9. 京 六条堀川
北条時政は、堀川館の長い渡殿を歩いている。
強い日差しと照り返しに目がくらんだかと思うと、小暗い日陰で
一瞬の暗闇に視界を奪われる。
絶え間ない蝉の声と、建物の向こうから聞こえてくる人のざわめき。
ふと、非現実感に襲われる。
暑さのせいか、くらくらする光のせいか、それともとりとめもなく続く音のせいか。
時政は、北条家がまだ伊豆に在った時のことを思い出していた。
あれは野分の次の日………今日と同じく、とても暑い日だった。
同じように視界がおぼつかなく、音ならぬ何かが耳に届いたのだった。
『一度は、言うことをきいて差し上げましたのよ。
これで、お父様の気はすみましたでしょう?』
「気が済むすまぬの問題ではない!全く何ということをしてくれたのだ。
山木判官殿の顔を潰すは、平家に楯突くことぞ。その意味が分かっておるのか?!
先のしれぬ一介の流人風情に、お前はどこまで…」
すっと細められた眼が、狐火のような青白い光を放ったと見る間に、
何もない中空から、冷たい刃が首に触れた。
幻覚ではない。確かにそこに刃があると分かる。
しかし太刀であれば、触れるのは一点のはずだが、
その見えぬ刃は、細い糸が絡みつくように、
ぐるりと首を取り巻いていた。
『ねえ、お分かりになりませんか、お父様。
頼朝様のお味方につけば、この北条家はいずれ、
天下に名を馳せるようにもなりますのよ』
我が娘であって、我が娘とは違う何かが、赤い唇からその言の葉を紡いでいた。
もしも逆らったなら、
そのものは躊躇なく、この首に刃を突き立てただろう……。
「時政殿!」
「ご気分でもお悪いのですか?」
突如声をかけられ、自分が立ち止まっていたことに気づく。
前方では熊野別当が立ち止まり、こちらを振り向いて待っていた。
「何でもない!」
声を荒げ、ずんずんと歩き出す。
不覚であった。
あの生意気な若造の眼に浮かんでいたのは、揶揄するような色か。
心中、穏やかではない。
何を思っていたかなど知られるはずもないが、
落ち着き払ったあの態度が、どうにも癇に障るのだ。
「皆の者、時政様であるぞ!」
若い武士の呼ばわる声に、
裏手の庭では、数十人の男女が地面に膝をつき、一斉に頭を垂れて時政を迎えた。
頼朝の岳父への当然の礼として、九郎が心利く者を先触れとして走らせていたのだ。
女達は後方の出入り口の近くにいる。
時政は庭を見渡し、九郎もよくぞここまで雑人を集めたものよと思う。
人心の掌握に長けているのは確かなようだが、民の歓心を買ったところでどうなるものか。
だが都の貴族の間にも、九郎を頼る者が少なからずいることも事実。
官位の沙汰についても、幾度となく聞いている。
しかし熊野別当の妻女ともあろう者が、本当に街娘やら下女やらと共にいるというのか?
