10. 京 法住寺 熊野 勝浦
夕風の吹く中、名残惜しげな蝉が耳痛いほどに鳴いている。
「頼朝なる者、ほんに動かぬが…」
後白河法皇は、独り言のようにつぶやいた。
朝議の決定を聞いて、の言葉だ。
全国惣追補使と、国主の任命権が、頼朝に与えられることになった、と。
その報せをもたらした下級貴族が答える。
「全くにございます。
戦に出たは、旗揚げの後のほんの数回で、それより先は戦は弟任せ。
自分は鎌倉に居座ったままとは、戦を生業とする武士らしからぬもの。
とは申せ、今度ばかりは上洛してきましょう」
「そう思うか?」
「幼き頃であっても一度京に暮らした身なれば、
実権ばかりでなく官位もまた、強く願っているなず。
なれば、それを授けられる機を逃すことはないかと」
「ほほう、確かに平家に代わる力を頼朝が手にするは間近じゃ」
「はい。その暁には、かつての平家に準ずる位階を与えれば…」
そう言ってから、若いその貴族は出過ぎたことを口走ったことに気づき、がばと
その場に平身低頭した。
ちらりと冷たい一瞥をくれると、法皇は聞かぬ振りをして話を続ける。
「源氏が平家と同じ過ちを繰り返すものかのう…」
明らかに返事を求めている。しかし、どう答えればよいのか分からない。
貴族の男はおそるおそる同じ言葉を繰り返した。
「過ち…でございますか?」
「宮中の甘き毒に取り込まれるという、過ちよ。しかし」
「はい…」
下級貴族は、法皇の真意が理解できぬまま、黙って次の言葉を待つことにした。
「今の源氏の血筋には、かつての平家のような傑物が揃ってはおらぬ。
使えるのは、九郎義経くらいのものか。
それより前に、頼朝なる者が、清盛のように一門の繁栄を第一に願っておると、
決めつけることはできぬぞ」
「……一門が第一ではない?…果たしてそのような者がいるのでしょうか」
戸惑って首をひねる貴族に、法皇は可笑しそうに目を細めた。
「人には、悪鬼のような者もいれば、生き仏のような聖人もいよう。
どんなことを考える人間がいたとて、余は驚かぬぞ」
「法皇様のご慧眼、感服いたしました」
「分かった振りなどせずともよい。
鎌倉からは動けぬと言うても、陰で動くは得意な男。
決して油断ならぬ、ということじゃ」
「動けぬ…ですか?」
「その通り、頼朝は鎌倉から動かぬのではない。動けぬのじゃ。
今は、上洛よりもそちらの方が頼朝には大事と見える」
「しかし、平家も滅んだ今、何故に…」
法皇は金色に輝く入り日を指した。
「浄土は奈辺にあるか知っておろう?」
「はい、阿弥陀浄土は西方の彼方に…と」
「しかし、浄土は西方ばかりではないのだぞ」
黄金のまばゆき浄土は、北にもある。
それこそが、頼朝の背後にのしかかる広き大地。
百年の時を越えて続く、源氏因縁の地。
北の浄土と南の補陀洛浄土。
どちらも強大な力を持つ。
頼朝は、和を結ぶのか、それとも……。
夜風が涼しさを運んでくる。
簀の子に触れた素足に、冷んやりとした感触。
……もう、秋なんだね。
初めて迎える熊野の秋だ。
不思議だな。
しばらく京に行っていただけなのに、この潮騒の音がとてもなつかしい。
望美は眼を閉じ、ざわめく波の音に一心に耳を傾けた。
だがいつの間にか、京での出来事を思い返している。
幾つもの懸念、幾つもの不安が次々と心をよぎっていく。
望美がヒノエと共に熊野で生きると決めたこと。
それが、源氏の神子を熊野が奪ったとして、頼朝の不興を買っているという。
戦が終わったというのに、今度は自分が勢力間の争いの元になるのだろうか。
そして薊のこと。
時政が六条堀川に来た翌日から、彼女は姿を見せなくなった。
今も暗い復讐の思いを抱きながら、どこかに身を潜めているのだろうか。
弁慶はとうとう、京には戻らなかった。
「全く困ったやつだな」
九郎は笑いながら言っていたが、その実、誰よりも弁慶のことを案じているのが分かる。
もちろん、弁慶の行方については熊野に帰ってきて真っ先に尋ねた。
しかし、勝浦を出立してからかなりの日が経つという。
とうに京に着いていてよい頃だ。
また行き違いになったのだろうか。そうならばよいのだが…。
そして心残りなのは、とうとう景時と会えなかったことだ。
忙しいとは聞いていたが、見事なほどにすれ違い続けた。
朔に、よろしく伝えてと頼んで帰ってきたけれど、やはり残念だ。
『いいんです、忘れて下さい…。
人間、先のことなんて知ってても、いいことなんてないですから』
ふいに、譲の言葉が記憶の底から浮かび上がってきた。
元の世界に帰っていく前に、望美に語ったこと…。
『神子とか龍神とか怨霊とか、この世界は俺たちの世界から見たらめちゃくちゃだけど、
なぜか歴史はそっくりなんです。だとすれば、この先……』
……くしゅん
風の冷たさが急に身に染みて、望美は身震いした。
その時、
「寒いのかい、姫君」
耳元に、からかうような声。
「ヒノエくん!」
驚いて振り返るより早く、暖かい腕に抱かれていた。
「もう、お仕事は終わったの?」
勝浦に入るなり屋敷に戻る暇もなく、ヒノエは
待ちかまえていた水軍衆に連れて行かれてしまった。
留守の間に溜まりに溜まった仕事があるからと、
大きな身体を丸めて、副頭領は望美に向かって幾度も詫びたのだが…。
「まさか途中で…」
「そんなことは、言いっこなし」
唇が重なり、望美の言葉が途切れた。
「ん…もう…ヒノエくんてば、誰かに見られたら…」
「魚のエサになりたいヤツなんか、ここにはいないさ」
草叢の虫の声が何だかとても大きく響く。
潮騒が遠く近く、轟く。
冷たい風と熱い吐息が混ざり合う。
「波の音が…好き」
「オレのことは?」
「もっと好き…」
二人とも、嵐の予兆を感じていた。
平穏を望んでも、嵐は来る。時は動く。
けれど二人なら、きっと乗り越えられる。
そう信じている。
離れる時が近づいていることを、未だ知らない二人だったから。
[1. 京 法住寺]
[2. 熊野 勝浦]
[3. 京 六条堀川]
[4. 熊野 奥駈道 京 梶原邸]
[5. 奥州 平泉 京 梶原邸]
[6. 京 六波羅 ・ 梶原邸]
[7. 吉野山 京 六条堀川]
[8. 京 梶原邸 ・ 六条堀川]
[9. 京 六条堀川]
[10. 京 法住寺 熊野 勝浦]
長編になるかも、と思いながら書き始めた物語ですが、
やはり長くなりそうです。
第1章は、伏線をばらまいただけに終わったような(汗)。
ヒノエ×望美を掲げているのに、最後だけちょこっと糖分補給という無愛想っぷりですが、
神子様達からの暖かな応援に元気づけられて、章末までたどり着くことができました。
先はまだまだ長いですけれど、クライマックスの絵は脳内にしっかりできていますので、
それに向かって少しずつ、進んで行きます。
第2章では、あんな人やこんな人も出てきます。どうぞお楽しみに。
2008.8.1