比 翼

− 1 初 秋 −

7. 吉野山  京 六条堀川


空が…青いな。

弁慶は遙か上方を振り仰いだ。
ここは深く切れ込んだ谷底。 屹立する崖と、その上にそびえ立つ木々に挟まれた空は、高く遠い。

微風にのって、崖の上から人の声が聞こえてきた。 川の流れで素早く傷口を清めると、弁慶は身を翻し、崖に穿たれた洞穴に入る。 しかしその動きには、常のような速さがない。

刺客との戦いで受けた傷が原因だ。脇腹の傷が思った以上に深く、 そのために、こうして身を隠しながらの足止めを余儀なくされているのだ。

前の刺客が戻らないことが知れれば、第二の討ち手が放たれる可能性がある。 今この時点で見つかったなら、いかに弁慶といえど、逃れることはできない。
ここは吉野の修験者の領域。険峻な道を行き交う者は少ないが、 追っ手がこの道を来ることは十分にあり得る。 彼らとて、獣道ばかりを選んで進むわけではないのだ。

神経をすり減らすような、孤独な時間が過ぎていく。

吉野に通じるこの一帯は、多雨で知られる所。 一度雨が降れば狭い谷は水かさが増し、あっという間に川辺の洞穴は水没する。 雲の流れ、空気の匂いから、片時も注意をそらすことはできない。 そして、かすかに轟く雷鳴さえも聞き逃せない。 夜ともなれば、火を焚くことができぬゆえに、獣に襲われる危険と隣り合わせだ。

さらには、ここにいる限り、京の様子は皆目分からない。 内通者の自白から、弁慶も、湛快と同じ結論に達している。 しかし湛快と弁慶とでは、寄って立つ場所が全く異なるのだ。 弁慶にとって、事態は切迫していると言っていい。

僕には、あとどれだけの時間があるのだろう。

焦りの気持ちが無いといえば、嘘になる。
しかし弁慶は、これだけの重圧を受けながら、微塵も憔悴してはいない。 むしろこの危機にあって、心の奥底の熾き火がかき立てられた…と言うべきか。 かつての、荒ぶる鬼若の顔が、そこにある。

時を読むのも、軍師の仕事のうち…か。

弁慶は小刀を取り出すと、洞穴の奥に焚いた火の中に刃先を入れた。

京を発つ前に、九郎と少し話をした。
それによれば、今はちょうど北条時政が京に来ている頃だ。 まず鎌倉が欲しいのは、守護地頭の任命権。時政の上洛は、 その手筈を整えるのが目的と見て間違いないはず。 ならば、それを得ないままに大きな動きをすることはできない。
だが、熊野の自壊を狙ったように、目に見えぬ所でならば……。

軍師として合戦に臨めば、敵の手の裏の裏の裏を読むこともできる。
だが今の弁慶には数手先を読むための材料すら、 無きに等しい。熊野で得た情報が、唯一、有利な点か。

あまりのんびりは、できませんね。

一度外に出て風の方向を確かめ、洞穴に戻る。
傷だらけの上半身には、何も纏っていない。 さらに袴を脱ぎ下帯を下げて、脇腹の傷に当てた布を取り去る。 そして脱ぎ捨てた衣の袖を裂くと、固く縒り合わせ轡にして己が口に噛ませた。

弁慶は自らに、荒療治を施すつもりでいる。

出血の止まらぬ傷口が、化膿し始めた。 これ以上、放置できない。

川の水に浸した布で、脇腹の血膿を拭うと、 弁慶は火の中から灼けた小刀を取り上げた。
傷口を焼くことで、出血を止めようというのだ。 火傷でさらなる深手を負わぬよう、素早く、しかし十分に焼かねばならない。 失敗した時のことなど、すでに念頭から消し去っている。

今は、こうするしかない。

心の中で小刀を動かし、その軌跡をなぞってみる。
そして躊躇いなく、灼けた刃を自らの脇腹に押し当てた。

「ぐ!!!あ……ぅぅ……」
悲鳴を押し殺す。
焼き切った場所を確認すると、その手から、まだ熱い小刀がぽろりと落ちた。

首尾は上々…かな……。
嵐が来る前に……戻らなくては……なりませんから…。

荒い息の奥で、弁慶はうっすらと笑った。



* * * * * * * * * * * * * * * * * *



若い…!

