしているのが景時だ。
となれば、鎌倉の意向を受けてやって来た時政のために、
あれこれ気を配るのは当然と言えば当然のこと。
しかし景時は、まるで時政の臣下のように動いている。
法皇との謁見を終えた時政の従者の列に付き従い、
ヒノエを六条堀川に呼ぶに際しても、使いの者を寄越さず、
景時自らが門の外で待っていた。
郎党達が訝るほどだから、他にも多々あるのだろう。
考えられる答は一つ。
だが、思いこみは禁物だ。
ヒノエは、軽やかな足音を立てて歩き出した。
その気配に、郎党達がはっとして話を止める。
が、すぐにヒノエの姿に気づいて、皆威儀を正した。
戦場で肩を並べて戦った記憶は、まだ鮮明に残っている。
戦勝に多大な貢献をしたヒノエは、大事な客人だ。
「こ、これはヒノエさん…じゃなくて、別当殿」
「久方ぶりにお目にかかります」
「今さら堅苦しい挨拶は必要ないんじゃない?」
「そう仰いますが……あれ?」
郎党達は、怪訝な顔をした。
「お二人を置いて、どこへ行かれるのです?」
「居場所がなくてね」
「どういうことですか?」
「だって、……あれだぜ」
ヒノエは笑って、自分の来た方向を示した。
そちらからは、
明るい声と柔らかな声が混じり合い、こちらまで楽しい心地になるような、
若い娘達の屈託ない笑い声が漏れ聞こえてくる。
「女同士の話に、野郎が割り込むすきはないってね」
「ははは、確かにそうです」
「でも朔様がこんなにお笑いになるとは…望美様に来て頂いてよかった」
「景時様のお留守が悔やまれる」
郎党の一人が、さらに尋ねた。
「して、ヒノエ様はどちらへ?」
「気を利かせて部屋を出たまではよかったんだけどね、特に当てもないんだ。
ここも久しぶりだし、庭でも一回りしてきていいかな」
「ああ、どうぞご遠慮なく」
「じゃ、そうさせてもらうよ」
そして、ふと思い出したように付け加える。
「後は、姫君達の話が長引かないように祈るしかないってね。
オレの行き場が無くなる」
郎党達は笑った。
「ははあ、さすがのヒノエさんも、女人同士のおしゃべりは苦手ですか」
「我ら、いつもの場所に控えておりますゆえ、何なりと。
酒肴も揃えておきます」
「それはありがたいね。じゃあ、後でね」
ほっとしたような笑顔を見せて立ち去るヒノエを見送りながら、
郎党達は口々に言う。
「別当殿は、前より少し、男にも愛想よくなったようだが」
「望美様のおかげかな」
「違いない」
再び笑いながらそれぞれの持ち場に散ろうとした彼らを、中の一人が止めた。
「………気を緩めるな」
「な、なんだ?」
「たとえかつての味方といえど、心を許してしまうのは感心できぬ」
「だが、朔様のお客人」
「それとこれとは別だ。まして今は景時様がお留守」
「ではどうしろと言うのだ」
「戦の間は、望美様をはじめ、さらなる人数がここにいたのだぞ。
それを思えば、別当殿と望美様のたった二人」
「そうはいっても、外の者には違いない。いつも以上に警戒は怠るな」
夕空に星が瞬いている。
涼風が吹き抜け、ヒノエの髪を揺らした。
大きく伸びをしながら、周囲を見回す。
勝手知ったる京邸の庭だからこそ分かる。見張りからの死角は、ほぼ無いに等しい。
前栽の植木の配置、手入れや刈り込みさえも、全て景時が自ら指示しているのだから当然か。
雅を解する景時ならでは……そして、それを隠れ蓑にした軍奉行の実力の証でもある。
庭をぶらついているように見せながら、ヒノエは可能性を探る。
忍び込むなら、薄明かりの残る今しかない。
だがさすがに、居室や執務の部屋は無謀だろう。
郎党の詰め所は以前と変わっていないと分かったが、そこからも近い。
しかし……一か所だけならば。
なぜか詰め所からも母家からも見えない所にある離れ屋。
景時の作ったからくりがしまってあるという。
平時には、そこでからくりを作って楽しんでいるそうだが、
邸の主が死角を承知の上で、そのような場所に籠もるだろうか。
「いや〜、失敗すると、かっこ悪いでしょ。オレってよく失敗するから、
みんなに迷惑かけてもいけないしね」
景時はそう言っていたが、弁慶同様、あの口は信用ならない。
ま……オレも同じだけどね。
そして、最前からヒノエを油断なく見張っている郎党に、軽く手を挙げて挨拶を返し、
離れとは反対の母家に向かって歩き出す。
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2008.7.1