比 翼

− 1 初 秋 −

8. 京  梶原邸 ・ 六条堀川


「え?……望美ちゃんがここに?」
「はい、昨夕、朔様とご一緒に、ヒノ…じゃなくて別当殿と連れだってお泊まりになりました」
「そ、そうかあ」
少し肩を落とした景時の様子に、一人の郎党が険しい顔で進み出た。
「申し訳ありません。早馬を遣わして、景時様にお尋ねするべきでした。 深く考えもせず、お二人をお迎えしてしまいましたが、やはり、差し障りがありましたか…」

しかし景時はその言葉を笑って否定した。
「いやいやいや、そういうことじゃないんだよ。
朔、嬉しそうだったんじゃない?それなのに、ダメだなんて言えないよね。
みんなも、そうだったんでしょ」

「は…はあ……確かに…」
険しい顔つきだった郎党が、決まり悪そうにうなずいた。
「オレも朔の喜ぶ顔が見たかったな。 望美ちゃんたちとも久し振りだしね〜、ゆっくり話ができたらよかったんだけど」

「ええ、景時様もご一緒だったら、と皆で話しておりました」
「それはもう、朔様も望美様も楽しげにお笑いになって…」
「あの別当殿が、居心地悪そうに中座する始末」

「……そ、そうかあ。オレがいたら、話し相手になれたのにね〜」

笑って肩をすくめる景時に、年配の郎党が心配げに言葉をかけた。
「しかし、景時様には大変にお疲れのご様子。
しばし御休息召されてはいかがかと」

「う〜ん、オレそんなに疲れて見えるのかな〜? でも昨日から留守してたしね、仕事が溜まってるから休んでもいられないんだよ」
「しかし景時様…」
「時政殿は遠慮というものをなさらぬお方なれば、上洛以来景時様には無理難題の数々を…」
「これ!滅多な事を言うでないぞ!」
口を滑らせた若い武士を、年かさの者が慌ててたしなめる。

そんな様子を見た景時は、その若者に向かって励ますように言った。
「ありがとう、心配してくれて。でも、お役目は果たさないとね」
「はっ!」
若者は頬を紅潮させて頭を下げる。

「な〜んて、かっこいいこと言っちゃったけど…」
そう言うなり、景時がくるりと向きを変え、庭の方へと歩き出した。
「あ、どちらへ?」
「せっかくだから、少しのんびりしてくるよ」
「え…?」
「のんびり…ですか」
「うん、久しぶりにからくりをいじってくる。
気晴らしには、これが何よりなんだ」

飄々として立ち去る景時を、半ばほっとしながら郎党たちは見送った。 景時の連日の激務を、一番よく見知っているのは彼らだ。 しかし背を向けて去っていく景時の眼を見たなら、安堵の思いは吹き飛んだことだろうが。


庭の隅のからくり小屋の扉を開くと、かすかな埃の臭いがした。 ここにはしばらく足を踏み入れていない。
長身の景時が手を伸ばしてやっと届くほどの高さにある明かり取りの蔀を上げる。 光が射し込み、小屋の中が明るくなった。
一様に降り積もっている埃の上の、あちらこちらに拭われたような跡。
人が入ったことは間違いない。しかも その人物は、進入の形跡を隠そうともしていない。

「中座した……か。何の目的もなく、ここに来るはずもないよね」

道具箱の中もあらためられている。からくりの部品の位置が変わっているので、すぐに分かる。

人前であれば、はでにため息をついてみせるところだが、 今はその必要のないことが救いだ。
景時は箱を元の場所に戻し、その姿勢のままうつむいて眼を閉じた。

今の状況を、ヒノエの立場から見てみる。

彼が掴んだのは、簪に細工をしたのが他ならぬ景時自身であるということ…。 それだけだ。
簪が望美の手に渡るまでの経緯を、どれくらい分かっているのだろうか…。 つまりは、景時が関わったからといって、 それがすなわち源氏が背後にいるという証拠とはならないはず。

しかし……
景時は小さく首を振った。
これは詭弁だ。
熊野での一件は、景時も耳にしている。それを考えるなら、 聡いヒノエのこと。 これだけの材料があれば、確信を得るに十分なのだから。
となれば、その次にヒノエがすることは……。

ふっと小さくため息を漏らして、景時は眼を開いた。
と、その視線が、床に釘付けになる。

床板に沿って動いた指の跡。 それは過たず、隠された形をなぞっていた。

景時の額に、汗が滲む。
鼓動が速くなる。

ならば、あれにも気づいたか…?!
床に膝をつき、壁に埋め込まれた玉を一つ一つ確認する。

持ち去られた玉が無いことを確かめて、景時は安堵の吐息を漏らし、 そのまま床にぺたりと座り込む。

目を上げれば、外界の光が、棚に置かれた発明品やからくりの数々を明るく照らしている。 何もかも忘れて没頭できるもの。 ひとときの逃避の産物たち。

ここは、オレのための小屋であって、そうでない場所。

ヒノエくん……この形に気づいたんだね。

平家との戦で見せた縦横無碍な機略の数々が、ヒノエの並外れた洞察力に由来する ものであることを、景時はよく知っている。

だったら、もしかすると……。

痛いほどに拳を握りしめ、景時は激しく頭を振った。

いや……希望なんて…あるはずがない…。

でも……

景時はかすかに自嘲の笑いを浮かべた。

何してるんだろうな、オレ……。
気休めみたいなものなのに。

それでも、なぜだろう。
気づいてくれて、よかったと思う…オレがいる……。



* * * * * * * * * * * * * * * * * *



薊は苛立っていた。

いつもよりずっと多く、用事を言いつかる。声をかけられる。 後を追われ、話しかけられる。

この姿形のせいか。

別当の言葉通り、昨日の場所には着物が用意されていた。 質素でありふれた街人の着る物だ。だが常日頃纏っている、人が目を背けるようなみっともない着物とは違う。
つきまとう若い男達を、恥じらっている風を装い適当にあしらいながら、薊は内心舌打ちする。