北条時政は、熊野別当なる男を一目見るなり、苦笑した。

才に溢れた切れ者と聞いてはいるが、幸運も手助けしたのだろう。
時の利を得る者は、戦には必要。 それがたまたま、この男だったというわけか。
水軍を率いる戦場にあれば、精悍な一面を見せるのだろう。 そして常の様子は女と見まごうばかりの面立ち。 神子といえど、若い娘ならば、この若造に熱を上げ、 乞われるままにその元へと走るのも仕方のないことか。

そういえばこの男、法皇の眼前で、女房装束を纏ったまま曲者と立ち回りを演じて みせたと聞いた。よほど目立ちたいのだろうが、ずいぶんと軽々しいことよ。 関東武士であれば、とうに討たれていることだろうに。

値踏みするかのような視線の前で、ヒノエは泰然としている。
源平の戦いで、ひとかたならぬ戦果を上げた熊野に対し、 その報賞を問われても、答は本領安堵のみ。 時政には、それがひどく気に入らない。

「熊野別当殿は、何か勘違いをされてはおられぬか」
「何のこと?」
「自信ありげな態度でいらっしゃるが、それも分からぬとは、 困りもの。熊野が安泰だと信じて疑っておられぬ様子だが」
「時政殿、それはあまりの仰りようでは…」
同席した九郎が思わず言葉を挟むが、時政はそれにかまわず続ける。

「そもそも頼朝様から大いなるご不興を買っていること、ご存知ないとはあきれ果てる」
「はっきり言ってもらえるかな」
「源氏の神子を連れ去りしこと、心に微塵の咎めも感じずにおられるか?」
「もちろんだよ」
自惚れた小わっぱが、自ら墓穴を掘ったか。
「源氏の神子は源氏の元にあるのが当然。
それを奪うは、頼朝様に刃向かうも同然ではないか」
しかしヒノエはさらりと答えた。
「分かってないのはどっちだい。
源氏の神子なんて、最初からいない。それはただの呼び名だ。
白龍の神子が、真の名前だよ」
「し…しかし、源氏のために神が遣わした神子ではないか。
ならば…」
「あの白龍にとっては、熊野も源氏も平家もないさ。
源氏方についたのだって、最初に九郎と出会ったからだしね。
だったら、その幸運を喜ぶべきじゃない?」

「ぐ…く、九郎殿も、不甲斐のないことだ」
「え?私…ですか?」
突然矛先を向けられて、九郎は驚いた。
「許嫁だったのであろう。それをおめおめと」
「あ…ええと…それには訳が……」

たとえ方便とはいえ、法皇を騙したなど、口外できるものではない。
あの時の仲間内でならばともかく、九郎とても、時政に対しては 薄々信じ切れぬものを感じている。

口籠もった九郎から、時政は顔をそむけ、ヒノエに向き直った。 別段ここで九郎を追いつめる必要もない。
「別当殿は大層お口が達者であられるが、覚えておかれることだな。
戦での抜群の働きなくば、その所行、許し難しと」
「で、他には何かあるのかい?」
「御台様ご上洛の折に、追って沙汰があろう。
本領安堵するもせぬも、鎌倉殿の御心一つぞ」
「へえ、北の方自らお目見えとはね」
「遠いことではない。心しておくことだ」
「じゃあすぐに、神子姫様にも伝えておくよ」
「みこ…ひめ?」
「ああ、白龍の神子も、今日ここに来てるんでね」

「まことか?九郎。聞いておらぬぞ」
時政は気色ばんで言った。
熊野の元に降ったとはいえ、あれだけの働きをした神子の近くまで来ておきながら、 会わずにすませるわけにはいかない。 神に選ばれし神子とはどのような娘か、という好奇心もある。

「すみません。申し遅れました」
九郎の詫びの言葉を切って、時政は急かした。
「で、今はどの御座所に?」
「裏の庭で、街人達に水を配っていますが…」
「何?!」

神子に下働きをさせるのか、そもそも、なぜ源氏の館を街人などに開放するのか…と 言いかけるが、その言葉を制するように、軽やかにヒノエが立ち上がった。
「案内しようか?」
「む、では」
つられて時政も立ち上がる。

つい、と歩き出したヒノエの顔に浮かんだ表情は、時政からは見えない。

短い会見の中で、ヒノエは、はっきりと理解していた。

時政の言葉は、鎌倉の意を受けたもの。
報賞の件は、単なる形に過ぎない。

退かないぜ……オレは。

吹き抜けていく微風に、ヒノエの耳飾りがかすかに揺れた。




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[8. 京  梶原邸 ・ 六条堀川]  [9. 京 六条堀川]
[10. 京 法住寺  熊野 勝浦]

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2008.7.16