時政の訝しげな視線に、ヒノエは軽くうなずいた。
「ああ、あそこにいるのがオレの神子姫様だよ」
で、どの娘が神子なのだ、と言いかけた時、ヒノエが言葉を続けた。
「どの子か、分かるかい?ま、すぐに呼んでくるけどね」
そしてそのまま、鍵の手になった廊下を曲がって行ってしまう。
オレの…か。いい気なものだ。どこまでも浮薄な男よ。
不機嫌に手を振ると、先ほどの若い武士がかしこまって礼をして、
「持ち場に戻れ!」と再び号令をかけた。
その声に皆一斉に立ち上がり、わらわらと散っていく。
顔を上げた女達を、時政は素早く見渡した。
『分かるかい?』とは、分からないだろうと言われたも同然。
板東武者には若い娘を見る目がないと、侮られてなるか。
ヒノエの一言で、時政は女達の中から白龍の神子を探し出そうという
心づもりになっている。
女達の中に、年頃の娘が三人いる。ふむ、それぞれに美しい顔立ちだ。
一番に時政の目を引きつけたのは、周囲の者と楽しげに話す娘だった。
とりたてて何が、というのでもないが、なぜかその娘に目が行ってしまう。
しかし、神子かもしれぬ…そう思った時、
その娘は、隣の尼僧と何やら小声で言葉を交わしたと見る間に、
ぱっと駆けだして行ってしまった。
何とたしなみのない娘だ…。あれでは神に選ばれるはずもない。
時政はあきれた面持ちのまま、次に、その娘と話していた尼僧に目を向けた。
出家の身となれば、熊野別当の妻ではない。しかし、穏やかで落ち着いたよい娘だ。
僧形であるのが惜しまれる。
そこで時政は膝を打った。
あれは、梶原の自慢の妹ではないのか。
毎日のように堀川に行っていると、景時が言っていたような気がする。
黒龍の神子である、と聞き及ぶが、確かに神子たるにふさわしい雰囲気を備えているものだ。
時政は苦笑した。先の娘とは大変な違いだ。
となれば、白龍の神子は残る一人。
街娘の姿をしてはいるが、この時政の目はごまかせぬ。
たおやかで滑るような動きは、舞を思わせるではないか。
白龍の神子は、神泉苑で見事な雨乞いの舞を披露したと聞く。
そうだ、あの娘こそ、白龍の神子に相違ない。
時政の視線に気づいた娘は、顔を伏せ、足早に立ち去った。
その時だ。
「時政様、はじめまして。春日望美です」
急に声をかけられ、無礼な女め、と振り向いた。と、そこにいたのは先程駆けていった、たしなみのない娘。
鎌倉の御家人、北条時政を眼前にして物怖じした様子もない。
そしてその後ろから、熊野別当がすっと姿を現す。
「オレの姫君だよ。すぐ分かったかい?」
……「まことか?!」言いかけて、その言葉をぐっと飲み込む。
しかし時政の顔に浮かんだ驚きの表情は、隠しようもないものだった。
「弁慶の居所は分かったか?!」
「申し訳ありません。熊野に向かったのは確かなようですが、その先は…」
「そうか…」
同じ日の夕刻、九郎は館に戻ってきたばかりの家人と
相対していた。
その家人は長年の九郎の腹心で、弁慶とも親しい。
九郎が私的に弁慶の行方を探すために送り出していたのだが、
取り立てて成果の得られぬままに戻ってきたのだった。
「もっと時間があれば、熊野まで行ってきましたものを…」
家人はひどく口惜しそうだ。それは、九郎とて同じ気持ち。
しかし、それを嘆いてみても始まらないことも、分かっている。
平家との戦の後、弁慶は、九郎の軍師という立場を辞した。
五条で診療所を営み、源氏とは距離を置いている。
従って、探索はあくまでも私的な事柄なのだ。
まして今は源氏が京で足場を固めつつある大事な時期。
時政の上洛も重なり、鎌倉に関わることでもなく、
杞憂といわれればそれまでのことに、
これ以上時間も人手も割く余裕はないのが実情だ。
それが九郎にはもどかしい。
軍師の座を去ったとしても、弁慶との縁が切れることはないと信じている。
「どうした、弁慶…。今、どこにいる」
ちりちりとした胸騒ぎが、日を追うごとに焦燥となっていく。
京に来ているヒノエと入れ違いに熊野に入ったまでは分かるとしても、
出立前に弁慶自身が戻ると言った時期はとうに過ぎているのだ。
熊野とは縁を切ったと言いながらも、弁慶がふらりと彼の地に行くことはこれまでにも
あった。それが長逗留になることも珍しくはない。ならば今回も…と思えばよいのだろうが、
どうにも解せないのは、なぜこの時期に、ということだ。
京には今、怪我人、病人があふれている。
五条の診療所にも多くの街人が詰めかけていた。
それを長らく放っておくなど、弁慶らしからぬこと。
この時の九郎には、吉野の山に隠れ潜む弁慶の窮状など知る由もなく、
まして我が身に迫る危機を察する術も持ってはいなかった。
[1. 京 法住寺]
[2. 熊野 勝浦]
[3. 京 六条堀川]
[4. 熊野 奥駈道 京 梶原邸]
[5. 奥州 平泉 京 梶原邸]
[6. 京 六波羅 ・ 梶原邸]
[7. 吉野山 京 六条堀川]
[8. 京 梶原邸 ・ 六条堀川]
[9. 京 六条堀川]
[10. 京 法住寺 熊野 勝浦]
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2008.7.30