逃亡中の身にとって、人からの視線ほど疎ましく恐ろしいものはない。

さらに薊を苛立たせているのは、熊野別当の女だ。
このような場所で貧民街人に混じって働く身分でもないだろうに、 物好きにも、またやって来た。しかも、たった一日ですっかりなじんだ様子で、 周囲に親しげに声をかけては、明るい気を漣のように広げていく。

一度失敗したとはいえ、仇を目の前にして心穏やかでいられるはずもない。 二度目はないと高をくくっているならば、熊野別当はとんだうつけ者だ。
一撃で致命傷を与えられる毒針は別当に奪われたが、 武器はあれだけではない。

懐に忍ばせた短剣の感触を確かめ、手桶をかかえて立ち上がった時、 思わぬ声が薊を呼び止めた。

「着物を替えたのね。よく似合っているわ」

ぎくりとして、手が震えた。水が桶からチャプンと音を立ててこぼれ落ちる。

振り返った一瞬、鋭い眼をしてしまっただろうか。
静かに微笑んでいるのは、毎日やって来る尼僧。 確か、朔…というのだった。

優しく穏やかな笑みを絶やさず、館の武士達にも街人達にも、 一様に深く慕われている。 汚い形の薊とも一度ならず言葉を交わしていたが…。

返事の言葉を探しあぐねている薊に、朔は何事もないかのように続けた。
「何か事情があるのでしょう。あなたを困らせるつもりはないの。
ただ、きれいな様子をしているあなたを見てうれしかったものだから、
つい声をかけてしまっただけなのよ」

……怪しい女に平気で声をかけて、しかもうれしい…だと?

その心を見透かしたように、微笑みながら朔は言った。
「あなたが悪い人だとは、どうしても思えないの。
あなたの働きぶりを見ていたら、分かるわ。
人の痛みが分かる人に、悪い人がいるはずがないもの」

くっ……!

薊は逃げた。
いたたまれなくなり、童のように駆け出した。

九郎義経を仇と狙って、下女として六条堀川に潜入した。 だが、傷ついた人々に接した時、その姿が故郷の人々と重なってしまったのだ。 彼らが戦の中で倒れていくのを、幼い薊はただ見ているしかなかった。

今、それを取り返すことはできない。 だが、目の前で苦しむ人々の痛みを少しでも和らげることができるならばと、 いつしか一所懸命働くようになっていた。
鈍重さを装いながらも、すぐに手当の必要な者、痛みや心細さに折れそうな者には、 必ず手を差し伸べてきた。
見ていたのか……気づかれていたのか……。

敗北感と、かすかなうれしさ。

だめだ!!

感情を、押し殺す。
周囲に油断なく眼を走らせる。
源氏の武士の動きに、異変はないか?

あの女の言葉が偽りでないと、どうして信じられる。

昨日までの汚らしい下女が、今日は街娘の格好をして別人として現れたとなれば、 怪しまれ、捕らえられて当然。
熊野別当は、それを企んでいたのかもしれない。 薊の正体を暴くのも、捕らえるのも、あくまでも源氏。 熊野は関わらぬ…と。

ひどく動揺した薊は、前方を行く娘が振り返ったことにしばし気づかなかった。
その娘がきびすを返し、自分の方に歩いてくるのを見て、初めてそれが熊野別当の女と気づく。

咄嗟に懐の短剣を握る。しかし軽やかに歩く娘には、一部の隙もない。

視線が合う。
歩みを止めることはできない。
どちらも真っ直ぐに歩を進め、向かい合って止まった。

近くには、誰もいない。 先に口を開いたのは、娘の方だった。

「薊さん」
「………」
黙ってにらみ返す。返事をする気など、ない。

「あなたに会ったら、これだけは言おうと思っていたの」
「………」
短剣を一振り。それで終わるはず。なのに、動けない。
娘の放っているのは、殺気ではない。しかし、痺れるほどの力が薊を押さえている。

「薊さん」
「………」
「あなたの故郷に……」
「………」
「熊野に、帰ってきて」

「………正気…か」
思わず、掠れた声をぶつけた。

真剣な眼差しが返る。
「あなたが傷つき続けることはないと…思う」

「ああそうか……別当の差し金か」

娘は静かにかぶりを振った。
「ヒノエくんには、まだ話してないよ。
でも、私はそう信じてる。ヒノエくんも説得する。だから…」
「仇の情けにすがれ、と言うのか?」
「あなたの誇りを傷つけるつもりはないの。
でもあなたが帰ってきたら、熊野はあなたを迎える。
約束するよ」

それだけ言うと、娘はその場を離れていった。

「おお〜い!女達は、庭に集まれ!」
若衆の呼ばわる声が聞こえてきた。

薊は、木偶人形のようにその言葉に従い、庭へと足を向ける。

心の中を、何かがごうごうと音を立てて流れていく。
那智の滝のように激しく渦巻き流れていくのは、何なのだろう…。

悪いのは誰か。
仇を討つとは、何か。
自分は何をすべきなのか。
兄上達の為そうとしたことは、どういうことだったのか。

自分は、何を信じればいいのだろう…。

答えの出ない問いを、薊は繰り返し己に問うていた。




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2008.7.25